2020年11月23日月曜日

勤労感謝の日

勤労感謝の日で三連休最終日。
黒い雲が覆っていましたが、次第に青空になりました。
でも、帰る頃には曇り空…
途中で、顔なじみの方と出会いました。
向うの方で両手で丸をされていたので「手術がうまくいったのですか?」とお聞きすると
嬉しそうに白内障の手術が終わったと仰った。
双眼鏡がなくても鳥が見えると喜んでおられました。
「奥さんの顔もよく見えたのとちがいますか?」とお聞きすると
色々なものが見えて、それを言うと怒られたそうです(*´▽`*)
陰性証明書所持も約70人が陽性」(関西NHK)

なかのとおるさんのTwitterに

いまの感染状況でこの三連休の人出を見ると、かなり厳しいかもしれんですね。う~ん。
大阪モデル云々じゃなくて、気分は赤信号ですなぁ


大阪府過去最多490人 東京都391人日曜発表で最多 22日感染者数」(NHK)
なのに黄信号なんだなぁ…
今朝も来園者が多く、駐車場はいっぱいだった。
 奥田知志(NPO抱僕/牧師)さんのTwitterに

彼女は「電源の入らない携帯電話」を最後まで持っていた。
かつてその携帯電話の先にはどんな人々がいたのだろう。
誰かとつながっていたかったのだと思う。
いつの日か、その電話に再び誰かがかけてくることを待っていたのだ。
ただ、そんな携帯を握りしめている人は他にもいる。


渋谷殴打事件で容疑の46歳男逮捕 母とともに清掃ボランティアも近所トラブル絶えず」(東京新聞 11月22日)
「アイデンティティーの一掃」 内モンゴル抗議もむなしく進む中国語教育〟(AFP●BB News 11月22日)

かつて大日本帝国が満州、朝鮮、台湾、南洋諸島、沖縄やアイヌ民族などに強制していたこと…

周庭(アグネス・チョウ)さんのTwitterに

去年香港の警察本部であったデモの件で、明日の日本時間朝10時半から裁判があります。
裁判所から出られない可能性もありますが、無事に外に出られますように。


刑罰不遡及の原則を無視する、確立していない国は法治国家とは言えません!
11月23日 
 吉野作造(よしのさくぞう)と浪人会(ろうにんかい)との立会演説会が開かれた。 1918(大正7)年
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

2019年11月23日の記事に転記していますφ(..)

大正デモクラシー」(中学・高校)

Story日本の歴史 近・現代史編』より「美濃部達吉と吉野作造―天皇制下のデモクラシー ―」を転記しますφ(..)
美濃部達吉と吉野作造―天皇制下のデモクラシー ―

