風があまり吹いていなくて、日差しが暖かかったです。
青空に浮かぶ雲がいろんな姿に変身していました。
でも、明日は天気が崩れるみたい…クヌギの葉に丸い実ではなくて虫こぶです(クヌギハマルタマフシ?)「少ない部員で全国大会!奄美市の中学校の吹奏学部が快挙」(NHK鹿児島 10月22日)
鹿児島県のニュースなので、父にインタネットで動画を見せてあげると、
生徒たちの言葉にうんうんと頷きながら見ていました。
全国大会では銀賞を受賞しました(^^♪
「コロナ下で示した芸術の本懐 全日本吹奏楽コンクール中学の部」(朝日新聞)〝「陽性者は全員入院」和歌山独自の対策から考える第6波の備え〟(NHK 10月20日)
今までにも和歌山県の対応について紹介していますが
和歌山県では南海トラフ巨大地震に備える医療体制づくりをしてきたことが、コロナ対策に活かされています。
その一環として和歌山県は、南海トラフ巨大地震への備えとして、保健所の体制を維持・強化してきました。
また、県のトップ(野尻孝子技監)みずから病院のキーパーソンに電話をかけて入院を依頼している。
衆議院選挙で各党は、公約を発表していますが
大阪や東京のように悲惨な状況に陥らないためにも、大事な選挙だと思っています。
「命を削る改革」はごめんです! (「蛍」つづき)
その頃、西国より京・江戸へ上るには、大阪の八軒屋から淀川を上って伏見へ着き、そこから京へはいるという道が普通で、下りも同様、自然伏見は京大阪を結ぶ要衝として奉行所のほかに藩屋敷が置かれ、荷船問屋の繁昌はもちろん、船宿も川の東西に数十軒、乗合の三十石船が朝昼晩の三度伏見の京橋を出る頃は、番頭女中のほかに物売りの声が喧しかった。
あんさん、お下りさんやおへんか。
お下りさんはこちらどっせ、お土産(みや)はどうどす。
おちりにあんぽんたんはどうどす……。
京のどすが大阪のだすと擦れ違うのは山崎あたり故、伏見はなお京言葉である。
自然彦根育ちの登勢にはおちりが京懐紙、あんぽんたんが菓子の名などと覚えねばならぬ名前だけでも数え切れぬくらい多かったが、それでも一月たつともう登勢の言葉は姑も嗤えなかった。
(『織田作之助全集 5』青山光二、伊吹武彦、瀬川健一郎、藤沢桓夫、前川和彦編纂 講談社 昭和45年) 一事が万事、登勢の絞る雑巾はすべて乾いていたのだ。
姑は中風、夫は日がな一日汚い汚いにかまけ、小姑の椙は芝居道楽で京通いだとすれば、寺田屋は十八歳の登勢が切り廻していかねばならぬ。
奉公人への指図は勿論、旅客の応待から船頭、物売りのほかに、あらくれの駕籠かきを相手の気苦労もあった。
伏見の駕籠かきは褌一筋で銭一貫質屋から借りられるくらい土地では勢力のある雲助だった。 しかし、女中に用事(もの)一つ云いつけるにも、先ずかんにんどっせと謝るように云ってからという登勢の腰の低さには、どんなあらくれも暖簾に腕押しであった。
もっとも女中のなかにはそんな登勢の出来をほめながらも、内心ひそかになめている者もあった。
ところがある日登勢が大阪へ下って行き、あくる日帰って来ると、もう誰も登勢をなめることは出来なかった。 それまで三十石船といえば一艘二十八人の乗合で船頭は六人、半日半夜で大阪の八丁堀へ著いていたのだが、登勢が帰ってからの寺田屋の船は八丁堀の堺屋と組み合うて船頭八人の八挺艪で、どこの船よりも半刻速かった。
自然寺田屋は繁昌したが、それだけに登勢の身体は一層忙しくなった。 おまけに中風の姑の世話だ。
登勢、尿(しし)やってんか。へえ。
背中さすってんか。へえ。
お茶のましてんか。よろしおす。
半刻ごとにお定の枕元へ呼びつけられた。
伊助の神経ではそんな世話は思いも寄らず、椙も尿の世話ときいては逃げるし、奉公人もいやな顔を見せたので、自然気にいらぬ登勢に抱かれねばお定は小用も催せなかった。 登勢はいやな顔一つ見せなかったから、痒いところへ届かせるその手の左利きをお定はふとあわれみそうなものだのに、やはり三角の眼を光らせて、鈍(どん)臭い、右の手使いなはれ。
