2021年10月27日水曜日

夜露で…

今朝は青空が広がっていました。

この冬の電力需給 過去10年間で最も厳しい見通し」(NHK)

こんなニュースが出ると、原発を稼働するようにと発言する人が出てくるのだろうなぁ。
今朝は、夜露がかなり降りていました。
夜露といえば好きな歌を思い出します。

万葉集 巻第二 

  大津皇子(おほつのみこ)(ひそ)かに伊勢の神宮に下(くだ)て、上(のぼ)り来る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首

105
我が背子(せこ)を 大和(やまと)へ遣(や)ると さ夜更(よふ)けて 暁露(あかときつゆ)に 我が立ち濡(ぬ)れし

106
ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

(『萬葉集(一)旧版』伊藤博 他 校注 新潮社 昭和51年)
大津皇子 天武第三皇子。母は持統天皇の姉大田皇女。
文武(ぶんぶ)両道にすぐれ人々の信望を集めた。
父の他界後(686年9月9日以降)、皇太子草壁(母は持統)に対し叛逆を企て、10月2日に発覚、翌日殺された。
年24。
この事件は皇太子側が仕組んだ罠(わな)だともいう。

 禁忌を侵したことを背景に置く言葉。
天武の忌中に国家の守護神に勝手に参ることは禁忌を侵すことであった。

伊勢の神宮に下り この伊勢下向は9月24日夜半から26日朝までのことであったらしい。

大伯皇女 大津の同母姉。天武3年(674)14歳で伊勢斎宮。
弟の殺されたあと、11月16日に任解けて帰京。
105
わが弟を大和へ送り帰さなければならないと、夜も更(ふ)けて明方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとど濡れた。

 「明時」の意で、秋分の時なら午前3時から4時頃。夜更けは12時から午前1時頃。
我が立ち濡れし 連体形止めで詠嘆がこもる。

106
二人でも寂しく行き過ぎにくい秋山なのに、今ごろ君は、どのようにしてただ一人越えているのだろうか。

秋山を この「秋山」は不吉な暗いイメージを持つ。
(『萬葉集(一)旧版』伊藤博 他 校注 新潮社 昭和51年)
 池田香代子さんのTwitterに

今どき結婚に2人とも家や親が問題になるとは気の毒。
自称皇室敬愛者たちはその口さがなさのためにプリンセスに見限られた事を重く受け止め、
メディアともども、鮮やかに亡命婚をとげた2人の今後を巡っては節度を保つべきでは?
メーガン&ハリーを意地悪く追いかける報道の愚をなぞるのはやめてほしい
(「」つづき)

 伊助の浄瑠璃はお光が去ってから急に上達し、寺田屋の二階座敷が素義会の会場につかわれるなど、寺田屋には無事平穏な日々が流れて行ったが、やがて四、五年すると、西国方面の浪人たちがひそかにこの船宿に泊ってひそびそと、時にはあたり憚らぬ大声を出して、談合しはじめるようになった。
しぜん奉行所の宿調べもきびしくなる。
小心な伊助は気味わるく、もう浄瑠璃どころではなかったが、おまけにその客たちは部屋や道具をよごすことを何とも思っていず、談論風発すると畳の眼をむしりとる癖の者もいた。
煙草盆はひっくりかえす、茶碗が転る、銚子は割れる、興奮のあまり刀を振りまわすこともあり、伊助の神経には堪えられぬことばかしであった。
(『織田作之助全集 5』青山光二、伊吹武彦、瀬川健一郎、藤沢桓夫、前川和彦編纂 講談社 昭和45年)
 登勢は抜身の刀などすこしも怖がらず、そんな客のさっぱりした気性もむしろ微笑ましかったが、しかし夫がいやな顔をしているのを見れば、自然いい顔も出来ず、ふと迷惑めいた表情も出た。
ところが、ある年の初夏、八十人あまりの主に薩摩の士が二階と階下とに別れて勢揃いしているところへ駈けつけて来たのは同じ薩摩訛りの八人で、鎮撫に来たらしいが、きかず、押し問答の末同士討ちで七人の士がその場で死ぬという騒ぎがあった。
騒ぎがはじまったとたん、登勢はさすがに這うようにして千代とお良を連れて逃げたが、ふと聴えたおいごと刺せという言葉がなぜか耳について離れなかった。
 あとで考えれば、それは薄菊石(うすあばた)の顔に見覚えのある有馬という士の声らしく、乱暴者を壁に押えつけながら、この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を突き刺せ、と叫んだこの世の最後の声だったのだ。
 精一杯に張り上げたその声は何か悲しい響きに登勢の耳にじりじりと焼きつき、ふと思えば、それは火のついたようなあの赤児の泣声の一途さに似ていたのだ。
 その日から、登勢はもう彼等のためにはどんな親切もいとわぬ、三十五の若い母親だった。
同じ伏見の船宿の水六の亭主などは少し怪しい者が泊れば直ぐ訴人したが、登勢はおいごと刺せと叫んだあの声のような美しい声がありきたりの大人の口から出るものかと、泊った浪人が路銀に困っているときけば三十石の船代はとらず、何かの足しにとひそかに紙に包んで渡すこともあった。
追われて逃げる者にはとくに早船を仕立てたことは勿論である。
 やがてそんな登勢を見込んで、この男を匿ってくれと、薩摩屋敷から頼まれたのは坂本龍馬だった。
伊助は有馬の時の騒ぎで畳といわず壁といわず、柱といわず、そこらじゅう血まみれになったあとの掃除に十日も掛った自分の手を、三月の間暇さえあれば嗅いでぶつぶつ云っていたくらい故、坂本を匿うのには気が進まなかったが、そんなら坂本さんのおいやす間、木屋町においやしたらどうどすといわれると、なんの弱みがあってか、もう強い反対もしなかった。
 京の木屋町には寺田屋の寮があり、伊助は京の師匠のもとへ通う時は、そこで一晩泊って来る習わしだった。
なお登勢は坂本のことを慮って口軽なおとみも暫らく木屋町の手伝いに遣った。
ところがある日おとみはこっそり帰って来て云うには、お寮はん、えらいことどっせ、木屋町にはちゃんと旦那はんの妾が……しかし登勢は顔色一つ変えず、そんなことを云いに帰ったのかと追いかえした。
おとみは木屋町へ帰って何と報告したのか、それから四、五日すると、三十余りの色の黒い痩せた女がおずおずとやって来て、あの、こちらは寺田屋の御寮人様で、あ、そうでございましたかと登勢の顔を見るなり云うのには、実は手前共はもう三年前からこちらの御主人にお世話をしていただいておりましたが、一度御寮人様にそのことでお詫びやら御礼かたがた御挨拶に上らねばと思いながらもつい……。
公然と出入りしようという図太い肚で来たのか、それとも本当に一言謝るつもりで来たのか、それは伊助の妾だった。
 登勢はえくぼを見せて、それはそれは、わがまま者の伊助がいつもご厄介どした、よその人とちごて世話の掛る病いのある人どすさかいに、あんたはんかてたいていやおへんどしたろう。
けっして皮肉ではなく愛嬌のある云い振りをして、もてなして帰したが、妾は暫らく思案して伊助と別れてしまった。
あとで思えば気の良さそうな女だった。
(『織田作之助全集 5』 講談社 昭和45年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^^)v
シジュウカラの朝ごはんを写していましたp(^^)q

シジュウカラ
秋から冬、群れ社会の結束はかたいが、夕方には解散して、それぞれのねぐらへ。
みんなひとり暮らしなのだ。
(『鳥のおもしろ私生活(旧版)』ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)