2025年5月11日日曜日

5月11日

昨日の天気が嘘のような青空でした。
(しだいに雨雲が広がり雨が降るそうです)
公園には家族連れなど大勢の人が来ていました。
奈良の山を歩いていた頃、寄りたかった萬葉植物園。
体力がなかったから山を歩いた疲れで素通りしていました(^_^;

奈良 春日大社の萬葉植物園 万葉歌を英語で知って」(関西NHK)
 樗(センダン)の花が咲いていました。
妻を亡くした大伴旅人(おおとものたびと)の気持ちになって、山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ歌

巻第五 798
妹が見し樗(あふち)の花は散りぬべし。
わが泣く涙いまだ干(ひ)なくに

いとしい人が病中に見ていた樗の花は、もうそろそろ散り初めているだろう。
自分の泣いている涙が、まだ乾かないうちに。
(『口訳万葉集(上)』折口信夫 岩波現代文庫 2017年)
今日は、「母の日」なんですが、私にとって母の日は5月5日「こどもの日」。

国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)」に

こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する

と、あるように「母に感謝する」日であり、母の誕生日なんです!
人それぞれ母の日は違っていいと思うのです(^_-)
 朝ドラ「あんぱん」第6週「くるしむのか愛するのか」
豪に届いた赤紙は赤かったですね。
戦局悪化にともない物資不足になると次第に色が薄くなっていきました。
のぶの活動が新聞で報道され、
校長先生に「愛国のかがみ」と賞賛されていました。

豪と蘭子のじれったくて、いじらしい恋
あの時、のぶが背中を押さなかったら
二人とも思いを言葉にすることができなかったのだろう

愛国精神に違和感を感じていたのぶだけど
豪が無事、帰ってくることを願っての行動を
ドラマを見ていた人は違和感なく受け入れたのと違うかな
(黒井雪子先生の表情が気になったのだけど)

嵩とのぶの歩む道は分かれていくのかな?
予告編にのぶの横で寛が
いつかは二人の道が交わる日が来るかもしれん
のぶがひろげた新聞に「鯉登部隊」、「郎坊を占領」と報道されています。
昭和12年(1937)7月25日に起きた郎坊(ろうぼう)事件以後、広安門事件、通州事件と日中の対立が激化していきます。
郎(廊)坊事件の2年後、5月11日に起きたのが

昭和14年(1939) 満蒙国境のノモンハンで、満・外蒙両国軍隊が衝突(ノモンハン事件の発端)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
 第七章 政府も軍部も強気一点張り、そしてノモンハン
  ●戦争は意志の強い方が勝つ


