2026年3月21日土曜日

天神坂~恵美須町(3月19日)

若者がダッシュをしている坂は

天神坂

 安居天神へ通ずる坂道なので、このように呼ばれている。
この神社境内は大坂夏の陣に真田幸村が戦死したところで、本殿わきに「真田幸村戦死跡之碑」がある。
また、同境内すぐ下には七名泉の一つ、安居の清水があり、「かんしづめの井」(癇静め)とも呼ばれよく知られている。
安居天神社」(大阪府立図書館)

 安居神社由緒略記 

鎮座地 大阪市天王寺区逢阪1丁目3番24号
御祭神 少彦名神(すくなひこなのかみ)
    菅原道眞公(すがはらみちざねこう)

祭日  例祭4月25日 
月次祭 毎月1日 15日 25日
幸村祭 5月

  由緒

 少彦名神を奉祀したのは古文書が散逸したので現在は詳かではないが、非常に古い時代の事であると伝えられている。
この神は医薬禁厭(医術・薬方・まじない)智慧の祖神として、その霊験はまことにあらたかな神である。
 菅公の御神徳は誠の権化であり又学問文化の神として人々を守護し導き給うのである。
 当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、中にも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大きな御加護を賜りて繁栄されたことは有名であり当神社に対する信仰は極めて篤く大丸天神と称せられる所以である。
 境内に古より、癇静(かんしず)めの井と称する清冽なる水湧出する井戸があり霊水として広く知られているが、現在は四囲の状況に禍され枯渇の状態にある。
 又大阪夏の陣における眞田幸村戦死の地と伝えられ石碑が建っている。
  昭和20年太平洋戦争の災禍をうけ一切の建物は烏有に帰したが、大丸を始め奉賛者の寄進により同26年春復興され現在種々の祭典が執行されている。
(安居神社の案内板より)
 大坂の陣を駆け抜けた戦国最後のヒーロー・真田信繁と「真田丸」

 「家康の首を取る!」
 玉砕覚悟の野戦・夏の陣


 …前略…

 翌慶長20年(1615)5月。
夏の陣の舞台は、裸城となった大坂城ではなく、市街地だった。
兵力差はさらに開き、勝ち目なしと見た信繁は、「家康の首級をあげること」一つに策を絞った。
7日、天王寺・茶臼山(ちゃうすやま)に本陣を敷いた信繁は、四天王寺に布陣した毛利勝永(もうりかつなが)らとともに徳川軍と対戦、混乱に乗じて家康本陣に突入する。
この作戦はある意味成功した。
徳川軍は猛攻に対応できず、家康も一時は死を覚悟する。
しかし所詮は多勢に無勢、真田隊は次第に追い詰められていった。
(『大阪の教科書』JTBパブリッシング 2022年)
 結果的には大坂城は陥落し豊臣家は廃絶、家康の天下統一がここに完成する。
しかし、真田丸の戦い、天王寺口の戦いで名采配を振るった信繁は後世「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられ、押しも押されもしない戦国のヒーローとなっている。

信繁終焉の地といわれる天王寺・安居神社
境内には、天王寺口の戦いで疲弊した信繁が寄りかかって休んだとされる「さなだ松」(2代目)もある。
(『大阪の教科書』JTBパブリッシング 2022年)

安居神社・真田幸村戦死跡碑」(大阪市)

眞田幸村ゆかりの地を歩こう! 天王寺エリアマップ」(天王寺区)
石柱を見て?と思ったのですが
異体字」は表記できないので一つの漢字を二つに分けて書きます。
 異体字について 

この石柱に彫られている昭「口禾」の「口禾」は逆さ文字とも言われ
厄祓いの意があると言われていますが、詳しくは分かっていません
昭和9年は室戸台風が京阪神を襲い多大な被害をもたらしました
異体字は読みや意味、用法などには違いがありませんが
表記に差違がある文字です
秋が「火禾」、稔が「念禾」などと記されます。
同じ字が重複した時にも一字逆さ文字にされる場合があり
文字の左右、上下逆転はいつくかの文字に限定されるようです。

