母の闘病などを記録に残しておきます。
4月5日(水)
午後から様子がおかしいとの病院からの連絡。
40度の発熱があり、
導尿するとはじめは澄んでいたがお腹を押すとドロドロの尿が出てきたそうだ。
腎盂腎炎の可能性があり、肺炎も併発、敗血症の危険性あり。
4月6日(木)
午後からの面会ではよく話してくれた。
夕方行くと血圧が低く、意識がはっきりせず血糖値も測れないほどに下がる。
四人部屋から個室に移動する。
午後6時頃に父を呼ぶ。
時々意識が戻る。
面会時間の午後8時に帰宅。
4月7日(金)
病院からの呼び出しの電話がなく朝を迎える。
母を見舞うと目がしっかり開いていて会話ができる。
東京の叔母、名古屋のKさん(甥)が見舞いに来てくれる。
夜、姪が仕事を終えて会いに来てくれる。
妹と姪が近くに食事に行った後、母の目に涙が光っていた。
4月8日(土)
病院に着くと顔が赤く、酸素マスクをしていて息苦しそうにしていた。
午後4時過ぎに看護師さんが処置をするというので退出。
4時半に父を呼ぶ。
午後5時過ぎに父が病院に来るが処置が続いていた。
熱が40度もあったそうで解熱剤を入れてもらう。
薬がきいたようで落ち着いてくる。
息は、まだ苦しそうだったけど話ができるほどになる。
午後8時に病院を退出。
今日は、姪がいてくれたので心強かった。
4月9日(日)
日曜日なので午前11時に行くと、酸素飽和度が90を切ってアラームが鳴り続けていた。
咳も頻繁に出ていて痰が絡んでいるためのようだった。
夕方5時位に行くと酸素飽和度は90を超えていたが、
最高血圧が70、最低血圧が47などでアラームが鳴り続けていた。
そんな中でも母は時々目を開けて酸素マスクの中から声を出そうとしてくれた。
尿の色が赤っぽかった
4月10日(月)
主治医との面談で
4月7日の血液検査や肺のレントゲンを見せていただく。
母さんの血液や痰からも菌が検出され
肺も全体に白く水がたまっていると告げられた。
敗血症にもなっているようだ。
三人の決断はもうこれ以上、母に苦痛を与えたくないというのが共通の思い
一時ぐらつきかけたが主治医の言葉に決心する。
一旦家の様子をみるために帰宅しようと運転していると
病院から戻るようにとの電話(19:09)
姪に21:54にメールでモニターの画像を送る。
夜勤で来ることのできない姪は覚悟したそうだ。
三人で母の手を握ったりしながら声をかけ続け見守る。
母の目からも涙が出ていた。
ゆっくりと息をしていて最後に息をしたと思ったら
午後10時42分に母さんが静かに旅立った。
死亡診断書を書いてくださったのは、
母が救急搬送された時に対応してくださった先生。
12時過ぎ、母との約束を果たすために家で20分ほど過ごした。
朝に父さんが作っていたみそ豆(ピーナッツ味噌)とお茶をあげる。
エレベーターが狭く寝台車が入れそうになかったけど
父が「おぶってでも行くと」と言ったので
業者の方が、寝台車を持ちあげて入れてくださったそうだ。
本当は、一晩過ごしたかったけど
母は、人目につくことを嫌がるので会館に向かう。
義弟が亡くなった時のことを思い出していた。
義弟が亡くなった時も雨だった。
その時は、姪からメールが届いた。
今回は、僕からメールを姪に送った。
4月11日(火)
父が右足が引きつると言って痛そうにしていた。
母の見舞いに行くと長い間倚子に座っているので
血が下がってしまい血流が悪くなっているのか?
朝、妹からのメールに
「コーヒーいれるんやったら、
お母ちゃんの分もポットか何かに入れて持ってきてくれへんかなぁ?
私も飲みたい。(^^)」
父の代わりに親戚に電話をしようとするのだけど声が出なくなる。
今日一日、何度も何度も突然、哀しみが襲ってきて
涙を止めることができなかった…
母と一緒に父、妹の四人でコーヒーを飲む。
母の眠っている姿を見ていると
優しく穏やかだった沖縄の祖母にそっくり。
声をかけると今にも目を覚ましそうな…
百貨店で夕食を食べる前に
お棺の中に入れる櫛を姪と探す。
柘植の櫛が見つかり、夕食後会館に戻り
母の髪をみんなで梳くってあげる。
東京の叔母が7時過ぎに来たので会館に送り
母と二人だけにしてあげる。
4月12日(水)
父は、右足を引きずっている。
母の杖を使って歩いている。
朝、叔母さんが来たので会館へ向かう。
風が強く桜の花びらが舞っていた。
父と叔母さんと四人でコーヒーを飲む。
叔父さんが来る。
名古屋の甥Kさんが1時過ぎに会館に着いてくれていた。
Kさんは亡くなった叔母の看病を1年程していた。
働きながらなので本当に大変だったと思う。
2時から湯罐があり母が湯槽の中で綺麗になっていった。
点滴の跡などをみんなで撫でてあげる。
髪の毛も柔らかくなり顔も綺麗にしてもらった。
しばらくして化粧もしてもらった母を見ると
本当に綺麗で花嫁さんのよう。今にも目を覚ましてくれそうだった。
写真に撮りたいほどだったけど、きっと母は嫌がるだろうから心の中に刻みこんだ。
祭壇は美しい春の花で飾られていた。
午後6時から通夜。
家族葬なので静かに母を供養することができた。
ただ、お坊さんの鳴らす鐘(磬子けいす)の大きな音に
母はビックリしているのと違うかな?
起きてくれたらいいのに…
家族と親族の17名で会食。
天候も少し回復していての義弟の葬儀の時と一緒。
季節が秋と春の違い。
母にとって花の季節が似合っている。
4月13日(木)告別式
沖縄からも伯父さんが来て下さった。
伯父さんは伯母さんをもう6年程看病している。
老健に入所している伯母のために昼と夜の食事介助のために毎日行っているそうだ。
会館の調理部の方が昨日、母の好きな食べ物はと希望を聞いてくださって
カレイの煮付けを作ってくださった。
入院中でもカレイの煮付けは半分食べてくれていました。
棺の蓋を閉める時に母を祭壇を飾っていた花で一杯にしました。
斎場に向かう道に桜が満開で散り始めていました。
母に見せてあげることができてよかったなと妹と話していた。
お骨だけになった母、天国でしっかり歩いてなと足の骨、背骨の骨を取り上げました。
天国ではいっぱい食べてなと顎の骨などを取り上げました。
骨壺は姪が選んでくれた桜柄のかわいい壺。
帰りは姪に骨壺を抱いてもらい
遺影を妹に抱いてもらってバスの中から桜を見てもらいました。
4月14日(金)
昨日、泊まってもらった沖縄の伯父さんが薬を飲む時に
漢方薬の袋の中に他の錠剤を入れて飲んでおられた。
それは母と同じやり方。
思わず兄妹と似ているもんだなと。
(九人兄弟姉妹だったのに三人になってしまった)
姪が空港まで父と伯父に付添ってくれました。
追記)
今朝(15日)父はかかりつけのM医院に通院して母のことを報告。
(母が亡くなった翌日、電話で報告しています)
その後、整形を受診しました。
足の筋肉が細くなっていて膝などを支える筋力が弱っているようです。
整形の先生から歩くようにと言われたそうです。
母の容態が悪くなってから父は胃薬を飲んでいました。
食欲は落ちていないように見えて減っているのだろうな…