2021年10月14日木曜日

鉄道の日

まだまだ暑い!
汗がたっぷり出たので駐車場で着替えました。
今朝のニュースを見ていると、今日は「鉄道の日」だそうです。
NHKニュース おはよう日本〝「鉄道の日」青ガエルは今どこに?〟

「鉄道の日 猫が駅長 和歌山電鉄の駅ホームに猫あしらった時計」(NHK 和歌山)
第二章 新しい国づくり
 汽笛一声新橋を


 ペリーが来日したとき、はじめて汽車の模型が将軍にプレゼントされたといわれているが、それから20年もたって、明治2年に日本でもようやく鉄道建設案が決定した。
 鉄道建設は大隈重信、伊藤博文ら開明派官僚が計画推進した一大国家的事業であった。
産業輸送の必要から、近代的な交通、通信組織の整備は目下の急務だった。
鉄道なくして文明国といえるか、というわけで、人びとに文明開化の実績を目のあたりに実感させるには鉄道がいちばんとってりばやかったのである。
(『絵で見る 明治の東京』穂積和夫(絵と文) 草思社文庫 2017年)
 しかし計画の実施にあたっては国内資金にはソッポを向かれ、技術的にも資金的にも先進国にたよらざるを得なかった。
イギリス公使パークスの斡旋で、資金はイギリスのオリエンタル銀行から借り、また鉄道技術者エドワード・モレルはじめ、建設指導者や機関士らをイギリスから招き、機関車やレールなどの資材もイギリスから買いつけて、翌年からさっそく東京~横浜、神戸~大阪間の工事が着手されることになった。
当時は石炭も国内産の流通機構がなく、イギリスから輸入しなければならなかったのである。
線路の軌間はモレルの意見によって3フィート6インチ(1067ミリ)の狭軌とし、のちのち日本の鉄道の標準軌間となった。
モレルは慣れない国ではたらき過ぎたせいで結核をわずらい、鉄道の完成を待たず明治4年に東京で亡くなってしまった。
 このような巨額の国費負担には政府部内の反対も多く、ことに西郷隆盛をトップとする陸軍(兵部省)の反対意見が強かったようだ。
鉄道などより軍備拡充を先行すべし、というわけである。
汽車の吐きだす煤煙や火の粉の煙害を心配する地元住民の反対も少なくなかった。
このため、高輪付近は用地の測量が妨害されけっきょくこのあたりは海上を埋め立てて土手を築き、ここに線路を走らせることになった。
しかし、鉄道反対の急先鋒だった陸軍ものちの西南戦争の際の兵員や物資輸送の経験から、けっきょくは鉄道建設に積極的な立場をとるようになったらしい。
 こうして、橋を架け山を崩し、入り江を埋め立てて、2年間の突貫工事の結果、明治5年(1872)5月には品川~横浜間が営業を始め、10月14日には新橋~横浜間の鉄道開通式を迎えることができた。
新装になった新橋ステーションの開場式は、式場に天皇の行幸をあおぎ、内外使臣の参列のもとにはなばなしくおこなわれた。
にぎやかに飾りつけられた式場のそとには打ち上げ花火がとどろきたくさんの見物人がつめかけた。
 駅舎は築地ホテル館の建設にもたずさわったブリジェンスの設計だった。
木骨に石貼りの二階建てで、文明開化の東京の玄関口に堂々とした偉容をかまえ、まさに近代日本の始発駅と呼ぶにふさわしい存在だった。
横浜ステーションも新橋とまったく同じ建物がつくられた。
現在汐留の跡地には新橋ステーションの駅舎が復元されている。
 汽車は新橋~横浜間29キロを53分で走った。
当時の人びとは「陸蒸気(おかじょうき)」と呼んで珍しがり、
「恋の重荷を車に乗せて、胸で火をたく陸蒸気」
 などと歌った。
 乗客心得に「吸煙車以外は煙草を許さず」とあってトイレはなく、運賃は上等が片道1円50銭、中等が1円、下等が50銭と、米10キロ36銭という時代にはけっこう高かったようである。
 日本の鉄道はイギリスで開始されてから42年後、世界ではトルコに次いで16番目に当たっている。
しかし、開業の翌年には乗降客141万人を数え、明治7年には大阪~神戸間、10年には京都~大阪間、22年には新橋~神戸間が開通するなど、その後の鉄道の発達には目ざましいものがあった。
そのころ新橋~神戸間は約20時間かかったそうである。
(『絵で見る 明治の東京』穂積和夫(絵と文) 草思社文庫 2017年)

鉄道歴史展示室 旧新橋停車場
Eテレ2355 水曜日で秋に聞きたいおやすみソング「きょうの選択」♪で
今回は、又吉直樹さんが太宰治ではなくカフカを選択しました。
もし太宰治を選択したら…

