6月になると気温が高くなるとの長期予報なので
町歩きをするのだったら今のうちかなと思い
先週に続き京都の町歩き
前からお会いしたいとなと思っていたのが…
……
記事を更新しました(5月25日)桜の時期に訪ねると壮観だろうなぁ
「 阿亀桜(おかめざくら)」
資料をあまり調べないで出かけたので、帰宅後、編集していると
気がつかなかったことにアッ…ということがイッパイありました(T_T)
「西陣の大根焚き 千本釈迦堂」(2013年12月7日 土)
師走に入り今日は二十四節気の「大雪」。
今朝の冷え込みはまさに冬本番(>_<)
京の街では冬の風物詩ともなっている大根焚きが
市内の所々で行われています。
ここ西陣でも千本釈迦堂で毎年
12月8日の成道会の時期にあわせて行われますが
今年は7、8の両日とも週末に重なるので人出が予想されます。
そのため、一番に行ってきました。
境内には大根を炊く湯けむりがあがり
券(ちょっと高いのですが)を買って熱々のものをいただきます。
ほくほくのお大根をいただき、身も心も温まりました
さぁ、これでなんとかこの冬を乗り切りたいと思います。
大根には梵字が描かれています。
また、お持ち帰り用もあります。
*こちらは「おかめ」さん像です。 北の「野」に祀られた菅原道真
北野天満宮・大報恩寺
…前略…
大報恩寺のこと
神社の近く、東門を出て上七軒を通り抜けたあたりに大報恩寺はある。
といっても京都の人にはこの名では分からず、千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)の名で通っている。
釈迦如来坐像を本尊とし、清涼寺(せいりょうじ)すなわち嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)と並んで釈迦信仰の拠点として栄えた。
国宝の本堂は安貞(あんてい)元年(1227)の建立で、京都は応仁・文明の乱の戦火に見舞われたが、街なかであるにも関わらずこの本堂は焼失しなかった。
貴重な乱以前の建物で、柱には戦闘の際のものと伝える矢傷・刀傷なども残っている。
11年に渡って続いたこの乱は、当時の京都市内に深刻な被害をもたらし、建造物はそのほとんどが焼失したが、他にも乱以前の建物は残っていて、貞治(じょうじ)2年(1363)の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)、文永3年(1266)年再建の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)、さらに永享12年(1440)の八坂の塔(やさかのとう)こと法観寺(ほうかんじ)五重塔などがある。
ただこちらは市街とはいうもののいずれも鴨川をはさんで東に位置し、ために戦禍を免れた。
(『歴史でめぐる洛中洛外(上)上京・下京を中心に』井上満郞 淡光社 2017年)
こうしたなかで、上京と呼ばれた市街の中心にありながら、この大恩寺本堂だけは奇跡的に焼失しなかったのである。
西軍陣営の西陣(にしじん)にもごく近く、眼前には戦闘が繰り広げられている街のさまをわが目で見てきたこの本堂だけが、鎌倉時代の建造物として貴重であることはむろん、応仁・文明の乱という日本歴史史上の重大事件を実感するうえでも大事な場所といってよい。
(『歴史でめぐる洛中洛外(上)上京・下京を中心に』井上満郞 淡光社 2017年)
応仁・文明の乱にも奇跡的に焼失しなかったのは「おかめ」さんのおかげかもしれませんね。 千本釈迦堂 大報恩寺
おかめ塚
本堂の前、東の塀ぎわにある宝篋印塔がそれである。
本堂の造営の際、棟梁である高次が、かけ替えのない柱の寸法を切り誤って心憂していたのを見た妻の「おかめ」は「いっそ斗栱(ますぐみ)をほどこせば……」というひと言。
この着想が、結果として成功をおさめた。
安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、この日をまたずして、妻は自ら自刃して果したのである。
女の提言によって棟梁としての大任を果し得たということが、世間にもれ聞えては……。
「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう。」と。
口碑によれば高次は、亡き妻おかめの名に因んだ福面を扇御幣につけて飾り、妻の冥福と大堂の無事完成、永久を祈ったと云われている。
今日、上棟式に上げられるおかめ御幣は、おかめの徳を偲び、永久堅固、繁栄を祈るためだと云われている。
