2021年10月17日日曜日

日曜日だけど…

朝、しっかり雨が降っていましたが、天気予報を見ると
9時くらいから晴れそうだったので出かけました。
雨が降っていたので来園者は少なかったのですが
帰るころには青空が見えてきて人出が多くなりました。
先人たちの底力 知恵泉「出雲阿国 新たな文化を創り出せ!
出雲阿国のことが取り上げられていました。

阿国が男装し男役を演じる一方、相手役の女性は男性が演じていました。
こうした異性装による芸能は、阿国のかぶき踊り以前にも
平安時代末期の白拍子という男装した女性による芸能が流行していました。
また織田信長が
信長 天女のふん装をして小太鼓を打ち、女踊り (「信長公記」)
と記されています。
尾張名所図会. 附録 巻5 信長公踊の戯」(国立国会図書館 27/62)

織田家の家紋は「織田木瓜紋(おだもっこうもん)
太宰治「畜犬談」の解題を転記します( ..)φ

解題 「畜犬談」
 昭和14年10月1日発行の『文學者』第一巻第十号の創作欄に発表された。
創作欄には、ほかに「歴史 第二部」(榊山潤)、「背景」(小曾戸彌一)が掲載されている。
 この作品について作者は、あづみ書房刊『玩具』の「あとがき」のなかで、次のように書いている。

  いくらか皮膚病嫌悪の小説みたいなところがあるが、甲府では本当に野良犬どもに悩まされた。
 はじめは大まじめで、この鬱憤を晴らすつもりで取りかかつたのだが、書いてゐるうちに、滑稽になつてしまつた。
 憤慨もまた度を超すと、滑稽に止揚するものらしい。
 書き終へて読みかへしてみたら、まるでもう滑稽物語になつてしまつてゐたので、これは当時のユウモア小説の俊才、伊藤鵜平君に捧げる事にしたのである。
……
(『太宰治全集 第三巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)
寺田寅彦は結婚を三度していますが(「寅彦略年譜 熊本五高から帝大へ~42歳」を参照)
夏子さんと寛子(ゆたこ)さんは亡くなっています。
夏子さんとの思い出を記した「どんぐり」を転記します( ..)φ
  どんぐり

 もう何年前になるか思い出せぬが日は覚えている。
暮れもおし詰まった二十六日の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天(したやまりしてん)の縁日へ出かけた。
十時過ぎに帰って来て、袂(たもと)からおみやげの金鍔(きんつば)と焼き栗(ぐり)を出して余のノートを読んでいる机のすみへそっとのせて、便所へはいったがやがて出て来て青い顔をして机のそばへすわると同時に急に咳(せき)をして血を吐いた。
驚いたのは当人ばかりではない、その時余の顔に全く血のけがなくなったのを見て、いっそう気を落したとこれはあとで話した。
(『寺田寅彦随筆集 第一巻』小宮豊隆編 岩波文庫 1947年)
 あくる日下女が薬取りから帰ると急に暇をくれと言い出した。
このへんは物騒で、お使いに出るときっといやないたずらをされますので、どうも恐ろしくて不気味で勤まりませぬと妙な事を言う。
しかし見るとおりの病人をかかえて今急におまえに帰られては途方にくれる。
せめて代わりに人のあるまで辛抱してくれと、よしやまだ一介の書生にしろ、とにかく一家の主人が泣かぬばかりに頼んだので、その日はどうやら思い止まったらしかったが、翌日は国元の親が大病とかいうわけでとうとう帰ってしまう。
 掛け取りに来た車屋のばあさんに頼んで、なんでもよいからと桂庵(けいあん)から連れて来てもらったのが美代(みよ)という女であった。
仕合わせとこれが気立てのやさしい正直もので、もっとも少しぼんやりしていて、たぬきは人に化けるものだというような事を信じていたが、とにかく忠実に病人の看護もし、しかられても腹も立てず、そして時にしくじりもやった。
手水鉢(ちょうずばち)を座敷のまん中で取り落として洪水を起こしたり、火燵(こたつ)のお下がりを入れて寝て蒲団(ふとん)から畳まで径一尺ほどの焼け穴をこしらえた事もあった。
それにもかかわらず余は今に至るまでこの美代に対する感謝の念は薄らがぬ。
 病人の容体はよいとも悪いともつかぬうちに年は容捨なく暮れてしまう。
新年を迎える用意もしなければならぬが、何を買ってどうするものやらわからぬ。
それでも美代が病人のさしずを聞いてそれに自分の意見を交ぜて一日忙しそうに働いていた。
大晦日の夜の十二時過ぎ、障子のあんまりひどく破れているのに気がついて、外套(がいとう)の頭巾(ずきん)をひっかぶり、皿一枚をさげて森川町(もりかわちょう)へ五厘の糊(のり)を買いに行ったりした。
美代はこの夜三時過ぎまで結びこんにゃくをこしらえていた。
 世間はめでたいお正月になって、暖かい天気が続く。
病人も少しずつよくなる。
風のない日は縁側の日向(ひなた)へ出て来て、紙の折り鶴(づる)をいくつとなくこしらえてみたり、秘蔵の人形の着物を縫うてやったり、曇った寒い日は床の中で「黒髪」をひくくらいになった。
そして時々心細い愚痴っぽい事を言っては余と美代を困らせる。
妻はそのころもう身重になっていたので、この五月には初産(ういざん)という女の大難をひかえている。
おまけに十九の大厄(たいやく)だと言う。
美代が宿入りの夜など、木枯らしの音にまいる隣室のさびしい寝息を聞きながら机の前にすわって、ランプを見つめたまま、長い息をすることもあった。
妻は医者の間に合いの気休めをすっかり信じて、全く一時的な気管の出血であったと思っていたらしい。
そうでないと信じたくなかったのであろう。
それでもどこにか不安な念が潜んでいると見えて、時々「ほんとうの肺病だって、なおらないときまった事はないのでしょうね」とこんな事をきいた事もある。
またある時は「あなた、かくしているでしょう、きっとそうだ、あなたそうでしょう」とうるさく聞きながら、余の顔色を読もうとする、その祈るような気づかわしげな目づかいを見るのが苦しいから「ばかな、そんな事はないと言ったらない」と邪慳(じゃけん)な返事で打ち消してやる。
それでも一時は満足する事ができたようである。
(『寺田寅彦随筆集 第一巻』小宮豊隆編 岩波文庫 1947年)

つづく…
ブログの更新をお休みしている間、次に紹介したい「どんぐり」を転記していました。
目だけで読んでいると気がつかないことがいくつもあります。
一方、一文字一文字拾っていくとことで少しは頭に残るようになるかなと思っています。
これから毎日、更新するのでなく、時々休んで、猫ちゃんのように気まぐれに更新しようと思います(^^ゞ
今朝の父の一枚です(^^)v
田んぼでは稲刈りが始まっていました。
土日や休日は人出が多く散歩に出るのを控えている父ですが、
雨降りは、少ないだろうと出かけました。
歩いている途中で傘をたたみ、青空も見えました。

蕪村遺稿
 稲かれば小草(をぐさ)に秋の日の当る

(『蕪村俳句集』尾形 仂 校注 岩波文庫 1989年)