今朝も行楽日和の気持ちのいい天気でした。
明日は、朝から雨が降り続くようですし、気温が10度近く下がる…
いつもと違う道を歩くとクサイチゴの実がなっていました。
ヘビイチゴとやはり違いますね(^_-)
クサイチゴ(草苺)という名前がついているけど落葉低木。 5月5日に行われるのが
「賀茂競馬」(賀茂別雷神社)
この競べ馬のことが書かれているのが
【第四十一段】
訳 五月五日、上賀茂神社の競べ馬を見物に行ったところ、牛車(ぎっしゃ)の前に、身分の低い者たちがぎっしり立ち並んで、馬を走らせる馬場がよく見えないので、私たちは牛車から降りて、柵(さく)の近くまで近寄ったが、そのあたりはとりわけ人々が混雑していて、どうにも分け入る隙間(すきま)がない。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年) ちょうどその時、向かい側の楝(おうち)の木に、法師が登って、木の股に座って、見物しているではないか。
彼は木にしっかりしがみつきながら、ひどく居眠りして、木から落ちそうになると目を醒ます、ということを繰り返しているのである。
これを見た人が、嘲って軽蔑して、「なんて愚か者なのだろう。あんなに危ない木の枝の上で、よくまあ安心して眠れるものだ」と言うので、自分の心にふと思ったままに、「われわれの死の到来だって、今この瞬間かもしれない。それを忘れて見物などして貴重な今日という日を過ごすのは、愚かしさの点で、あの法師以上ではないか」と言うと、自分の前にいた人々が、「まことに、ごもっともなことでございます。われわれこそ、もっとも愚かでございます」と言って、皆が後ろを振り返って私を見て、「ここに、お入り下さい」と、場所を空けて、呼び入れてくれたのだった。 これくらいの道理は、誰だって思い付かないことではあるまいが、折からのこととて、思いがけない気がして、強く胸を打ったのであろうか。
人間というものは、木石のように非人情なものではないから、場合によっては、こんな程度の発言にも、感動することがあるのだ。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)このあと、「評」に
爽やかな青葉若葉の賀茂祭の出来事は、外界に一歩踏み出した、「兼好再誕」の記念日だった。
とあります。
この「兼好再誕」について島内裕子さんの別の本から
第9回 読書人兼好の危機
――虚無から生還するために
…前略…
書物の中から、人の中へ
兼好は、さまざまな思索の果てに、虚無の深淵に引きずり込まれるそうになった。
この精神の危機から、脱出できるのか。
その脱出劇は、第四十一段のごく日常的な一齣(ひとこま)のシーンによってもたらされることになるのだが、まずは、その直前の段に注目してみよう。
(「批評文学としての『枕草子』『徒然草』」島内裕子 NHK出版 2019年) 因幡(いなば)の国に、何(なに)の入道(にふだう)とかや言ふ者の娘、容貌良(かたちよ)しと聞きて、人数多(あまた)、言ひ渡りけれども、この娘、ただ栗(くり)をのみ食(く)ひて、更(さら)に、米(よね)の類(たぐひ)を食(く)はざりければ、「かかる異様(ことやう)の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親、許さざりけり。
《因幡の国に、誰(だれ)それ入道とか言う人の娘が、見目(みめ)麗しいというので、多くの男性たちが求婚したのだが、この娘は栗だけしか食べずに、米の類を全く食べないので、「このような変わり者の娘は、結婚などすべきでない」ということで、父親は許さなかった。》 兼好は、一風変わった話として、これを書き留めたのだろうか。
わたしはこの段を読んだ時、父親の庇護のもとで、自分の好物の栗だけを食べて暮らしている娘は、「もう一人の兼好」と言ってもよいほどの精神の深層で繋がっているように感じて強く心を動かされた。
兼好もまた、書物の世界に生きて、外部の世界との流路を築きかねている。
書物の中の「見ぬ世の友」との共感に満ちた世界。
そこは静かな調和の取れた世界ではある。
けれども、そのような世界でのみ生きている限り、現実世界を「すべては非なり」(第三十八段)と認識せざるを得なかった。
では、そのような袋小路からの脱出は、どのようにして可能となったのか。 この第四十段の直後に書かれている第四十一段が、その鍵を握っている。
ここには、上賀茂神社の競べ馬(くらべうま)を見物に行った時の、思いがけない体験談が書かれている。