当山の本堂は建立以来約800年、その昔、度重なる兵乱にも又、応仁の乱にて奇跡的に焼難を免れた唯一、京洛最古の国宝建造物になっている。
おかめ信仰は、今日も、災難消除、招福祈願のため、参詣者が後をたたない。
千本釈迦堂 大報恩寺
*おかめさんの像の隣のようなんですが、気がつきませんでした…(T_T)千本上立売バス停を過ぎたあたりから細い道(上立売通)に入っていくと大きな岩
木札は長年の風雨で文字がかすれていたので読み間違っていると思います。
岩上(いわがみ)神社
伝えによれば、二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷(うつ)され、更に中和門院(ちゅうかもんいん)(後陽成<ごようぜい>天皇の女御の一人で後水尾<ごみずのお>天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたという。
吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。
子供に化けたという伝説に因んで「禿童石(かむろいし)」と呼ばれたこともあったという。
持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院(れんじょういん)という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったと いう。
その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。
以降、授乳、子育て の信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれて いる。
寺は享保(きょうほう)15年(1730)の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、天明8年(1788)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。
明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋(ちきりや)が敷地内に祠(ほこら)を構え、以降「岩上神社(岩上祠))」となって今に至る。
数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。
京都市千本通に戻って
毎月24日は釘抜地蔵縁日になります(午後1時から)。
石像寺(しゃくぞうじ)でいただいた縁起に
釘抜地蔵略縁起
当寺は弘法大師が弘仁10年(819)に開創せられたものです。
本尊釘抜地蔵尊は大師が唐より御帰朝の時、舟に積んでこられた石に、地蔵菩薩の尊像を、自ら刻みたまい、日夜に衆生の諸悪、諸苦、諸病を救い助けんと御祈願された御丈三尺六寸の石像でございます。
その当時は種々の苦しみを抜き取り下さる御地蔵様というところから、苦抜地蔵尊と申し上げていたのであります。釘抜地蔵尊と申し上げる因縁は、後奈良天皇の御代、引治2年(1556)の頃、油小路通上長者町あたりに紀の国屋道林という人が居りました。
この人はその当時の京都で有数の大商人でありましたが、四十才の時、何事もないのに両手が非常に痛み、その痛み堪難く、いろいろと治療をつくしましたが、その効果少しもなく苦しんでおりました。
その時、当寺の地蔵尊が霊験あらたかに渡らせ給う由を聞き、願をかけていのりましたところ、満願の夕べ、道林は夢の中にて地蔵尊が道林に次の如く告げてのたまうのを聞きました。「汝この度の痛みは常の病にあらず、前世に人を怨み、仮の人形を造り、その両手に八寸の次を打ち呪いたることあり、その罪かえりし汝が身にその苦しみを受く、汝幸に吾に残報を祈る。故に吾神力をもってかの昔の怨み釘を抜き取れり。これを見よ」
と二本の釘を示したまう。
道林は夢さめてみると両手の痛みはたちどころになおりました。
急ぎ当寺に来り寺僧に乞いて御厨子の前に進みて伏して拝みたつまつれば、不思議や、尊像の御前に朱に染まった二本の八寸釘がありました。道林をはじめその他なみいる諸人は身の毛もよだつばかり驚きました。
道林はそれより百日を期して日参し、その恩の万分の一にもと奉謝したとつたえられております。
その時より本地蔵尊を釘抜地蔵尊と申す次第であります。
これについて御詠歌集に次の御詠歌が出ております。
世々ふとも ゆるぎもやせじ 怨み釘 佛のみ手に取るぞかしこし
…後略…西陣織の職人さんたちは、長時間、細かい作業をされていますので
目の疲れや手の関節などの痛みなどに悩まされていたと思います。
鴨さんのblogに
