2021年10月23日土曜日

木枯らし一号

公園ではそんなに風が吹いていなかったけど
昼前に電気店に行くとき冷たい風が吹いていました。
お昼に木枯らし1号が吹いたと報道していました。
最初に出会ったのがハラビロカマリキの卵鞘(らんしょう)
これから長い月日を春が来るのをじ~っと待っている。

近畿地方で「木枯らし1号」 昭和30年以降最も早い観測〟(関西NHK)
寒いはず、

国立公文書館のTwitterに

今日(10/23)は二十四節気の一つ「霜降」。
霜が降り始める頃です。
霜で思い出したのは唐の詩人・張継の名作「楓橋夜泊」の一節
――月落ち烏啼いて霜天に満つ――
寒さと寂寥感が伝わってきますね。

画像は林家旧蔵の『唐三体詩』で、木製の活字で出版されたものです。
趣味どきっ!道草さんぽ (2)「寺社さんぽ」(10月13日放送)
を見ていて「ダニ室(部屋)」というのがあって(赤で囲んだところかな?)
そこにダニを飼っているそうです。
そしてアボガドはクスノキ科でクスノキの実は小さいけどアボガドに似ていることを初めて知りました。

2.謎の小器官「ダニ室」(名古屋大学 西田佐知子研究室)
眞子さま 30歳の誕生日 皇族としての最後の誕生日に」(NHK)

眞子さんの結婚問題に関して森まゆみさんの寄稿に共感しました。
有料会員記事なので最後の方だけを転記します( ..)φ

自分の信念で選んだならば 寄稿――眞子さんの結婚に思う」(朝日新聞 10月22日)

…(前略)…
 眞子さんは、皇籍離脱一時金をもらわず、儀式もせずに、10月26日に結婚する。
私の尊敬する知恵ある老人は「失敗のない人生はそれこそ失敗でございます」といった。
この言葉をプレゼントしたい。
家柄、財産、職業に安全弁のついたご令息との結婚など、何わくわくすることがあるだろうか。
 思うように生きたらいい。
好きな仕事をしたらいい。
もっと別の貧しい、過酷な社会があることも知るといい。
うまくいかなければやりなおせばいい。
人に強いられた人生には恨みしか残らないが、自分の信念で選んだことなら責任の取りようはある。
眞子さん、アメリカで羽ばたいてください。
これからしばらく『文藝春秋』(昭和19年9月号)に発表された織田作之助の「」を転記したいと思います( ..)φ
織田作之助の作品をそんなに読んでいませんが、今まで読んだ中でも好き作品です。

織田作之助も1946年12月に結核による大量の喀血をして東京病院(現:東京慈恵会医科大学附属病院)に入院しましたが、
翌年、1月10日に34歳の若さで亡くなりました。
 螢