見物人たちは、すでにぎっしりと柵(さく)の所に犇(ひし)めき、とても近づけない。
向こうの楝(おうち<=センダン>)の木の枝分かれしている所には、一人の法師が陣取って高みの見物を決め込んだのはよいが、居眠りして木から落ちそうになり、そのつど目を覚ますことを繰り返している。
それを見た人々は、何と愚かしいことかと嘲笑した。 けれども兼好は、人々に同調することはできず、自分たちも、競べ馬の見物などして、貴重な人生の時間を消費しているのは、もっと愚かしいではないかと述べた。
すると、今まで兼好に背中を向けていた人々が、振り向いて兼好の言葉を受け入れたのである。
そして、ここが眼目なのだが、人々が兼好に向かって、どうぞこちらへと、場所を空けて招き入れ、兼好はその申し出を受けたのだった。
兼好は、この瞬間に、「書物の中から、人の中へ」と、大きな一歩を進めた。「人生、いかに生きるべきか」。
その解答は一つではない。
だから、完璧な答えを出すのが大切なのではなく、思案し続けることこそが大切なのである。
約言するならば、「自己認識と自己変革」こそが人生であり、兼好が『徒然草』の第四十一段までの執筆で得たのは、読者にとっても心の糧となりうる貴重な言葉の数々であった。
『徒然草』が折りに触れての思索を、散文で書き綴るスタイルをとったことは、批評文学の世界を大きく開いた。
書物からの知識によって得た、透徹する思索力。
それに加えて、現実の生身の人間とのコミュニケーションの実現。
この二つの宝を手にした兼好が、今後どのような新たな世界を切り拓いてゆくのか。
次回以降も、さらに『徒然草』を兼好の精神形成の書として読み進めたい。 なお、歴史上の人物としての兼好の経歴は、ほとんど知られていない。
通説では、神祇(じんぎ)官僚である卜部(うらべ)家の出身とされる。
吉田兼好という呼び名は、近世になってからの通称である。
鎌倉時代末期から南北朝にかけての時代を生きたが、生没年は未詳。
通説では、1283年頃~1352年。
若い頃に宮廷体験があったことが、『徒然草』からうかがわれる。
『徒然草』の執筆時期も不明だが、通説では五十歳頃までに書かれていたとされる。
その後、約二十年間を、兼好は歌人活動や古典の書写などに携わって過ごした。
(「批評文学としての『枕草子』『徒然草』」島内裕子 NHK出版 2019年)今日は、「こどもの日」。
端午の節句、菖蒲の節句などとも言われます。
平安時代の宮中の様子を
【第5章】 季節に寄せる思い
節句の愉しみ
季節感を味わわせてくれるのは自然だけではない。
年中行事もまた楽しい。
清少納言はやはり五月の、端午の節句(たんごのせっく)がことのほか好きだった。
章段「節(せち)は」に記されるのは、その節句に沸く平安人の姿である。
(『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』山本淳子 朝日選書 2017年) 節は、五月にしく月はなし。菖蒲(さうぶ)、蓬(よもぎ)などの香り合ひたる、いみじうをかし。九重(ここのえ)の御殿(ごてん)の上を始めて、言ひ知らぬ民の住家(すみか)まで、「いかで我がもとにしげく葺(ふ)かむ」と噴き渡したる、なほいとめづらし。いつかは異折(ことをり)に、さはしたりし。
(節句は、五月の節句に勝る月はない。菖蒲や蓬がかぐわしく香り合って、本当に素敵。宮中の御殿の屋根をはじめ、下々の庶民の住家まで「我が家にこそ、たくさん挿してやるぞ」とばかりに、どこもみな見渡す限り、菖蒲や蓬を軒に挿している。その様子はいつみてもやはり新鮮だ。だって他に節句にそんなことはしないでしょう?) (『枕草子』第三七段「節は」) 節とは、元日(のち正月七日)、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日の五節句をいい、宮廷行事と民間の風習が融け合って年中行事化したものである。
五月五日の端午の節句、平安人たちは貴族から庶民に至るまで、澄んだ芳香を放つ菖蒲や蓬を装束に付けたり家の軒先に挿したりした。
香りが邪気を祓(はら)うと信じたからである。
実際、梅雨時のこと、これらの植物がアロマ効果を発揮することもあったかもしれない。
だから五日の朝、京中に出ると、家々はどこもかしこも昨日とは一転して鮮やかな緑に彩られ香(かぐわ)しさに満ちていた。
そこに清少納言は都人(みやこびと)の心意気を読み取る。
自然だけではなく、こうした人々の営みが清少納言の心を浮き立たせたのである。 別の段には、節句を前に青草を運ぶ庶民の姿が活写されている。