「西陣で釘抜地蔵さま」(2014年9月3日 水)
苦しみから救ってくれるお地蔵様。
西陣の街中にいらっしゃいます。
お堂の周りには
願い事がかなった方が奉納した
八寸釘と釘抜きがたくさん。
私も前を通るときは
いつもしっかりお願いしています。
もちろん街のお地蔵様。
拝観無料。
手を合わさずにはいられませんね。
ちなみにご住職は臨床心理士さん。
*歌人藤原定家もこちらの奥に眠っています。 引接寺(千本えんま堂)
光明山歓喜院引接寺と号する寺院で、本尊として閻魔法王を祀り、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれている。
開基は小野篁(おののたかむら)卿(802~853)で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之庁(えんまのちょう)に仕えたと伝えられ、朱雀大路頭(すざくおおじかしら)に閻魔法王を安置したことに始まる。
その後、寛仁元年(1017)叡山恵心僧都(えいざんえしんそうず)の法弟、定覺(じょうかく)上人が「諸人化導引接佛道(しょにんけどういんじょうぶつどう)」の意を以って当地に「光明山歓喜院引接寺」を開山した。
現在の閻魔法王は、長享2年(1488)に造立されたもので、高さは2.4メートルある。
篁卿は「お精霊迎(しょらいむか)え」の法儀を授かり、堵婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場とした。
以降、宗旨・宗派を問わない民間信仰が続いている。
5月に行われる千本ゑんま堂大念仏狂言は、京都三大念仏狂言のうち唯一の有言劇で、京都市無形民俗文化財に指定されている。
名桜「普賢象桜(ふげんぞうさくら)」は咲いた時に双葉を持ち、花冠のまま落ちる珍しい桜である。
往時、この地に桜が千本あったことと、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。
また圓阿(えんあ)上人が紫式部供養のために、至徳3年(1386)に建立した引接寺堵婆は、貴重な十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定されている。
京都市 紫式部供養塔 重要文化財
一重目は円形の基礎石に十四体の地蔵小像が刻まれその上の方形面取りの軸部に、四仏座像があらわされています。
像の横には南北朝時代の至徳3年(1386)円阿上人の勧進により建立されたとの刻銘があります。
二重目は四隅に柱を立てその中に円柱の軸部を置いて、三面には鳥居、もう一面には連座上の月輪を刻み、それぞれの中に胎蔵界四仏の梵字を表しています。
三重目より上には反り返りの良い八個の笠石を置き鎌倉時代の特徴を備えています。
九重の塔には裳階を付けたとも、二重の宝塔と三重の宝塔の層塔の残欠とを組み合わせた十重のとも考えられる珍しい塔です 2018年11月2日に紫式部の墓を訪ねています。
千本ゑんま堂の開基は小野篁卿だそうですが
人目を外れて眠るのは平安時代の天才作家
静かに眠る希代の天才作家
…省略…
『河海抄』にある紫式部の墓の位置
墓の東隣には小野篁の墓がある。
室町時代に編まれた『河海抄(かかいしょう)』によれば、紫式部の墓は、小野篁の墓の西にあると書かれている。
そのころよりこの場所は紫式部の墓だと認知されていたのだろう。
小野篁の墓が隣にある理由
小野篁は、地獄で閻魔大王の補佐をしていたという伝説が残る人物。
紫式部の墓と隣接している理由は『源氏物語』で人びとを惑わせた罪人として閻魔大王に裁かれるのを小野篁がとりなしたという伝説からだとか。
DATA
紫式部墓所
京都市北区堀川通北大路下ル西側
(『京都珍百景』らくたび文庫 2013年)鴨さんのblogに
「えんま様のお目こぼし 千本えんま堂」(2014年9月17日 水)
千本えんま堂。
お寺の名前は引接寺さん。西陣の街中にあるお堂です。
ご本尊は閻魔大王。開基は小野篁卿。
これ以上はない強力なコンビネーションですね。
このえんま様には毎月16日の開扉のときにお目通りできます。
そしてこちらでいただいてきたのが
「えんま様のお目こぼし」
これはえんま様にお供えされたお餅を
同じく西陣の「菓匠宗禅」さんがかきもちに仕立てたもので
参拝者は境内で求めることができます。
お目こぼしのご利益は「身体健固」「無病息災」「除災招福」。
どうぞえんま様。
「鴨よ、お前が来るのはまだ早い」
と一言お願いいたします。バスで出町柳に戻ってきたけど
お昼を何にしようかと思案していたら思い出した。
