蕾だったタイサンボクが花を開かせていました。
〝北但大震災100年「お千度参り」で犠牲者追悼し防災誓う〟(兵庫NHK)
100年だとほとんど体験者がいないので伝え続けることが大事だと思います。
戦後80年、体験者がいなくなってきています。
歴史を学ぶことが、今ほど大切な時期はないと思います。 「“ハーバード大への留学不可に” 米政権が発表 留学生は混乱」(NHK)
アメリカ政権の大学への攻撃が続いています。
〝「この戦争を信じない」イスラエルで相次ぐ兵役拒否なぜ?〟(NHK 5月22日)
兵士として戦うと悲惨な状況が目に飛び込み、戦場の臭いが鼻をつく。
今、ガザの痩せ衰えた子どもたちの姿は、イスラエルの民衆には知らされていないのだろう。
ロシアでもウクライナの情報はほとんど知らされていないと思う。
「ガザ地区 2か月半ぶり支援物資 住民に届けられず人道危機続く」(NHK 5月21日)
ガザの人々と収容所のユダヤ人たちの姿が重なります。
「アウシュビッツ生存者の子がパレスチナのために声をあげるわけ」(NHK 2024年1月29日)朝ドラ「あんぱん」第8週「めぐりあい わかれゆく」 (40)
のぶが次郎に
「気が付いたら兵隊さんになってお国にご奉公する子供らあを育てよりました。」
などと胸の内を吐露していました。
ドラマの始まりは昭和14(1939)年12月でした。
1939(昭和14)年 12月26日 朝鮮総督府、朝鮮人の氏名に関する件公布(創氏改名を強制)。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)先日、参考にした本(『古寺巡礼京都 法然院』)より法然上人と平重盛の関わりを転記したいと思っていましたが、
先日、辞任した農相の発言があまりにも酷い。
水曜日の朝ドラ「あんぱん」の蘭子の場面に辞任のテロップが入って頭にきていました。
蘭子を抱きしめながら羽多子も結太郎が亡くなった後、
娘たちを育てなければいけないという張り詰めた糸が切れてしまったのだと思います。
富山県魚津港の海岸に、きのうの三人の女をふくめて、四十人ばかりの女たちが集ったが、まもなく、巡査にどなられて解散した。
みたところ、とるに足らない、ごくささいな出来事のようであった。
しかし、あとになって考えると、これが、明治維新このかた、もっとも規模が大きく激しい暴動だといわれる、あの<米騒動(こめそうどう)>の導火線につけられた、いわば一本のマッチの火であった。
そのときの巡査は、シカシ何時(いつ)マタ騒動ガ勃発(ぼっぱつ)スルカ計リ知レザル形勢デアル、と報告しているが、一見不発にみえたその火は、それから8月の下旬まで、県下のいたるところで、つぎつぎに誘爆していった。 この三人の女たちをふくむ魚津の漁師の女房たちは、こえて8月5日、こんどは百人をこす人数となって、ふたたび蜂起している。
そのまえ、7月の末には東岩瀬(ひがしいわせ)町で、8月2日には泊(とまり)町で、そして8月3日には、西水橋(にしみずはし)町で、ついに三百人をこす女たちが蜂起した。
あくる4日と5日は、隣の東水橋(ひがしみずはし)町にひろがり、人数は七百人をこした。
8月6日は、この女房一揆(いっき)のなかで、いちばん<暑く長い夜>となった。
東西の水橋町と、滑川(なめりかわ)町の女たちが連合して、その数二千をこえ、金切り声と怒声が夜明けまでつづいて、いたるところで凄惨な光景をくりひろげた。 女房一揆は、片カナ漢語の多い議論の末に決定された戦術でもなければ、中央からの指令で、組織を動員したデモでもなかった。
あの三人の女をふくめて、この一揆に加わった<嬶(かか)さん>たちは、おそらく、<闘争>という字も、<搾取>という字も、だれひとりとして、読むことも書くこともできなかっただろう。
この女たちは、<アタマ>で考えて、たたねばならぬと結論して、一揆に加わったのではなかった。 女たちは、ながいあいだ、じっと歯をくいしばって、こらえてきた。
女とは、こらえるものだ、と教えられていた。
こらえる限界は、とっくにすぎていて、それでもこらえていた。
粥腹でよろめく足をふみこらえて、重い荷物を、はしけから本船へ、本船からはしけへ運んでいた。
