2021年10月10日日曜日

10月10日は

まだまだ蒸し暑い日が続いていますが、ちょっと探せば秋を見つけられる。
10月10日は1964年の第18回オリンピック東京大会を記念して「体育の日」だった。
それが「スポーツの日」になり10月の第2月曜日に移動するようなった。
去年と今年は、それも移動してしまった。
この時期にオリンピック、パラリンピックを開催していれば…
10月から始まった番組でEテレの趣味どきっ!道草さんぽ (1)「川辺さんぽ」が楽しみです。
講師の先生が多田多恵子さん。
このブログでも多田多恵子さんの本から草花の紹介をしています( ..)φ
ツユクサについても解説があった。

番組では、葛飾柴又周辺を歩き、柴又帝釈天の二天門まで来るのですが境内には入りませんでした。
その柴又帝釈天を紹介していたのが
美の巨人たち「葛飾柴又の景観×黒谷友香
昔、近くまで行っていたのになあぁ…
道草さんぽのテキストは、番組の中で紹介できなかったことも書かれています。
例えば

ミクロの世界をのぞいてみよう

秋の野原でよく見かけるセイタカアワダチソウ。
遠くから見るとモコモコの黄色い固まりにしか見えないが、近づくと小さなブーケが並んでいるみたい。

ブーケ1つが1個の頭花(とうか)
頭花はさらに小さな花(舌状花や管状花)が集まってできている。
(『趣味どきっ! 道草さんぽ』多田多恵子 NHK出版 2021年)
9月24日から飛んでしまいましたが
太宰治の「畜犬談」の続きを転記します( ..)φ
(「畜犬談」つづき)