2016年5月16日の記事でも紹介した昔ながらのオムライス(^_^)b
「西陣の大根焚き 千本釈迦堂」(2013年12月7日 土)
師走に入り今日は二十四節気の「大雪」。
今朝の冷え込みはまさに冬本番(>_<)
京の街では冬の風物詩ともなっている大根焚きが
市内の所々で行われています。
ここ西陣でも千本釈迦堂で毎年
12月8日の成道会の時期にあわせて行われますが
今年は7、8の両日とも週末に重なるので人出が予想されます。
そのため、一番に行ってきました。
境内には大根を炊く湯けむりがあがり
券(ちょっと高いのですが)を買って熱々のものをいただきます。
ほくほくのお大根をいただき、身も心も温まりました
さぁ、これでなんとかこの冬を乗り切りたいと思います。
大根には梵字が描かれています。
また、お持ち帰り用もあります。
*こちらは「おかめ」さん像です。
北野天満宮・大報恩寺
…前略…
大報恩寺のこと
神社の近く、東門を出て上七軒を通り抜けたあたりに大報恩寺はある。
といっても京都の人にはこの名では分からず、千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)の名で通っている。
釈迦如来坐像を本尊とし、清涼寺(せいりょうじ)すなわち嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)と並んで釈迦信仰の拠点として栄えた。
国宝の本堂は安貞(あんてい)元年(1227)の建立で、京都は応仁・文明の乱の戦火に見舞われたが、街なかであるにも関わらずこの本堂は焼失しなかった。
貴重な乱以前の建物で、柱には戦闘の際のものと伝える矢傷・刀傷なども残っている。
11年に渡って続いたこの乱は、当時の京都市内に深刻な被害をもたらし、建造物はそのほとんどが焼失したが、他にも乱以前の建物は残っていて、貞治(じょうじ)2年(1363)の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)、文永3年(1266)年再建の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)、さらに永享12年(1440)の八坂の塔(やさかのとう)こと法観寺(ほうかんじ)五重塔などがある。
ただこちらは市街とはいうもののいずれも鴨川をはさんで東に位置し、ために戦禍を免れた。
(『歴史でめぐる洛中洛外(上)上京・下京を中心に』井上満郞 淡光社 2017年)
こうしたなかで、上京と呼ばれた市街の中心にありながら、この大恩寺本堂だけは奇跡的に焼失しなかったのである。
西軍陣営の西陣(にしじん)にもごく近く、眼前には戦闘が繰り広げられている街のさまをわが目で見てきたこの本堂だけが、鎌倉時代の建造物として貴重であることはむろん、応仁・文明の乱という日本歴史史上の重大事件を実感するうえでも大事な場所といってよい。
(『歴史でめぐる洛中洛外(上)上京・下京を中心に』井上満郞 淡光社 2017年)
応仁・文明の乱にも奇跡的に焼失しなかったのは「おかめ」さんのおかげかもしれませんね。 千本釈迦堂 大報恩寺
おかめ塚
本堂の前、東の塀ぎわにある宝篋印塔がそれである。
本堂の造営の際、棟梁である高次が、かけ替えのない柱の寸法を切り誤って心憂していたのを見た妻の「おかめ」は「いっそ斗栱(ますぐみ)をほどこせば……」というひと言。
この着想が、結果として成功をおさめた。
安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、この日をまたずして、妻は自ら自刃して果したのである。
女の提言によって棟梁としての大任を果し得たということが、世間にもれ聞えては……。
「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう。」と。
口碑によれば高次は、亡き妻おかめの名に因んだ福面を扇御幣につけて飾り、妻の冥福と大堂の無事完成、永久を祈ったと云われている。
今日、上棟式に上げられるおかめ御幣は、おかめの徳を偲び、永久堅固、繁栄を祈るためだと云われている。
当山の本堂は建立以来約800年、その昔、度重なる兵乱にも又、応仁の乱にて奇跡的に焼難を免れた唯一、京洛最古の国宝建造物になっている。
おかめ信仰は、今日も、災難消除、招福祈願のため、参詣者が後をたたない。
千本釈迦堂 大報恩寺
*おかめさんの像の隣のようなんですが、気がつきませんでした…(T_T)千本上立売バス停を過ぎたあたりから細い道(上立売通)に入っていくと大きな岩