そして夜中用事がなくても呼び起こすので、登勢は帯を解く間もなく、いつか眼のふちは黝み、古綿を千切って捨ったようにクタクタになった。
そして、もう誰が見ても、祝言の夜、あ、螢がと叫んだあの無邪気な登勢ではなかったから、これでは御隠居も追い出せまいと、人々は沙汰したが、けれどもお定はそんな登勢がかえって癪にさわるらしく、病気のため嫁の悪口をいいふらしに歩けぬのが残念だと呟いていた。 ある日寺田屋へ、結い立ての細銀杏から伽羅油の匂いをプンプンさせた色白の男がやって来て、登勢に風呂敷包みを預けると、大事なものがはいっている故、開けて見てはならんぞ。
脅すような口を利いて帰って行った。
五十吉(いそきち)といい今は西洞院の紙問屋の番頭だが、もとは灰吹きの五十吉と異名をとった破落戸(ごろつき)でありながら、寺田屋の婿はいずれおれだというような顔が癪だと、おとみなどはひそかに塩まいていたが、お定は五十吉を何と思っていたろうか。 五十吉は随分派手なところを見せ、椙の機嫌をとるための芝居見物にも思い切った使い方をするのを、椙はさすがに女で満更でもないらしかった。 五十吉は翌日また渋い顔をしてやって来ると風呂敷包みを受け取るなり、見たな。
登勢の顔をにらんだので、驚いて見なかった旨ありていに云うと、五十吉はいや見たといってきかず、二、三度押し問答の末、見たか見ぬか、開けてみりゃ判ると、五十吉が風呂敷包みを開けたとたん、出てきた人形が口をあいて、見たな、といきなり不気味な声で叫んだので、登勢は肝をつぶした。
そして、人形が口を利いたのを見るのははじめてだと不思議がるまえに先ず自分の不運を何か諦めて、ひたすら謝ると、果して五十吉は声をはげまして、この人形はさる大名の命でとくに阿波の人形師につくらせたものだ。
それを女風情の眼でけがされたとあってはもう献上も出来ない。
さア、どうしてくれると騒ぎはお定の病室へ移されて、見るなと云われたものを見て置きながら見なかったとは何と空恐ろしい根性だと、お定のまわらぬ舌は、わざわざ呼んで来た親戚の者のいる前でくどかった。 うなだれていた顔をふと上げると、登勢の眼に淀の流れはゆるやかであった。
するとはや登勢は自分もまた旅びとのようにこの船宿に仮やどりをしたのにすぎなかったのだと、いつもの諦めが頭をもたげて来て、彦根の雪の朝を想った。 ところが、ちょうどそこへ医者が見舞って来て、お定の脈を見ながら、ご親戚の方が集っておられるようだが、まだまだそんな重態ではござらんと笑ったあと、近頃何か面白い話はござらぬか。
そう云って自分から語り出したのは、近頃京の町に見た人形という珍妙なる強請(ゆすり)が流行っているそうな、人形を使って因縁をつけるのだが、あれは文楽のからくり仕掛けで口を動かし、また見たなと人形がものを云うのは腹話術とかいうものを用いていることがだんだん判って奉行所でも眼を光らせかけたようだ……というその話の途中で、五十吉は座を立ってしまい、やがて二、三日すると五十吉の姿はもう京伏見のどこにも見当らなかった。
(『織田作之助全集 5』 講談社 昭和45年)
WindowsUpdateを見ると「このPCでWindows11を実行できます」と表示されました。
でも、今のパソコンは年金生活となりバリバリ仕事で使うことがないので
基本的なことができればいいと思って購入したパソコン。
次第に起動が遅くなりOutlookを使えるまで10分以上待つ状態。
以前Windows7からアップデートしたとき使い慣れたソフトが使えなくなり、
元のWindows7に戻すと変な具合になりました。
Windows10のサポートは2025年10月14日まで継続する予定なので無理にアップデートしないでおこうと思います。