太宰治は犬嫌いというより犬恐怖症だった!
そういえば、又吉直樹さんも「又吉直樹のヘウレーカ!」で犬や猫、虫などが登場するときは顔が引きつっていたなぁ…
御前崎
 ……
 犬のことでは驚いた。
その頃甲府では犬はたいてい放し飼いで、街には野犬が横行していた。
一緒に歩いていた太宰が突如、路傍の汚れた残雪の山、といってもせいぜい五十センチくらいの山にかけ上った。
前方で犬の喧嘩が始まりそうな形勢なのを逸早く察して、難を避けたつもりだったのである。
それほど犬嫌いの彼がある日、後についてきた仔犬に「卵をやれ」という。
愛情からではない。
怖ろしくて、手なずけるための軟弱外交なのである。
人が他の人や動物に好意を示すのに、このような場合もあるのかと、私はけげんに思った。
「怖ろしいから与えるので、欲しがっているのがわかっているのに、与えないと仕返しが怖ろしい」。
これは他への愛情ではない。
エゴイズムである。
彼のその後の人間関係をみると、やはり「仔犬に卵」式のように思われる。
がさて「愛」とはと、つきつめて考えると、太宰が極端なだけで、本質的にはそんなもののように思われてくる。
……
(『回想の太宰治』津島美知子 人文書院 昭和53年)
太宰治が好きだったのが

白湯と梅干
……
 外で飲んで遅く帰るときは、枕もとにおむすびを作っておくことにしていた。
炊きたての飯を、ワカオイという若布と昆布の合の子のような薄い昆布の間にはさんでプツッと、歯で、ワカオイをかみきって食べるその歯ごたえ、適当な塩味、これが太宰にとって最高の津軽風おむすびであった。
……
(『回想の太宰治』津島美知子 人文書院 昭和53年)
畜犬談」の中にポチが「(おほ)めし食(くら)つて」とか「飼ひ主に、似て来たといふわけかね」とか書かれていますが…
ポチは太宰自身だったかも…
というのも太宰治が大食漢で食い意地がはっていたことは有名だったようです。
太宰治――鮭缶に味の素

 太宰治は、大食漢であり、人一倍食い意地がはっていた。
それは、高校時代の友人や多くの作家仲間が追悼文のなかで言及している。
 東京へ出てきたときは、下宿の棚の奥にカニやみかんの缶詰ほか保存食を宝物のようにしこたましまいこみ、客の接待用としてサイダーも保管してあった。
客用としながらもじつは自分用で、思いたてばひたすらガツガツと食べた。
その食い散らかしかたはなにかに復讎(ふくしゅう)するような異常さで、訪問した高校時代の友人は、見ているだけでつらくなったという。
その食い意地のはった要因を、母不在の乳児期をおくった太宰の幼児性としてとらえることも可能だが、太宰が育った青森県津軽平野は、コメとリンゴ以外にはこれという食べ物が少なく、大食らいになるのも無理はない土地柄だったともいえる。
それに、太宰は身長175センチメートルで、当時としては長身の大男だった。
(『文人悪食』嵐山光三郎 新潮文庫 平成12年)
 かなりの大食らいでも太らなかったのは、左側肺結核症と、パビナール注射による慢性麻薬中毒症のためであった。
神経質な性格と不眠症も太宰の肥満を防いだ。
太宰が太ってしまったら、さぞ読者は幻滅しただろう。
 昭和12年、井伏鱒二(いぶせますじ)、川崎長太郎らと三宅(みやけ)島旅行をしたとき、同行の浅見淵(ふかし)は太宰の大食ぶりを目にした。
太宰は人の目をかすめていつも味噌汁(みそしる)六杯ずつを口にしている。
太宰はそれを指摘されると「みつかったか」と照れて笑ったという(浅見淵『昭和文壇側面史』)。
弘前(ひろさき)高校時代、太宰はいつも三杯分の味噌汁を魔法瓶につめて弁当と一緒に持参した。
(後略)
(『文人悪食』嵐山光三郎 新潮文庫 平成12年)
今朝の父の一枚です(^^)v
スズメが水浴びをしているところを何枚も写していました。

歩いているとヒタキの仲間らしい野鳥がいて、超望遠レンズを持った方がいたので立ち止まっていたのですが、
その方は撮影する様子が見られず、「(???)ヒタキばかり……」と独り言を言っていました。
キビタキの雄を狙っているのかな?
今は、野鳥撮影を諦めて草花や虫たちを写しているけど、スズメの仕草もかわいいなと思う…

畜犬談」の転記を終えたので、次の用意ができるまでちょっとお休みします。
太宰治全集を購入したのは学生の頃で、貧乏学生には、高い本でした。
当時は、このようなかたちで転記をするなど思ってもいなかったなぁ…