木札は長年の風雨で文字がかすれていたので読み間違っていると思います。
岩上(いわがみ)神社
伝えによれば、二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷(うつ)され、更に中和門院(ちゅうかもんいん)(後陽成<ごようぜい>天皇の女御の一人で後水尾<ごみずのお>天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたという。
吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。
子供に化けたという伝説に因んで「禿童石(かむろいし)」と呼ばれたこともあったという。
持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院(れんじょういん)という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったと いう。
その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。
以降、授乳、子育て の信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれて いる。
寺は享保(きょうほう)15年(1730)の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、天明8年(1788)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。
明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋(ちきりや)が敷地内に祠(ほこら)を構え、以降「岩上神社(岩上祠))」となって今に至る。
数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。
京都市千本通に戻って
毎月24日は釘抜地蔵縁日になります(午後1時から)。
石像寺(しゃくぞうじ)でいただいた縁起に
釘抜地蔵略縁起
当寺は弘法大師が弘仁10年(819)に開創せられたものです。
本尊釘抜地蔵尊は大師が唐より御帰朝の時、舟に積んでこられた石に、地蔵菩薩の尊像を、自ら刻みたまい、日夜に衆生の諸悪、諸苦、諸病を救い助けんと御祈願された御丈三尺六寸の石像でございます。
その当時は種々の苦しみを抜き取り下さる御地蔵様というところから、苦抜地蔵尊と申し上げていたのであります。釘抜地蔵尊と申し上げる因縁は、後奈良天皇の御代、引治2年(1556)の頃、油小路通上長者町あたりに紀の国屋道林という人が居りました。
この人はその当時の京都で有数の大商人でありましたが、四十才の時、何事もないのに両手が非常に痛み、その痛み堪難く、いろいろと治療をつくしましたが、その効果少しもなく苦しんでおりました。
その時、当寺の地蔵尊が霊験あらたかに渡らせ給う由を聞き、願をかけていのりましたところ、満願の夕べ、道林は夢の中にて地蔵尊が道林に次の如く告げてのたまうのを聞きました。「汝この度の痛みは常の病にあらず、前世に人を怨み、仮の人形を造り、その両手に八寸の次を打ち呪いたることあり、その罪かえりし汝が身にその苦しみを受く、汝幸に吾に残報を祈る。故に吾神力をもってかの昔の怨み釘を抜き取れり。これを見よ」
と二本の釘を示したまう。
道林は夢さめてみると両手の痛みはたちどころになおりました。
急ぎ当寺に来り寺僧に乞いて御厨子の前に進みて伏して拝みたつまつれば、不思議や、尊像の御前に朱に染まった二本の八寸釘がありました。道林をはじめその他なみいる諸人は身の毛もよだつばかり驚きました。
道林はそれより百日を期して日参し、その恩の万分の一にもと奉謝したとつたえられております。
その時より本地蔵尊を釘抜地蔵尊と申す次第であります。
これについて御詠歌集に次の御詠歌が出ております。
世々ふとも ゆるぎもやせじ 怨み釘 佛のみ手に取るぞかしこし
…後略…西陣織の職人さんたちは、長時間、細かい作業をされていますので
目の疲れや手の関節などの痛みなどに悩まされていたと思います。
鴨さんのblogに
「西陣で釘抜地蔵さま」(2014年9月3日 水)
苦しみから救ってくれるお地蔵様。
西陣の街中にいらっしゃいます。
お堂の周りには
願い事がかなった方が奉納した
八寸釘と釘抜きがたくさん。
私も前を通るときは
いつもしっかりお願いしています。
もちろん街のお地蔵様。
拝観無料。
手を合わさずにはいられませんね。
ちなみにご住職は臨床心理士さん。