そうしなければその粥でさえすすれなかったからである。
そうして、こらえて働いて、それで三度の粥をたく米さえ買えぬ、となって、女たちは、立ち上がった。 女たちの一揆には、旗はなかった。
労働歌もシュプレヒ・コールもなかった。鉢巻きもなかった。
乳吞児(ちのみご)を背中にくくり、こどもの手をひき、老婆は杖にすがっていた。
すすけた髪と、こけた頬と、そして目だけが、ぎらぎらと光っていた。
女たちは、町長や米問屋や資産家をつぎつぎに襲って、米をよそに売らないでくれ、もう米のねだんを上げないでくれ、とたのんだ。
家の前で、土下座してたのんだ。
途中で、巡査や役場の書紀が、解散させようとすると、女たちは、口々に、わかりました、といった。
わかりました、と口々にいって、前進していった。
監獄にぶちこむぞ、とおどかされると、はい、入れて下さい、といった。
監獄では、三度三度ご飯を食べさせて下さるのでしょう、といった。 女たちは、浜と駅へ見張りを立てて、米俵が積みこまれると知ると、何百人もの手で、その米俵を積み下した。
何隻かの汽船と、何車かの貨車が、空っぽのまま、出発していった。
そのとき、あの三人の女たちも、ほかの町の<おばば>たちも、おれたちは盗っ人(ぬすっと)じゃない、一合の米も盗んではならぬと、下知(げち)した。
事実、一粒の米も、失われなかった。
米屋や有力者には、もしじぶんたちの言い分をきかないときは、家に火をつけ、家族をみな殺しにするといったが、この女房一揆を通じて、焼き打ちされた家は一軒もないし、怪我(けが)させられた家族も、一人もなかった。 仲間の何人かが検挙されると、そのときの全員が、派出所や警察の前にすわりこんで、罪があるのなら、おれたち全部ひっくくれ、と要求した。
びっくり仰天した郡長や町長たちが、町の有力者を説いて寄附金を出させ、とりあえず、一升四十銭の米を五銭値引きして、三十五銭で渡すときためたとき、この小さな火は、もう日本中に、つぎつぎとひろがっていた。
…後略…
(『花森安治選集 3 ぼくらは二度とだまされない』花森安治 暮しの手帖社 2020年)
女たちの闘いはガンディーの闘い方と一緒だと思いました。
こころの時代~宗教・人生~
〝闘うガンディー 非暴力思想を支えた「聖典」2 結果を求めず行為せよ〟
男が加わると暴力を伴い暴動にまで激化する。
国同士だと戦争になる。
「米騒動」(中学)
娘たちを育てなければいけないという張り詰めた糸が切れてしまったのだと思います。
今日もスーパーの棚の米が高いだけでなく、品薄。
女たちは、ここのところ、しきりに米の積み込みが多くなったのを知っている。
東京や大阪で、米の買い占めをやっているといううわさが、浜に流れていた。
今日も、沖の伊吹丸に、米を積みこまされた。
この作業は、明日も続けられる筈である。
あれをやめてもらおう、三人の女は、そうきめて、腰を上げた。
1918年(大正7年)7月23日の朝である。米騒動について紹介したいと思います。
内閣を倒した無学文盲の三人の女たち
2世紀19号(1972年8月)
女三人よれば、という、それにちがいなかった。
そのころは、まだ共同井戸だった。
その井戸端で、四十をいくつかすぎた三人の女が、ぐちをこぼしていた。
女たちは、沖仲仕(おきなかし)をしていた。
亭主は漁師(りょうし)で、樺太(からふと)へ出かせぎにいっている。
その樺太からの送金が、ここへきて切れてしまった。
今年は豊年で、魚の値が暴落したからである。
そこへきて、米のねだんが、毎日のように上っていった。
去年まで一升十七、八銭だったのが、今年になって、二十五銭、三十銭、三十五銭とたてつづけに上って、きのう米屋へいったら、四十銭だといわれた。
(『花森安治選集 3 ぼくらは二度とだまされない』花森安治 暮しの手帖社 2020年) 沖仲仕の賃金は、ならして一日五十銭になれば、よいほうである。
家族を六人も七人もかかえて、一升三十銭の米でさえ、買いきれなかった。
ここのところ、ずっと粥だった。
粥腹での沖仲仕は、きつかった。
それが一升四十銭となっては、三度の粥を二度にするしかなかった。