 ことしの正月、山梨県、甲府のまちはづれに八畳、三畳、一畳といふ草庵を借り、こつそり隠れるやうに住み込み、下手な小説をあくせく書きすすめてゐたのであるが、この甲府のまち、どこへ行つても犬がゐる。
おびただしいのである。
往来に、或ひは佇み、或ひはながながと寝そべり、或ひは疾駆し、或ひは牙を光らせて吠え立て、ちよつとした空地でもあると必ずそこは野犬の巣の如く、組んづほぐれつ格闘の稽古にふけり、夜など無人の街路を風の如く夜盗の如く、ぞろぞろ大群をなして縦横に駈け廻つてゐる。
甲府の家毎、家毎、少くとも二匹くらゐづつ養つてゐるのではないかと思はれるほどに、おびただしい数である。
山梨県は、もともと甲斐犬の産地として知られてゐる様であるが、街頭で見かける犬の姿は、決してそんな純血種のものではない。
赤いムク犬が最も多い。
採るところ無きあさはかな駄犬ばかりである。
(『太宰治全集 第三巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)
もとより私は畜犬に対しては含むところがあり、また友人の遭難以来一そう嫌悪の念を増し、警戒をさをさ怠るものではなかつたのであるが、こんなに犬がうようよゐて、どこの横丁にでも跳梁し、或ひはとぐろを巻いて悠然と寝てゐるのでは、とても用心し切れるものではなかつた。
私は実に苦心をした。
できることなら、すね当、こて当(あて)、かぶとをかぶつて街を歩きたく思つたのであるが、けれども、そのやうな姿は、いかにも異様であり、風紀上からいつても、決して許されるものでは無いのだから、私は別の手段をとらなければならぬ。
私は、まじめに、真剣に、対策を考へた。
私は、まづ犬の心理を研究した。
人間に就いては、私もいささか心得があり、たまには的確に、あやまたず指定できたことなどもあつたのであるが、犬の心理は、なかなかむづかしい。
人の言葉が、犬と人との感情交流にどれだけ役立つものか、それが第一の難問である。
言葉が役に立たぬとすれば、お互ひの素振り、表情を読み取るより他に無い。
しつぽの動きなどは、重大である。
けれども、この、しつぽの動きも、注意して見てゐると仲々に複雑で、容易に読み切れるものでは無い。
私は、ほとんど絶望した。
さうして、甚だ拙劣な、無能きはまる一法を案出した。
あはれな窮余の一策である。
私は、とにかく、犬に出逢ふと、満面に微笑を湛へて、いささかも害心のないことを示すことにした。
夜は、そお微笑が見えないかも知れぬから、無邪気に童謡を口ずさみ、やさしい人間であることを知らせようと努めた。
之等は、多少、効果があつたやうな気がする。
犬は私には、いまだ飛びかかつて来ない。
けれどもあくまで油断は禁物である。
犬の傍を通る時は、どんなに恐ろしくても、絶対に走つてはならぬ。
にこにこ卑しい追従笑ひを浮べて、無心さうに首を振り、ゆつくりゆつくり、内心、背中に毛虫が十匹這つてゐるやうな窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆつくりゆつくり通るのである。
つくづく自身の卑屈がいやになる。
泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これを行はないと、たちまち嚙みつかれるやうな気がして、私は、あらゆる犬にあはれな挨拶を試みる。
髪をあまり長く伸してゐると、或ひはウロンの者として吠えられるかも知れないから、あれほどいやだつた床屋へも精出して行くことにした。
ステツキなど持つて歩くと、犬のはうで威嚇の武器と感ちがひして、反抗心を起すやうなことがあつてはならぬから、ステツキは永遠に廃棄することにした。
犬の心理を計りかねて、ただ行き当りばつたり、無闇矢鱈に御機嫌とつてゐるうちに、ここに意外の現象が現はれた。
私は犬に好かれてしまつたのである。
尾を振つて、ぞろぞろ後について来る。
私は地団駄踏んだ。
実に皮肉である。
かねがね私の、こころよからず思ひ、また最近にいたつては憎悪の極点にまで達してゐる、その当の畜犬に好かれるくらゐならば、いつそ私は駱駝に慕はれたいほどである。
どんな悪女にでも、好かれて気持の悪い筈はない、といふのはそれは浅薄の想定である。
プライドが、虫が、どうしてもそれを許容できない場合がある。
堪忍ならぬのである。
犬をきらひなのである。
早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思つてゐるのである。
たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあづからむが為に、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、その家の軒下に横たへ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺ひ、阿諛追従てんとして恥ぢず、ぶたれても、きやんと言ひ尻尾をまいて閉口して見せて家人を笑はせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とは、よくも言つた。
日に十里は楽々と走破し得る健脚を有し、獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、懶惰無頼の腐り果てたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜持無く、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互ひに敵視して、顔つき合せると吠え合ひ、もつて人間の御機嫌を取り結ばうと努めてゐる。
雀を見よ。
何ひとつ武器を持たぬ繊弱の小禽ながら、自由を確保し、人間界とは全く別個の小社会を営み、同類相親しみ、欣然日々の貧しい生活を歌ひ楽しんでゐるではないか。
思へば、思ふほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。
なんだか自分に似てゐるところさへあるやうな気がして、いよいよ、いやだ。
たまらないのである。
その犬が、私を特に好んで、尾を振つて親愛の情を表明して来るに及んでは、狼狽とも、無念とも、なんとも、言ひやうがない。
あまりに犬の猛獣性を畏敬し、買ひかぶり、節度なく媚笑を撒きちらして歩いたゆゑ、犬は、かへつて知己を得たものと誤解し、私を組し易しと見てとつて、このやうな情ない結果に立ちいたつたのであらうが、何事によらず、ものには節度が大切である。
私は、未だに、どうも、節度を知らぬ。
(『太宰治全集 第三巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^^)v
稲刈りの準備が始まったのかな?

パソコンを修理に出している間、日記はネットに繋げることのできないWin.7でつけていましたし、父の画像も印刷していました。
ブログにアップしないので日記は、早く終わっていて、本を読む時間が増えたなと思いました。
新型コロナの感染拡大以前は、午後から図書室に行って調べものなどをしていました。
というのは、何もしていないと昼寝の時間が増えてしまうからです。
入院していた時、横になっていると寝てしまい、夜中に目が覚めていました。
病院の夜間は、看護師さんたちが呼び出されたりしてブザーや靴音が響いていました。
昼間寝る時間が長いと昼夜逆転してしまうので、病棟の廊下をウロウロしていたものです。
図書室に行けなくなったので本などを転記していますが、
記事を書くのに時間がかかって本を読む時間が少なくなっています。
読みかけの本が…
これから本を読む時間を確保するために、「畜犬談」の転記が終わった後は、時々休んで記事をアップする予定です。
というのもブログ容量があとどれくらいあるのだろう?
画像をかなりの数、アップしているので…