五月四日の夕刻、明日に備えてきちんと切った青草を大束にして男が担い、都の路(みち)を歩いてゆく。
たまたま赤い装束を着ていて、葉の青色がひときわ映えている。
ああ明日は節句なのだ、という期待感に清少納言の胸はふくらむ(『枕草子』第二〇九段「五月四日の夕つ方」)。 この草は薬玉(くすだま)にも使った。
薬玉とは麝香(じゃこう)や丁子(ちょうじ)などを錦(にしき)の袋に入れて菖蒲や蓬を結び付け、色とりどりの飾り糸を長く垂らしたものである。
これを室内に掛けたりアクセサリーのように身に付けたりして楽しむのだ。
「節は」の続きには、その様子が記されている。
宮中の裁縫を司(つかさど)る縫殿寮(ぬいどのりょう)から定子のために献上された薬玉を、女房(にょうぼう)たちは室内の柱に掛ける。
柱には、昨年九月九日の重陽(ちょうよう)の節句から八ヵ月間、「茱萸袋(ぐみぶくろ)」が結び付けられていたのだが、それを外して、この薬玉に取り換えるのだ。
茱萸袋は重陽の菊の花を入れたものなので、アロマとしての働きは薬玉と同じだ。
だが、茱萸袋が八ヵ月もつのに対して、薬玉は四ヵ月後の重陽の時期までもたず、しばらくの間にきれいに無くなってしまう。
美しい飾り糸を、折々に解(ほど)き取っては物を結ぶのに使ったからだという。
現代にも参考になりそうな楽しみ方ではないか。 菖蒲は殊に、根まで使った。
長い根が長寿を連想させることによる。
組み紐(ひも)で根を飾って袂(たもと)に結んだり、それを自慢したり比べ合ったり。
あるいは人への手紙を根で結わえたり、手紙の中に長い根を挟み込んだり、そのように様々な趣向を凝らして節句に沸く人々を見る思いを、清少納言は「艶(えん)なり」と記している。
心が華やぐという意味だ。
年中行事は自然そのものではなく、それを人間が取り入れて楽しむ、生活のお洒落(しゃれ)である。
そして、どんな時もそのお洒落を忘れないことが雅びなのだ。
その雅びこそが定子サロンの標榜(ひょうぼう)する王朝文化の旗印(はたじるし)であったからには、年中行事を書くことは、実は重大な責任を伴うことでもあったはずである。
『枕草子』は軽いタッチで書いているようだが、底にはそうした真剣勝負の切実さが秘められていることも忘れてはならない。
なお『枕草子』の中で、定子の登場する最後の場面は五月の節句である。
そこには、どのような状況でも雅びを怠るまいとする定子や周りの女房たちの姿がある。
定子たちにとって節句とは、プライドをかけて行い愉(たの)しむべき季節行事であったのだ。
(『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』山本淳子 朝日選書 2017年) 清少納言について、男性の研究者が書いた本を読んでいた頃は、あまり好きにはなれませんでした。
ところが、女性の研究者や作家の本を読むと清少納言に対する感じ方が変わりました。
勝手な考えですが、これまで読んできた男性の研究者は、紫式部日記にある評価をもとに書かれているのではないかと思ってしまいました。
『枕草子』の現代語訳を読むのに女性の研究者や作家の本を読む方が
清少納言の息づかいが伝わってくるのではないかと思っています。
ところで大河ドラマ『光る君へ』で藤原道長役を柄本佑さんがされると知って
見ると今までのイメージが崩れるので見ないことにしました。
というのも2024年5月18日に「一條天皇皇后定子 鳥戸野陵」へお参りしたほど
藤原定子が好きな私にとって、道長は憎き人物なのです(^_-)
一方、藤原彰子の墓陵は確定されていないようですね。
道長は嫌いだけど、彰子の墓が分かればお参りしたいと思っていますが……。
「かいまみる平安時代の宇治 木幡エリアMAP」(宇治市)今朝の父の一枚です(^^)/
(ピントが悪いのでなくフイルターをかけています)
父が駐車場に戻ってくるのが遅いなと思っていたら
叔母(父の妹)と従妹(姪)に出会って話をしていたそうです。
2011年9月に退院してしばらくしてからリハビリで公園を歩くようになりました。
今日まで出会うことがなかったのにバッタリ!
不思議だなぁと思ったのが、今日は、祖母の命日で、母の誕生日です!
「上皇さま 検査入院へ 心筋虚血の可能性 宮内庁」(NHK)
心配性の母は、ことあるごとに家で静かにしているようにと言っていました。
天皇陛下(上皇さま)が心臓のバイパス手術をされたあと
すぐにリハビリをされていることを教えると、「昔と違うのだね」と少し納得してくれました。
今回は、検査だけのようなので元気なお姿を拝見できることを心待ちにしています。