 登勢は一人娘である。
弟や妹のないのが寂しく、生んで下さいとせがんでも、そのたび母の耳を赧くさせながら、何年かたち十四歳に母は五十一で思いがけず妊った。
母はまた赧くなり、そして女の子を生んだがその代り母はとられた。
すぐ乳母を雇い入れたところ、折柄乳母はかぜけがあり、それがうつったのか赤児は生れて十日目に死んだ。
父親は傷心のあまりそれから半年たたぬ内になくなった。
(『織田作之助全集 5』青山光二、伊吹武彦、瀬川健一郎、藤沢桓夫、前川和彦編纂 講談社 昭和45年)
 泣けもせずキョトンとしているのを引き取ってくれた彦根の伯父が、お前のように耳の肉のうすい女は総じて不運になり易いものだといったその言葉を、登勢は素直にうなずいて、この時からもう自分のゆくすえというものをいつどんな場合にもあらかじめ諦めて置く習わしついた。
が、そのために登勢はかえって屈託がなくなったようで、生れつきの眇眼もいつかなおってみると、思いつめたように見えていた表情もしぜん消えてえくぼの深さが目立ち、やがて十八の歳に伏見に嫁いだ時の登勢は、鼻の上の白粉がいつもはげているのが可愛い、汗かきのピチピチ弾んだ娘だった。
 ところが、嫁ぎ先の寺田屋へ着いてみると姑のお定はなにか思ってか急に頭痛を触れて、祝言の席へも顔を見せない、お定は寺田屋の後妻で新郎の伊助には継母だ。
けれども、よしんば生さぬ仲にせよ、男親がすでに故人である以上、誰よりもまずこの席に列っていなければならぬこのひとだ。
それを頭痛だとはなにごとかと、当然花嫁の側からきびしい、けれども存外ひそびそした苦情が持ち出されたのを、仲人が寺田屋の親戚の内からにわかに親代りを仕立ててなだめる……そんな空気をひとごとのように眺めていると、ふとあえかな蛍火が部屋をよぎった。
祝言の煌々たる灯りに恥じらう如くその青い火はすぐ消えてしまったが、登勢は気づいて、あ、螢がと白い手を伸ばした。
 花嫁にあるまじい振舞だったが、仲人はさすがに苦労人で、宇治の螢までが伏見の酒にあくがれて三十石で上って来よった。
船も三十石なら酒も三十石、さア今夜はうんと……、飲まぬ先からの酔うた声で巧く捌いてしまった。
伏見は酒の名所、寺田屋は伏見の船宿で、そこから大阪へ下る淀船の名が三十石だとは、もとよりその席の誰ひとり知らぬ者はなく、この仲人の下手な洒落に気まずい空気も瞬間ほぐされた。
 ところが、その機を外さぬ盞事がはじまってみると、新郎の伊助は三三九度の盞をまるで汚い物を持つ手つきで、親指と人差指の間にちょっぴり挟んで持ち、なお親戚の者が差し出した盞も盃洗の水で丁寧に洗った後でなければ受け取ろうとせず、あとの手は晒手拭で音のするくらい拭くというありさまに、かえすがえす苦り切った伯父は夜の明けるのを待って無理に辛抱せんでもええ、気に食わなんだらいつでも出戻って来いと登勢に云い残したまま、さっさと彦根へ帰ってしまった。
 伯父は何もかも見抜いていたのだろうか。
その日もまた頭痛だという姑の枕元へ挨拶に上ると、お定は不機嫌な唇で登勢の江州訛をただ嗤(わら)った。
小姑の椙も嗤い、登勢のうすい耳はさすがに真赧になったが、しかしそれから三日もたつともう嗤われても、にこっとえくぼを見せた。
 その三日の間もお定は床をはなれようとせず、それがいかにも後家の姑めいて奉公人たちにはおかしかったが、いつまでもそうしているのもさすがにおとなげ無いとお定も思ってか、ひとつには辛抱も切れて、起き上がろうとすると腰が抜けて起たなかった。
医者に見せると中風だ。
 お定は悲しむまえに、まず病が本物だったことをもっけの倖にわめき散らして、死神が舞い込んで来よった。
嫁が来た日から病い取り憑かれたのだというその意味は、登勢の胸にも冷たく落ち、この日からありきたりの嫁苛めは始まるのだと咄嗟に登勢は諦めたが、しかし苛められるわけは強いて判ろうとはしなかった。
 けれども、寺田屋には、御寮はん、笑うてはる場合やおへんどっせと口軽なおとみという女中もいた。
お定は先妻の子の伊助がお人善しのぼんやりなのを倖い、寺田屋の家督は自身腹を痛めた椙に入婿とってつがせたいらしい。
ところが親戚の者はさすがに反対で、伊助がぼんやりなればしっかり者の嫁をあてがえばよいと、お定に頭痛起させてまで無理矢理登勢を迎えたのだ。
してみれば登勢は邪魔者だ……。
登勢は自分を憐れむまえに先ず夫の伊助を憐れんだ。
 伊助は襷こそ掛けなかったが、明けても暮れてもコトコト動きまわった。
しかし、客の世話や帳場の用事で動くのではなく、ただ眼に触れるものを、道具、畳、蒲団、襖、柱、廊下、その他片っ端から汚い汚いと云いながら、歯がゆいくらい几帳面に拭いたり掃いたり磨いたりして一日が暮れるのである。
 目に見えるほどの塵一本見のがさず、坐っている客を追い立てて坐蒲団をパタパタはたいたり、そこらじゅう拭きまわったり、ただの綺麗好きとは見えなかった。
祝言の席の仕草も想い合わされて、登勢はふと眼を掩いたかったが、しかしまた、そんな狂気じみた神経もあるいは先祖からうけついだ船宿をしみ一つつけずにいつまでも綺麗に守って行きたいという、後生大事の小心から知らず知らず来た業かもしれないと思えば、ひとしお哀れさが増した。
伊助は鼻の横に目立って大きなほくろが一つあり、それに触りながら利く言葉に吃りの癖も少しあった。
 伊助の潔癖は登勢の白い手さえ汚いと躊躇うほどであり、新婚の甘さはなかったが、いつか登勢にはほくろのない顔なぞ男の顔としてはもうつまらなかった。
そして、寺田屋をいつまでもこの夫のものにして置くためなら乾いた雑巾から血を絞り出すような苦労もいとわぬと、登勢の朝は奉公人よりも早かったが、しかし左器用(ぎっちょ)の手に重い物をさげてチョコチョコ歩く時の登勢の肩の下りぐあいには、どんなに苦労してもいつかは寺田屋を追われのではなかろうかというあらかじめの諦めが、ひそかにぶらさがっていた。
(『織田作之助全集 5』青山光二、伊吹武彦、瀬川健一郎、藤沢桓夫、前川和彦編纂 講談社 昭和45年)

つづく…
田舎からバナナが届きました。
数日前、豊作だったので送ると連絡がありました。
故郷のバナナは小ぶりですが甘いです(*^^*)

散歩から帰って画像の編集をしていると蛍光灯が消えた…
慌てて電気屋さんに頼みに行くと30分ほどして来てくれました。
電気屋さんに聞かれたのですが、保証書がどこにいったかの分からなくなっていました。
LEDの場合、保証期間が長いとのこと。
でも、メーカーに問い合わせてくださって5000円で新品と交換してもらえました。
家電量販店だったらすぐに修理に来てもらえないだろうし、保証書がないと…
それにしても土曜日に故障が…(-_-;)