 戦闘は日増(ひま)しに大きくなっていきました。
陸軍中央が止(と)めるのも聞かずに関東軍は勝手に突っ込んで行きます。
ソ連は戦車や大口径砲(だいこうけいほう)をつぎ込む。
凄惨(せいさん)な戦いとなりました。
結果的には日本側は5万8925人が出動して戦死7720人、戦傷8664人、その他を含め計1万9768人と、33パーセントつまり三分の一が死傷しました。
ふつう軍隊は30パーセントやられれば潰滅(かいめつ)という感じです。
それほどの大損害を受けたのです。
ソ連軍も蒙古軍を含めるとたいへんな死傷者を出していて、2万4992人といいますから日本よりも多いんです。
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
それで近頃、うわついた評論家など「ノモンハンは日本が勝ったのだ」と言う人が少なくありません。
そりゃ死傷者だけみれば、日本の兵隊さんが本気になってよくぞ戦ったというところもありますが、結果として国境線は相手の言う通りになったのです。
ハルハ川ではなくノモンハンまで出っぱったところ、ホロンバイル草原まで全部モンゴルの領土になったのですから、日本軍が勝ったなどとても言えません。
ジューコフの指揮のもと、最新鋭(さいしんえい)の戦車、重砲、飛行機を次々に投入してくるソ連軍に対して、日本軍は銃剣と肉体をもって白兵(はくへい)攻撃でこれに応戦したわけで、まことに惨憺(さんたん)たる結果となりました。
 捜索第23連隊長・井置(いおき)中佐自決、第8国境守備隊長・長谷部(はせべ)中佐自決、歩兵64連隊長・山県(やまがた)大佐孤立自決、野砲13連隊長・伊勢(いさ)大佐孤立自決、歩兵62連隊長・酒井(さかい)大佐負傷後送(こうそう)のち自決、元歩兵71連隊長岡本(おかもと)大佐入院中斬殺(ざんさつ)さる――
 といった具合に、日本軍を指揮し最前線で戦った連隊長はほとんど戦死あるいは自決でした。
酒井大佐の「負傷後送のち自決」とは、戦闘状況の訊問(じんもん)の終わったあと、拳銃を置いて出て行かれ責任を取って自決せざるを得なかった、そういう悲劇もありました。
 この戦いを指揮した関東軍の作戦参謀が、服部卓四郎(はっとりたくしろう)中佐と辻政信(つじまさのぶ)少佐でした。
服部曰(いわ)く、
 「失敗の根本原因は、中央と現地部隊との意見の不一致にあると思う。両者それぞれの立場の立って判断したものであり、いずれにも理由は存在する。要は意志不統一のままずるずると拡大につながった点に最大の誤謬(ごびゅう)がある」
 また、辻は、
 「戦争は指導者相互の意志と意志との戦いである。もう少し日本が頑張っていれば、おそらくソ連軍側から停戦の申し入れがあったであろう。とにかく戦争というものは、意志の強い方が勝つ」
 二人とものほほんとしたことを言っていますが、そこからは責任のセの字も読み取れません。
まことにひどい話です。
 戦争が終わってから「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われました。
  「戦闘の実相(じっそう)は、わが軍の必勝の信念および旺盛(おうせい)なる攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機、戦車、砲兵、機械化された各機関、補給の潤沢(じゅんたく)との白熱的(はくねつてき)衝突である。国軍伝統の精神威力を発揮せしめ、ソ連軍もまた近代火力(かりょく)戦の効果を発揮せり」
 いいですか、こちら側は必勝の信念および旺盛なる攻撃精神でありまして、向こう側は戦車、砲兵、機械化された各機関、十分に潤沢な補給、それが白熱的に衝突したものである、というのが結論で、従って、
  「ノモンハン事件の最大の教訓は、国軍伝統の精神威力をますます拡充(かくじゅう)するとともに、低水準にある火力戦能力を速(すみ)やかに向上せしむるにあり」
 要するに、これからもますます精神力を鍛(きた)える必要がある、ついてはもう一つ水準の低い火力戦の能力を向上させたほうがいいことがわかった、というわけです。
 火力戦の能力向上については、これが勝利の戦いであったなら付け加えなかったでしょうね、言い訳(わけ)めくから。
 昭和14年8月にこの戦いが終わって二年半がたたないうちに、太平洋戦争がはじまります。
低水準の火力戦能力がわずか二年半で向上するはずはありません。
ノモンハン事件の本当の教訓はまったくかえりみられなかったと言っていいと思います。
その影響はどこにもなかったか。
たった一つあるとすれば、服部卓四郎と辻政信の心の内にありました。
 「これからは北に手を出すな。今度は南だ」
 二人はそう確信したのです。
そうとしか考えられない。
 事件後、軍司令官や師団長は軍を去りますが、参謀たちは少し左遷(させん)されただけで罪は問われませんでした。
服部卓四郎は昭和15年10月に参謀本部に戻って作戦班長に、翌16年7月には作戦課長となります。
また辻政信は昭和16年7月に作戦課に戻り、戦力班長になります。
つまりノモンハン事件で膨大(ぼうだい)な被害を被(こうむ)らせたはずの二人が再び参謀本部の作戦課に戻って「今度は南だ」と南進政策――これはイギリス・アメリカとの正面衝突を意味します――を、「こんどは大丈夫」と言わんばかりに推進したのです。
なお、参謀にはお咎(とが)めなし、というのは陸軍の伝統でもありました。
 後の話になりますが、ご存じのように、太平洋戦争では日本は見る影もなく撃(う)ち破られるのです。
昭和19年(1944)7月にサイパン島が陥落(かんらく)し、もはや太平洋戦争に勝利はないと確定した時、作戦課長であった服部卓四郎大佐はこう言ったといいます。
  「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」
 何たることか、ノモンハンの時にすでにわかっていたではないか、と言いたくなるのですが、いずれにしろ日本陸軍はこれだけ多くの人をホロンバイルの草原で犠牲(ぎせい)にしながら何も学びませんでした。
昭和史の流れのなかで、ノモンハン事件そのものは転換点的な、大きな何かがあるわけではないのですが、ただこの結果をもう少し本気になって考え反省していれば、対米英戦争という敗(ま)けるに決まっている、と後世(こうせい)のわれわれが批評するようなアホな戦争に突入するようなことはなかったんじゃないでしょうか。
でも残念ながら、日本人は歴史に何も学ばなかった。
いや、今も学ぼうとはしていない。
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ハコネウツギ(箱根空木)を撮していました。

 ハコネウツギ<箱根空木 >

 沿海地に自生し、観賞用としても広く植えられている。
高さ4メートルになる。
枝は灰黒色で稜がある。
髄は白色。
葉は長さ7~16センチの広楕円形または広倒卵形で尖端はとがり、基部は広いくさび形。
ふちには細鋸歯があり、裏面の脈上にだけ毛がある。
5~6月、枝先や葉腋に白色から赤色に変わる花が1~3個ずつ咲く。
花冠は長さ3~4センチの漏斗状鐘形で、先は5裂する。
蒴果は長さ約3センチの円柱形。
●用途 庭木
●分布 北海道(南部)、本州、四国、九州
(『日本の樹木(旧版)』林 弥栄編 山と渓谷社 1985年)