2025年5月26日月曜日

梅雨入りはまだのようですが

梅雨入りは、まだのようですが、まるで梅雨寒のような寒さが続いています。
しばらくは、ぐずついた天気が続くみたいですね…

公園では、ハナミズキの花が終わってヤマボウシ(山法師)の花が咲いていました。
朝ドラ「あんぱん」第9週「絶望の隣は希望」 (41)
伝記を読んでいるので覚悟はしていたけど、月曜日なのか……

寛の死はさけられないのだけど、
原豪は、戦争も始まったばかりに徴兵されたので
兵役が終わり帰ってくるのだろうと思っていました。
蘭子と新しい家庭を築き、子どもに囲まれて幸せな家庭を営んでいる時に
再び徴兵されるのかなとも思っていました…
でも、その展開だとのぶが「愛国のかがみ」でいることに疑問をもつのはもっと後になりますね。
 第3章 あこがれの道へ 

 …前略…

  ●

 そんな楽しい学生生活もおわりに近づいたころのことです。
高知から電報がとどきました。
「チチキトク スグカエレ」
 きとくとは、命があぶないという意味です。
たかしと弟のちひろを育ててくれたおじさんが、急に具合が悪くなったのです。
 このときたかしは、卒業制作のポスターをかいていました。
それまでに勉強したことの総仕上げとして、さいごに学校に提出する作品です。
(『勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語』梯久美子 フレーベル館 2015年)
 その夜、たかしは一晩じゅうねむらずにポスターを仕上げて、朝一番の汽車に乗りました。
いそいで高知にむかいましたが、いまとちがって飛行機も新幹線もありません。
東京から大阪まで汽車で九時間、さらにそこから汽車と船を乗りついで、ようやく高知にたどりつきました。
 後免町(ごめんまち)の家につくと、おじさんはもうなくなっていました。
「兄貴(あにき)、おそいよ」
 弟のちひろが、きびしい声で言いました。
 たかしは言葉を返すことができず、子どものように大声をあげて泣きました。
(ほんとうの子どもではないぼくと弟を育ててくれてありがとう。わがままをきいて、東京の学校にいかせてくれてありがとう。美術の道に進ませてくれてありがとう。なんにもおん返しができなくて、ごめんなさい……)
 たかしは、学校を卒業したら、かならずおん返しをしようと思っていました。
 このときすでに、たかしは製薬会社に就職が決まっていました。
薬に関係のある会社で働こうと思ったのは、おじさんの医院のために役立つかもしれないと考えてのことでした。

 …後略…

(『勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語』梯久美子 フレーベル館 2015年)
   5月18日に法然院を訪ねる前に調べていたら