*歌人藤原定家もこちらの奥に眠っています。 引接寺(千本えんま堂)
光明山歓喜院引接寺と号する寺院で、本尊として閻魔法王を祀り、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれている。
開基は小野篁(おののたかむら)卿(802~853)で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之庁(えんまのちょう)に仕えたと伝えられ、朱雀大路頭(すざくおおじかしら)に閻魔法王を安置したことに始まる。
その後、寛仁元年(1017)叡山恵心僧都(えいざんえしんそうず)の法弟、定覺(じょうかく)上人が「諸人化導引接佛道(しょにんけどういんじょうぶつどう)」の意を以って当地に「光明山歓喜院引接寺」を開山した。
現在の閻魔法王は、長享2年(1488)に造立されたもので、高さは2.4メートルある。
篁卿は「お精霊迎(しょらいむか)え」の法儀を授かり、堵婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場とした。
以降、宗旨・宗派を問わない民間信仰が続いている。
5月に行われる千本ゑんま堂大念仏狂言は、京都三大念仏狂言のうち唯一の有言劇で、京都市無形民俗文化財に指定されている。
名桜「普賢象桜(ふげんぞうさくら)」は咲いた時に双葉を持ち、花冠のまま落ちる珍しい桜である。
往時、この地に桜が千本あったことと、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。
また圓阿(えんあ)上人が紫式部供養のために、至徳3年(1386)に建立した引接寺堵婆は、貴重な十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定されている。
京都市 紫式部供養塔 重要文化財
一重目は円形の基礎石に十四体の地蔵小像が刻まれその上の方形面取りの軸部に、四仏座像があらわされています。
像の横には南北朝時代の至徳3年(1386)円阿上人の勧進により建立されたとの刻銘があります。
二重目は四隅に柱を立てその中に円柱の軸部を置いて、三面には鳥居、もう一面には連座上の月輪を刻み、それぞれの中に胎蔵界四仏の梵字を表しています。
三重目より上には反り返りの良い八個の笠石を置き鎌倉時代の特徴を備えています。
九重の塔には裳階を付けたとも、二重の宝塔と三重の宝塔の層塔の残欠とを組み合わせた十重のとも考えられる珍しい塔です 2018年11月2日に紫式部の墓を訪ねています。
千本ゑんま堂の開基は小野篁卿だそうですが
人目を外れて眠るのは平安時代の天才作家
静かに眠る希代の天才作家
…省略…
『河海抄』にある紫式部の墓の位置
墓の東隣には小野篁の墓がある。
室町時代に編まれた『河海抄(かかいしょう)』によれば、紫式部の墓は、小野篁の墓の西にあると書かれている。
そのころよりこの場所は紫式部の墓だと認知されていたのだろう。
小野篁の墓が隣にある理由
小野篁は、地獄で閻魔大王の補佐をしていたという伝説が残る人物。
紫式部の墓と隣接している理由は『源氏物語』で人びとを惑わせた罪人として閻魔大王に裁かれるのを小野篁がとりなしたという伝説からだとか。
DATA
紫式部墓所
京都市北区堀川通北大路下ル西側
(『京都珍百景』らくたび文庫 2013年)鴨さんのblogに
「えんま様のお目こぼし 千本えんま堂」(2014年9月17日 水)
千本えんま堂。
お寺の名前は引接寺さん。西陣の街中にあるお堂です。
ご本尊は閻魔大王。開基は小野篁卿。
これ以上はない強力なコンビネーションですね。
このえんま様には毎月16日の開扉のときにお目通りできます。
そしてこちらでいただいてきたのが
「えんま様のお目こぼし」
これはえんま様にお供えされたお餅を
同じく西陣の「菓匠宗禅」さんがかきもちに仕立てたもので
参拝者は境内で求めることができます。
お目こぼしのご利益は「身体健固」「無病息災」「除災招福」。
どうぞえんま様。
「鴨よ、お前が来るのはまだ早い」
と一言お願いいたします。バスで出町柳に戻ってきたけど
お昼を何にしようかと思案していたら思い出した。
2016年5月16日の記事でも紹介した昔ながらのオムライス(^_^)b
グルメの方にはフクヤライスがいいかな(^_-)
今回、妹に買ってあげたのが釘抜地蔵尊のお守り。
京都の町歩きでいつも携行しているのが
『でか字まっぷ 京都』(昭文社 2014年)なんだけど
最近、スマートフォンで検索する人が多くなり地図が売れなくなったのかな?
