2021年10月25日月曜日

雨が降っていたけど

冷たい雨が降り続いていたけど出かけました。
雨のおかげで静かな公園です。
台風20号が発生しています。
父が正月に台風がきたときもあったと話していました。

台風20号が発生 週末にかけ小笠原諸島に接近の可能性」(NHK)
友達が勧めてくれた本にこんなチェックリストがついていました。

 こんな介護施設には気をつけよう! チェックリスト

□ 建物や内装・家具がやたらと豪華なつくり。
□ 新聞の折り込みに入ってくるチラシの紙がやたらと良質。
□ パンフレットに「安心」「安全」や美辞麗句を謳いすぎ。
□ 求人広告をよく見かける。
□ アポなしでの施設見学ができない。
□ 体験入所ができず、やたらと契約を急がせる。
□ 入所者の話し声がせず、テレビの音しかしない。
  (薬を飲まされてボーっとしている可能性が高い)。
□ 入所者のほとんどが車椅子(歩いている人がいない)。
□ 夜間に訪問すると、個室の鍵をかけている。
□ 食事の時間や作業の時間も、
  職員が入所者の必要最低限しか話しかけない。
□ 職員が口にスプーンを突っ込むなどして、
  食事を無理やり食べさせている。
□ 機械入浴がほとんどで、
  入浴時間も10分程度しか設けていない。
□ 主治医が近隣ではなく、
  かなり遠方から来ていて往診してくれない。
□ 「終の棲家」とパンフレットでは謳っているのに、
  職員が看取ったことがないと言う
  (入所時に、看取ってもらえるかどうか訊いて確認する)。
※3つ以上あてはまったら、その施設に入れるのはちょっと待って!
(『ばあちゃん、介護施設を間違えたらもっとボケるで!』長尾和宏、丸尾多重子 ブックマン社 2014年)
何故、このような項目がチェックリストに挙げられているか
長尾和宏さんと丸尾多重子さんの対談の中で明らかにされています。

その中でもビックリしたのが…

第8章 ちょっと待って! その施設選びが命取り

長尾和宏 そして、僕からもうひとつある。
介護職員が、その施設で入所者を看取ったことがあるかどうか?
老人施設で働きながら、一度も「死」を見たことがない、見るのが怖い、という介護スタッフが増えています。
僕から言わせればこの問題、つまり施設の看取りは深刻。
介護施設を終の棲家と決めたならば、利用者さんはそこで死ぬ権利があるはずです。
なのにその対応ができず、最期はスタッフがむやみに救急車を呼んでしまい、叶うはずの平穏死が叶わないことが多い。
(『ばあちゃん、介護施設を間違えたらもっとボケるで!』長尾和宏、丸尾多重子 ブックマン社 2014年)
姪は、大学卒業後、介護施設で働いていました。
ある日、起きられなくなり仕事を辞めてしまいました。
と言うのは、仲良くしていた、おばあちゃんが亡くなりショックを受けたようです。
姪が仕事を辞めた後、数か月して父親(義弟)がくも膜下出血で倒れ、妹と看病をすることになりました。
(義弟の看病と妹を支えるために仕事を辞めたのではないかと思うほどのタイミングでした)
義弟が亡くなった後、同じ職場から声がかかり職場復帰しました。
しばらくして施設を経営している病院長から看護師の資格をとらないかと声がかかり看護学校に入学しました。
3年後、看護師の資格をとり現在、看護師として働いています。
看護師の仕事の方が患者さんを看取ることが多い。
それでも看護師の仕事を続けられるのは、父親の死などを経験したことが支えになっているのだろうなと思っています。
岩波書店のTwitterに

【今日の名言】
唐とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。


――紀貫之『土左日記』
(「」つづき)

 そして、椙がなにを思ってか寺田屋から姿を消してしまったのは、それから間もなくのことだったが、その行方をむなしく探しているうちに一年たち、あの寝苦しい夏の夜、登勢は遠くで聴える赤児の泣声が耳について、いつまでも眼が冴えた。
生れて十日目に死んだ妹のことを想い出したためだろうか。
ひとつには登勢はなぜか赤児の泣声が好きだった。
父親も赤児の泣声ほどまじりけのない真剣なものはない。
あの火のついたような声を聴いていると、しぜんに心が澄んで来ると云い云いしていたが、そんなむずかしいことは知らず、登勢は泣声が耳にはいると、ただわけもなく惹きつけられて、ちょうどあの黙々とした無心に身体を焦がしつづけている螢の火にじっと見入っている時と同じ気持になり、それは何か自分の指を嚙んでしまいたいような自虐めいた快感であった……。
(『織田作之助全集 5』青山光二、伊吹武彦、瀬川健一郎、藤沢桓夫、前川和彦編纂 講談社 昭和45年)
 赤児の泣声はいつか消えようとせず、降るような夏の星空を火の粉のように飛んでいた。
じっと聴きいっていた登勢は急にはっと起き上がると、蚊帳の外へ出た。
そして表へ出ると、果して泣声は軒下の暗がりのなかにみつかった。
捨てられているのかと抱いてあやすと、泣きやんで笑った。
蚊に食われた跡が涙に汚れてきたない顔だったが、えくぼがあり、鼻の低いところ、おでこの飛び出ているところなど、何か伊助に似ているようであったから、その旨伊助に云い、拾って育てようとはかったところ、う、う、家(うち)のなかが、よ、よごれるやないか。
伊助は唇をとがらし、登勢がまだ子をうまぬことさえ喜んでいたくらいだったのだ。
 けれど、ふだんは何ひとつ自分を主張したことのない登勢が、この時ばかりは不思議なくらいわがままだった。
伊助はしぶしぶ承知した。
もっとも伊助は自分が承知してもお定がうんと云う筈はないと、妙なところで継母を頼りにしていたのかも知れなかった。
ところが、いつもそんな嫁のわがままを通す筈のないお定が、なんの弱みがあってか強い反対もしなかった。
 赤児はお光と名づけ、もう乳ばなれする頃だった故、乳母の心配もいらず、自分の手一つで育てて四つになった夏、ちょうど江戸の黒船さわぎのなかで登勢は千代を生んだ。
千代が生まれるとお光は継子だ。
奉公人たちはひそかに残酷めいた期待をもったが、登勢はなぜか千代よりもお光の方が可愛いらしかった。
継子の夫を持てばやはり違うのかと奉公人たちはかんたんにすかされて、お定の方へ眼を配るとお定もお光にだけは邪険をするような気配はないようだった。
 お定は気分のよい時など背中を起してちょぼんと坐り、退屈しのぎにお光の足袋を縫うてやったりしていたが、その年の暮からはもう臥た切りで春には医者も手をはなした。
そして梅雨明けをまたずにお定は息を引き取ったが、死ぬ前の日はさすがに叱言はいわず、ただ一言お光を可愛がってやと思いがけぬしんみりした声で云って、あとはグウグウ鼾をかいて眠り、翌る朝眼をさましたときはもう臨終だった。
失踪した椙のことをついに一言もいわなかったのは、さすがにお定の気の強さだったろうか。
(『織田作之助全集 5』 講談社 昭和45年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^^)v
母と上った山への階段を写していました。

父はこの二日歩いていないので風がひどくなかったら歩こうと言いました。
公園に向かう途中で雨がひどくなったら、叔母への届け物をして帰るつもりでした。
強風注意報が出ていましたが横殴りの雨でなかったので少しだけ歩きました。
短時間でしたが、歩くことで気分がよかったみたいです。