 重盛幻想 法然院断章
 
――京都市美術館館長 村井康彦 

 …前略…
 
 法然や法然院を語るのにことさら重盛にこだわったのにはわけがある。
次ぎのような事実があったからである。
 法然の事績を語る上で落とせない人物に弟子の勢観房源智(せいかんぼうげんち)がいる。
建久6年(1195)、法然63歳の時に入門し、以後常随18年、法然の死を見届けている。
「一枚起請文」は源智の求めに応じて法然が念仏の肝要を一筆に書いたものといい、重視されて来た。
近時、滋賀県玉桂寺(ぎょっけいじ)の阿弥陀如来像が、胎内に納められた結縁交名帳(けちえんきょうみょうちょう)によって、源智が四万五千人もの人びとに働きかけて協力を仰ぎ、造像したものと知られ、源智の存在とその役割の大きさが再認識されて来ている。
(『新版 古寺巡礼 京都 第35巻 法然院』梅原猛監修他 淡光社 平成21年)
 その源智がじつは重盛の孫であった。
重盛の孫として維盛の子、六代(ろくだい)が知られ、平家滅亡後、源氏による平家の残党狩りが行われた時、いったんは文覚(もんがく)を頼って助けられたが、のち、建久9年(1198)源頼朝没後、文覚の起こしたトラブルのために殺されてしまう。
『平家物語』はこの六代の死をもって平家は亡んだとする。
その六代の他に重盛の孫が生きのびており、法然の弟子になっていたとは、いささか驚きであった。
 源智の父(重盛の子)は師盛(もろもり)といい、母は藤原(葉室<はむろ>)光頼(みつより)と石清水八幡宮の祠官、紀(きの<田中>)成清(なりきよ)の娘との間に生まれた女で名を秘妙(ひみょう)といった。
平家滅亡後、秘妙はひそかにわが子を法然の弟子、真観房感西(しんかんぼうかんさい)に託し、感西の縁で法然の門に入った源智は、終生身分を隠して両師に仕えたという。
もっとも法然の弟子になる時、事情を知った法然がいったん天台座主慈円のもとに預けそこで出家したとも伝えており、法然自身が源智の出自を知らなかったとは思えない。
法然に随従の間、重盛の信心について語ることもあったにちがいない。
 法然は四国へ流される半年ばかり前、東山大谷を出て九条兼実の別邸・小松殿に身を寄せている。
念仏宗停止(ちょうじ)の声が高まるなかで、法然に深く帰依していた兼実が心配して身柄を引き取ったのである(安楽・住蓮の事件はそんな時に起こった)。
この小松殿はもと重盛邸だった。
詳しい経緯は分らないが、平家滅亡後、近くの月輪(つきのわ)に屋敷を構えていた兼実が領有していたのである。
法然が小松殿で過ごした期間はわずかであるが、ここでは法然と兼実の間で屋敷の旧主だった重盛のことが語られたに違いない。
法然はここを出立して四国へ赴いている。
 平重盛と法然の間に、知る限りでは直接的な関わりがあったとは思えない。
しかしわたくしには法然の生涯、ことに後半生において重盛の存在が通奏低音のようにひびいていたと思われてならないのである。
 法然院は、江戸時代に下り、延宝8年(1680)、知恩院の萬無上人が法然の遺徳をしのんで弟子の忍澂に再興させたものというが、留意したいのは、それ以前、寛永年間(1624~44)、知恩院満誉の弟子で京極浄教寺(じょうきょうじ)の住持道念が安楽房や住蓮房が六時礼讃を修した旧跡を探り、現在地をそれと定めて閑居し法然院と名付けた(『山州名跡志』)という前史があったことである。
 この浄教寺こそ、先にもふれた重盛の四十八間灯籠堂を移した寺と伝えているのである。
当寺に重盛坐像が安置されているのはそれによる。
法然の遺跡に閑居した浄教寺の僧には、法然の六時礼讃と重盛の念仏会とは重なり合い、重盛と法然とは融け合っていたのではなかろうか。
(『新版 古寺巡礼 京都 第35巻 法然院』梅原猛監修他 淡光社 平成21年)
イスラエル軍 ガザ地区へ激しい攻撃 子どもの犠牲増え続ける」(NHK 5月25日)

イスラエル軍 パレスチナ人住民を「人間の盾」に 米通信社報道〟(NHK 5月25日)

ネタニヤフ首相の狙いは、子どもたちなどパレスチナの人々を皆殺しにすることだと思えてしかたがない。
この事態を強制収容所で過酷な状況の中で生き延びた親族が身近にいるユダヤの人と
ネタニヤフ首相をはじめとするシオニストたちでは受け止め方が違うと思います。
朝ドラ「あんぱん」で描かれている日本となんら変わらないと思います。

2023年10月17日の記事で紹介した

高橋真樹さんの『ぼくの村は壁で囲まれた――パレスチナに生きる子どもたち』に書かれている「■コラム②なぜ「ホロコースト犠牲者の国」がパレスチナ人を迫害するのか?」を参照してください。
今朝の父の一枚です(^^)/
はっきりとは分かりませんがまだクチバシが黄色いみたいなので今年生まれた子かな?

 第2章 スズメ―町の代表種
 2 巣づくり・子育て
†穴があったら入りたい


 スズメの姿を確認し終えたところで、次はその生態を見ていきます。
 スズメは町の中に一年中いるような気がします。確かにその通りなのですが、その数は、季節によって大きく変わります。
 もっとも数が多いのは、春から夏にかけてです。この時期、多くの鳥がそうであるように、スズメにとっても子育ての時期にあたります。ほとんどのスズメが町の中で子育てをします。そして、ヒナも巣立っていきますので、数が増えてきます。

 …中略…

子育ての時期にスズメを見かけるということは、その分、スズメが巣をかまえて繁殖をしているということなのです。
 けれど、スズメの巣なんて見たことないとおっしゃる方も多いのではないでしょうか。それもそのはず、スズメの巣は、人目につかないところにあるのです。たとえば、瓦屋根の下にある隙間、戸袋、鉄骨の繋ぎ目、道路交通標識のパイプの中などです。
電柱についている腕金(うでがね)という金属製の四角いパイプの中に巣をつくることもあります。
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)