書店でコンパクトで見やすい地図が並ばなくなったように思います。
古い地図だけど京都の町歩きにはまだまだ使えると思っています(^_-)鴨さんのblogで知った洋食屋さん
「洋食も花街を支えて グリル富久屋さん」(2012年9月16日 日)
鴨川の松原橋の東側、
宮川町の真中あたりにある100年を超える洋食のお店。
和菓子の餡ならここ、という松壽軒さんに伺うときには素通りのできないお店です
店内には地元で働くいろいろな方や、時には場所柄、祇園甲部や宮川町の芸妓さん、舞妓さんの姿も見受けられる花街を支えているお店のひとつです。
私は先日ご紹介した「つる居」の杏佳さん大好物のオムライス(730円)をいただきました。
もちろんここでもマッシュルーム抜きでお願いです
このほかランチは
とんかつ、海老フライ、クリームコロッケの3種の定食が780円であります。
そういえば楽しんごさんも行きつけのお店のようですね。
肩の力を抜いて花街で過ごせる洋食のお店。
女将さんの元気さも私のお気に入りです。
「富久屋」
場所 京都府京都市東山区宮川筋5-341
交通 市バス「清水道」下車徒歩5分くらい
今回、妹に買ってあげたのが釘抜地蔵尊のお守り。
京都の町歩きでいつも携行しているのが
『でか字まっぷ 京都』(昭文社 2014年)なんだけど
最近、スマートフォンで検索する人が多くなり地図が売れなくなったのかな?
書店でコンパクトで見やすい地図が並ばなくなったように思います。
古い地図だけど京都の町歩きにはまだまだ使えると思っています(^_-)鴨さんのblogで知った洋食屋さん
「洋食も花街を支えて グリル富久屋さん」(2012年9月16日 日)
鴨川の松原橋の東側、
宮川町の真中あたりにある100年を超える洋食のお店。
和菓子の餡ならここ、という松壽軒さんに伺うときには素通りのできないお店です
店内には地元で働くいろいろな方や、時には場所柄、祇園甲部や宮川町の芸妓さん、舞妓さんの姿も見受けられる花街を支えているお店のひとつです。
私は先日ご紹介した「つる居」の杏佳さん大好物のオムライス(730円)をいただきました。
もちろんここでもマッシュルーム抜きでお願いです
このほかランチは
とんかつ、海老フライ、クリームコロッケの3種の定食が780円であります。
そういえば楽しんごさんも行きつけのお店のようですね。
肩の力を抜いて花街で過ごせる洋食のお店。
女将さんの元気さも私のお気に入りです。
「富久屋」
場所 京都府京都市東山区宮川筋5-341
交通 市バス「清水道」下車徒歩5分くらい
こんにちは~
返信削除こちらも晴れ間もあるとの予報でしたが。。
雨が降ったり止んだりの空です。
洗濯物は部屋干しです。(;^ω^)
Kazeさん、
ほんとうによくお調べになってらっしゃいます。
>小野篁の墓が隣にある理由
そうだったのですね。
とりなしていただけてよかったです。(#^.^#)
グリル富久屋さんの昔ながらのオムライス!
美味しそうです。
いちど、フクヤライスかオムライスを食べに行ってみたいです。
美味しい情報ありがとうございます。!(^^)!
カイさん、いつもコメントありがとうございます(^^)/
削除ついこの間まで暑い暑いとぼやいていたのに
今朝は、風が涼しすぎるくらいですね…
つい昔は、旅行する時は時刻表を見ながら計画を立てている時が楽しかったです。
現代のように目的地に直行というのは味気ないなぁと思っています。
列車の旅では、途中の駅で駅そばを食べたりするのにどれだけ時間があるのだろうと想像したり
山を登る時は、標準のコースタイムを1.5倍にして計画を立てていました。
地図を見ながら目的地の近くには何があるのだろうと調べるのが好きでした。
その頃の習慣が今でも続いています(^_-)
カイさんも紫式部の墓を偶然訪ねられましたね
のんびり歩きながら巡ると思わぬ出会いがありますよね
そういうゆとりのある町歩きが好きです。
富久屋さんのフクヤライスを賞味してみてください
どんなライスなのか興味がありながら昔ながらのオムライスを頼んでいます(^_-)