三人の女たちには、どうして、こんなに米が上るのか、わからなかった。
わかっているのは、このままでゆけば、二度の粥が、一度になり、それもかなわずに、やがて飢え死(うえじに)するしかない、ということだった。
米をよその土地に売るから、米のねだんが上るのではなかろうか、と三人の女たちは考えた。内閣を倒した無学文盲の三人の女たち
2世紀19号(1972年8月)
女三人よれば、という、それにちがいなかった。
そのころは、まだ共同井戸だった。
その井戸端で、四十をいくつかすぎた三人の女が、ぐちをこぼしていた。
女たちは、沖仲仕(おきなかし)をしていた。
亭主は漁師(りょうし)で、樺太(からふと)へ出かせぎにいっている。
その樺太からの送金が、ここへきて切れてしまった。
今年は豊年で、魚の値が暴落したからである。
そこへきて、米のねだんが、毎日のように上っていった。
去年まで一升十七、八銭だったのが、今年になって、二十五銭、三十銭、三十五銭とたてつづけに上って、きのう米屋へいったら、四十銭だといわれた。
(『花森安治選集 3 ぼくらは二度とだまされない』花森安治 暮しの手帖社 2020年) 沖仲仕の賃金は、ならして一日五十銭になれば、よいほうである。
家族を六人も七人もかかえて、一升三十銭の米でさえ、買いきれなかった。
ここのところ、ずっと粥だった。
粥腹での沖仲仕は、きつかった。
それが一升四十銭となっては、三度の粥を二度にするしかなかった。
三人の女たちには、どうして、こんなに米が上るのか、わからなかった。
わかっているのは、このままでゆけば、二度の粥が、一度になり、それもかなわずに、やがて飢え死(うえじに)するしかない、ということだった。
女たちは、ここのところ、しきりに米の積み込みが多くなったのを知っている。
東京や大阪で、米の買い占めをやっているといううわさが、浜に流れていた。
今日も、沖の伊吹丸に、米を積みこまされた。
この作業は、明日も続けられる筈である。
あれをやめてもらおう、三人の女は、そうきめて、腰を上げた。
富山県魚津港の海岸に、きのうの三人の女をふくめて、四十人ばかりの女たちが集ったが、まもなく、巡査にどなられて解散した。
みたところ、とるに足らない、ごくささいな出来事のようであった。
しかし、あとになって考えると、これが、明治維新このかた、もっとも規模が大きく激しい暴動だといわれる、あの<米騒動(こめそうどう)>の導火線につけられた、いわば一本のマッチの火であった。
そのときの巡査は、シカシ何時(いつ)マタ騒動ガ勃発(ぼっぱつ)スルカ計リ知レザル形勢デアル、と報告しているが、一見不発にみえたその火は、それから8月の下旬まで、県下のいたるところで、つぎつぎに誘爆していった。 この三人の女たちをふくむ魚津の漁師の女房たちは、こえて8月5日、こんどは百人をこす人数となって、ふたたび蜂起している。
そのまえ、7月の末には東岩瀬(ひがしいわせ)町で、8月2日には泊(とまり)町で、そして8月3日には、西水橋(にしみずはし)町で、ついに三百人をこす女たちが蜂起した。
あくる4日と5日は、隣の東水橋(ひがしみずはし)町にひろがり、人数は七百人をこした。
8月6日は、この女房一揆(いっき)のなかで、いちばん<暑く長い夜>となった。
東西の水橋町と、滑川(なめりかわ)町の女たちが連合して、その数二千をこえ、金切り声と怒声が夜明けまでつづいて、いたるところで凄惨な光景をくりひろげた。 女房一揆は、片カナ漢語の多い議論の末に決定された戦術でもなければ、中央からの指令で、組織を動員したデモでもなかった。
あの三人の女をふくめて、この一揆に加わった<嬶(かか)さん>たちは、おそらく、<闘争>という字も、<搾取>という字も、だれひとりとして、読むことも書くこともできなかっただろう。
この女たちは、<アタマ>で考えて、たたねばならぬと結論して、一揆に加わったのではなかった。 女たちは、ながいあいだ、じっと歯をくいしばって、こらえてきた。
女とは、こらえるものだ、と教えられていた。
こらえる限界は、とっくにすぎていて、それでもこらえていた。
粥腹でよろめく足をふみこらえて、重い荷物を、はしけから本船へ、本船からはしけへ運んでいた。