1934年 室戸台風(昭和9年)9月20日~21日」(NHKアーカイブス)
結構な段差です!
 一心寺仁王門縁起 

この山門は平成9年4月、第十二期お骨佛開眼大法要にあわせて、平成7年より二ヶ年をかけて建立されました。
仁王尊は彫刻家・神戸峰男氏による5メートル余の青銅像であります。
左側・口を開いている阿形(あぎょう)像は心の邪念を戒(いまし)め、右側・口を閉じた吽形(うんぎょう)像は世の紊(みだ)れを睨(にら)んでおります。
扉の四人の天女は画家・秋野不矩(ふく)氏の原画を神戸氏が浮彫りにされました。
インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。
インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。
昭和20年に空襲で焼失した旧山門が大坂城玉造り御門の移築と伝えられ、「黒門」とよばれていたことに因(ちな)んで、新山門もまた今日的意匠による黒い門として復興いたしました。

仁王門(山門)
受付で「一心寺 墓碑銘々伝(お墓のエピソード)」をいただきました。
別刷りで、お墓の位置を示した図もあったので助かりました。
 墓碑銘々伝から

小西来山句碑(こにしらいざんくひ)
受付念佛堂前の植え込みにあり、「しぐるるやしぐれぬ中の一心寺 今宮老人」と刻まれています。
来山は晩年、今宮(現在の恵美須町西1丁目)に十万堂という小さな、茶人好みの庵を構えて隠棲しました。
十万堂からは高台の一心寺がよく見えました。
この句は「十万堂のあたりはよく時雨れているのに、参拝客でにぎわう一心寺はまるで雨が降っていないようだ」の意。
会心の出来映えだったらしく「六字詰の念仏は昼夜おこたらず。十二時の鐘声は遠近の心耳を洗ふ」との詞書をつけて一心寺に奉納しました。
ほかに「花散りてより古びたり一心寺」の句もあります。

小西来山十萬堂(こにしらいざんじゅうまんどう)」の碑(浪速区)
小西来山(こにしらいざん) 

近松門左衛門と同時期に活躍した俳諧師。
西山宗因が起こした大坂談林派の巨匠。
生家は薬種商ですが、商売には不熱心で7歳から前川由平について俳句、絵画を学び、18歳で早くも俳諧選者に選ばれます。
井原西鶴亡き後、談林派の中心として活躍しました。
風月を友とし、生涯一日も醒めたるときなし、といわれるほど酒を愛し、気ままに暮らしました。
十万堂、堪々翁などと号し、辞世は「来山は生まれた咎で死ぬるなり それで恨みもなにかもなし」。
碑銘は「堪々翁之墓」。
 四天王像に踏まれている邪鬼のように
獅子(?)が重みに顔をしかめているように見える
月照寺の大亀像のように夜な夜な動きまわって人々を苦しめたので
堪々翁が動き出さないように押さえつけているのかな?(^_-)

四天王立像及邪鬼」(わびさび奈良)
 酒封じ祈願
 本多出雲守忠朝
(ほんだいずものかみただとも)の墓 

本多出雲守忠朝は徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第二子で
関ケ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていたが酒を過したため
大阪夏の陣(1615)において戦没した。
死に臨んで深く酒弊を悔い
将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられる。
爾来、酒封じの神として酒に苦しむ
当人や家族の多数参拝するところとなり
酒弊の除滅に信を得ている。
墓碑周辺の杓文字(しゃもじ)は参拝者による酒封じ祈願
墓碑は元和2年(1616)に建立されたものである。

(帰宅後、改めてお墓の配置図を見ると「⑯東軍戦死者招魂碑」がある。
検索すると本多忠朝の墓の裏手に会津藩士の墓碑が13基もあるそうです)
小さなお社があり 
鳥居や石柱には「福永大神」とあるのですが、
「新世界稲荷神社」だそうです。
検索すると伏見稲荷大社から勧請したとか

新世界稲荷神社
新世界稲荷神社新世界誕生と同時期に、商売繁盛や新世界の繁栄を願って造られました。
境内には一風変わった珍しいルーレット式のおみくじ(無料)があり、石をゴロゴロと回転させて、覗き穴に止まった数字で事の吉兆、凶兆を占うことができます。
(「なつかしい大阪芸人発祥の地~てんのじ村から新世界へ~」大阪あそ歩)
お昼になったので前から入りたかったお店へ
カウンター席で上を見ると色紙が飾られていました。
「岸部一徳」さんとカタカナで書かれている「アンミカ」さんが分かった(^^ゞ
ヘレカツカレー煮込みとオニオンスープにライスを追加。
途中でライスにカレーをつけたりしながら頂きました(^_^)v
カレーで煮込んでいるので食べやすかったです。

電車や法要の待ち時間に読んでいたのが
神話と日本人の心』(河合隼雄著 岩波現代文庫)
読みたいと思ったきっかけは
おとなのEテレタイムマシン
現代ジャーナル 河合隼雄の最終講義~こころを探る~
最後に話されていたのは(3月23日、28日に再放送があります)。

 日本の神話をいかに語るか

 …前略…

私自身がそうですけれども、戦争を体験していますので、日本の神話に対しては非常に恨みがあるんですね。
あのばかな神話のために、どれだけたくさんの人が死に、どれだけばかなことが起こったかということを知っているわけです。
 しかし、それは、それを使った者がばかなことをしただけであって、日本の神話そのものは何も悪くもないし、よくもない。
一つのすごい物語として存在していると考えてきますと、今度は不思議なことに、日本の神話が私にとってものすごい意味を持ち始めてきました。
 きょうはコンステレーションの話をして最終の講義を終わるんですが、今度は国際日本文化研究センターへ行きますので、これから何年かかかって、日本の物語としての神話をいかに語るかということをよっていきたいと思っております。
この次にやりたいと思っていることを最後に申し上げて、これで京都大学での最終の講義を終わります。
(1992年3月14日 京都大学法経四番教室)
(『日本の最終講義』鈴木大拙他 KADOKAWA 2022年)
もう10年くらい前から入りたかったお店です。
先日も入られなかったのは、営業時間よりも1時間も早く着いてしまった。
お店に入るときに「カウンター席でもいいですか?」と聞いてくださったので「いいですよ」と答えました。
と、言うか、カウンター席の方が好きなんです(^_-)
食べていると隣りに私より年配のご夫婦が座られたのですが、
テーブル席があいたので店員さんに移動を勧められました。
高齢の方なので配慮されたのだと思います。
私が座っていた席は、レジーのすぐ横。
お客さんが会計を済ませて帰られるときに店主さんが挨拶されていました。
常連さんかなと思いましたが、私にも笑顔で調理場から挨拶してくださった。
路地裏にある昔ながらの洋食屋さん「グリル梵」。
いつもより少し贅沢で美味しいランチを頂きました(^_^)v
店を出た時に店員さんが店から顔を出して、
傘を忘れないように声をかけてくださった。

お店のHPがないので検索しているとこんな記事がありました。
会員ではありませんが(^_-)
名店の歴史を築き上げた三代各々による味の追求」(阪急阪神オーナーズクラブ)
朝まで降っていた雨で少し寒かったのですが、
心も胃袋もポカポカと温かくなって
地下鉄「恵美須町」駅へ向いました(^_^)v

2 件のコメント:

  1. おはようございます~
    今日は曇り空です。

    Kazeさん~
    天神坂や安居神社の方を街歩きされたのですね。
    天神坂とお聞きして懐かしくおもい、
    天王寺七坂を巡ったのは、いつ頃だったかを確認すれば、
    もう10年ほど前の2016年でした。
    あっという間に10年の月日が。。
    昭和の逆さの文字。。
    厄祓いの意味があったのですか!!
    勉強になります。エヘ(#^.^#)

    天王寺辺りって街歩きにいい街ですね。(#^.^#)


    洋食屋さん、
    美味しいヘレカツを食べさせていただけるんですね。
    美味しさであったまって、お店の方の優しさにも
    温まるお店なんですね。
    一度行ってみたいと思いました。

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    1. カイさんこんにちは(^^)/
      >あっという間に10年の月日が。。
      年々、年月の早さにビックリしますよね(°0°)
      真田信繁(幸村)の終焉の地だと知っていながら訪ねていませんでした。
      カイさんの記事を読んで法要の後に訪ねたいと思いました。
      教えてくださってありがとうございます。
      昭和の逆さ文字は、石柱の隣りに案内板があって気がつきました。
      なかったら見過ごしていたと思います。

      グリル梵のことを知ったのは何時だったかと考えたら
      2014年に天王寺動物園の帰りに
      カツサンドをお土産に買いたいなぁと寄ったら
      お昼の営業時間を過ぎていました。
      カツサンドを隣の席の方が食べておられましたが
      美味しそうでした(^_^)v

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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m