そうしなければその粥でさえすすれなかったからである。
そうして、こらえて働いて、それで三度の粥をたく米さえ買えぬ、となって、女たちは、立ち上がった。 女たちの一揆には、旗はなかった。
労働歌もシュプレヒ・コールもなかった。鉢巻きもなかった。
乳吞児(ちのみご)を背中にくくり、こどもの手をひき、老婆は杖にすがっていた。
すすけた髪と、こけた頬と、そして目だけが、ぎらぎらと光っていた。
女たちは、町長や米問屋や資産家をつぎつぎに襲って、米をよそに売らないでくれ、もう米のねだんを上げないでくれ、とたのんだ。
家の前で、土下座してたのんだ。
途中で、巡査や役場の書紀が、解散させようとすると、女たちは、口々に、わかりました、といった。
わかりました、と口々にいって、前進していった。
監獄にぶちこむぞ、とおどかされると、はい、入れて下さい、といった。
監獄では、三度三度ご飯を食べさせて下さるのでしょう、といった。 女たちは、浜と駅へ見張りを立てて、米俵が積みこまれると知ると、何百人もの手で、その米俵を積み下した。
何隻かの汽船と、何車かの貨車が、空っぽのまま、出発していった。
そのとき、あの三人の女たちも、ほかの町の<おばば>たちも、おれたちは盗っ人(ぬすっと)じゃない、一合の米も盗んではならぬと、下知(げち)した。
事実、一粒の米も、失われなかった。
米屋や有力者には、もしじぶんたちの言い分をきかないときは、家に火をつけ、家族をみな殺しにするといったが、この女房一揆を通じて、焼き打ちされた家は一軒もないし、怪我(けが)させられた家族も、一人もなかった。 仲間の何人かが検挙されると、そのときの全員が、派出所や警察の前にすわりこんで、罪があるのなら、おれたち全部ひっくくれ、と要求した。
びっくり仰天した郡長や町長たちが、町の有力者を説いて寄附金を出させ、とりあえず、一升四十銭の米を五銭値引きして、三十五銭で渡すときためたとき、この小さな火は、もう日本中に、つぎつぎとひろがっていた。
…後略…
(『花森安治選集 3 ぼくらは二度とだまされない』花森安治 暮しの手帖社 2020年)
女たちの闘いはガンディーの闘い方と一緒だと思いました。
こころの時代~宗教・人生~
〝闘うガンディー 非暴力思想を支えた「聖典」2 結果を求めず行為せよ〟
男が加わると暴力を伴い暴動にまで激化する。
国同士だと戦争になる。
「米騒動」(中学)
今朝の父の一枚です(^^)/
シジュウカラが何か話しているみたいですね
シジュウカラなどの言葉を研究している鈴木俊貴さん
山極寿一さんとの対談の本に
Part1 おしゃべりな動物たち
この章のまとめ
◆動物たちも言葉を使う。従来思われていたよりもずっと高度な会話をしていることがわかってきた。
◆動物たちの言葉は環境への適応、つまり生存や繁殖のために進化した。だから、澄む環境によって言葉も違う。
◆動物の言語の研究は、とても難しい。安全でエサももらえる飼育下では、動物はあまりしゃべらなくなってしまうから。
◆天敵やエサなど、生存に直結する重要な情報をカテゴリーにしたことが、動物たちの言葉の発祥かもしれない。
◆人間の母親が赤ん坊にかける歌のような言葉は、ヒトの言葉の起源の一つかもしれない。
(『動物たちは何をしゃべっているのか?』山極寿一 鈴木俊貴 集英社 2023年)
シジュウカラが何か話しているみたいですね
シジュウカラなどの言葉を研究している鈴木俊貴さん
山極寿一さんとの対談の本に
Part1 おしゃべりな動物たち
この章のまとめ
◆動物たちも言葉を使う。従来思われていたよりもずっと高度な会話をしていることがわかってきた。
◆動物たちの言葉は環境への適応、つまり生存や繁殖のために進化した。だから、澄む環境によって言葉も違う。
◆動物の言語の研究は、とても難しい。安全でエサももらえる飼育下では、動物はあまりしゃべらなくなってしまうから。
◆天敵やエサなど、生存に直結する重要な情報をカテゴリーにしたことが、動物たちの言葉の発祥かもしれない。
◆人間の母親が赤ん坊にかける歌のような言葉は、ヒトの言葉の起源の一つかもしれない。
(『動物たちは何をしゃべっているのか?』山極寿一 鈴木俊貴 集英社 2023年)