 天皇機関説


 昭和天皇の死去に伴う代替(だいが)わりの前後(1988~89年)は、天皇の戦争責任の問題を中心として、さまざまな天皇論・日本人論がそれまでになく広く展開されたが、1910年代初期、明治から大正への代替わりに際にしても、憲法論争というかたちで、学者・知識人の論壇においてであるが多数の学者を巻き込んで論争が繰り広げられた。
国家法人説(こっかほうじんせつ)にもとづいて「主権は国家にあり、天皇は国家を代表する最高機関である」とする美濃部達吉(みのべたつきち)と、穂積八束(ほづみやつか)が体系化した天皇主権説を受け継いだ上杉慎吉(うえすぎしんきち)との論争から始まった、いわゆる「天皇機関説論争」である。
(『Story日本の歴史 近・現代史編』日本史教育研究会編 山川出版社 2000年)
東京大学で一木喜徳郎(いちききとくろう)から国家法人説を学んだ美濃部達吉は、さらにヨーロッパ留学でドイツの市民的公法学者イェリネックの「憲法の変遷(へんせん)」理論から大きな影響を受けた。
それは、法や制度は歴史の産物であって永久不変のものとはとらえず、憲法を固定した法文の解釈によってではなく、民主主義の実現という歴史的発展の方向に沿(そ)って理解し、それゆえに社会が変化すれば政治組織も変化をまぬがれない、とするものである。
美濃部は論争のきっかけとなった著書『憲法講話(けんぽうこうわ)』(1912年)で、「立憲政治の本義は、国民をして政権に参与せしむること」「議会は国民の代表機関であって、国民は議会を通じて、政権に参与するもの」「議会は立法の機関たるとともに、行政監督の機関」などと、憲法学の中心にイギリスの議院内閣制をモデルとした議会主義を明確に位置づけている。
この時期は地主や都市の資本家層の支持を得て政党が成長して議会が政治の主舞台となり、藩閥(はんばつ)官僚勢力との駆(か)け引きの中で情勢によっては政党中心の内閣が成立するかとう時期である。
また、民衆が新しい政治勢力として登場し、日比谷焼打ち事件のような世論が政治の動向に決定的な影響を与え始めた時である。
論争のさなかに大正政変が起き、詔勅(しょうちょく)を濫用(らんよう)して政党勢力を封じようとした桂太郎(かつらたろう)藩閥内閣が民衆の力の前に倒れた。
まさに民主主義実現の歴史的発展の画期(かっき)、新しい時代の到来であり、美濃部学説は世論の強い支持を受けたかたちとなった。
天皇の権力の絶対無制限を説いて官僚の専制支配を認め、議会は国民の代表などではなく天皇の統治機関の一つにすぎないとする上杉説がいかに政治の実態からかけ離れていることか。
論争の勝敗は明らかであった。
美濃部の天皇機関説は学会や世論の支持を得たのみならず、政党内閣の時代には天皇や元老も含めた政界上層部の考え方とも一致していた。
浜口内閣はロンドン条約をめぐる統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題で、美濃部の条約締結は正当との意見に自信を得て調印の方針を確定している。
 民本主義

 憲法学の立場から明治憲法を自由主義的に解釈して政党政治の発達を促した美濃部とともに、政治学の立場から活発に言論活動によって現実的な政治改革を主張したのが吉野作造(よしのさくぞう)である。
大戦前の欧米留学によってデモクラシーが世界の大勢であることを認識した吉野は、東大教授として現代政治史を講義するかたわら、『中央公論』誌上にほぼ毎号自説を執筆。
ことに1916年1月の「憲政の本義を説いて其有終(そのゆうしゅう)の美を済(な)すの途(みち)を論ず」は、民意をいかに政治に反映させるかを求めていた世論に大きな一石(いっせき)を投じ、社会主義者や国家主義者をも含めた広範(こうはん)なデモクラシー論争を巻き起こした。
吉野は、立憲政治の根本精神を「デモクラシー」と位置づけ、主権者が誰であれ立憲国家として政治上尊重されるべき原理・原則を「民本(みんぽん)主義」、言わば〝国民本位の政治の実現〟と定義した。
すなわち、政治の目的は一般民衆の利益・幸福にあり、その政策の決定にあたっては一般民衆の意向を尊重するという、政権運用上の方針を「民本主義」と表現したのである。
民意の代表機関である議会(衆議院)を政治の中心に据(す)えよという吉野の主張は、選挙権の拡張とさらには普通選挙制が実現可能な政治目標であることを指摘して、その後の普選運動の強力な理論的支(ささ)えとなった。
藩閥官僚の専制政治を批判し、議会政治=政党政治を擁護する理論となった民本主義の立場から、民衆的基礎づけを持たない貴族院や軍部の改革、枢密院(すうみついん)の廃止など政治改革の必要をも大胆に主張した。
美濃部と同様に、天皇主権の明治憲法を前提としながらも可能な限り民主主義的改革を追求し、時代の転換期にあたって日本の進むべき方向を具体的に吉野は指し示したのである。
 政党の自殺

 昭和恐慌、満州事変、五・一五事件と社会が徐々に暗転(あんてん)していくにつれ、軍部や国家主義者の美濃部に対する機関説排撃(はいげき)の論調は高まっていった。
貴族院議員・陸軍中将菊池武夫(きくちたけお)が当時貴族院議員であった美濃部の著書『憲法撮要(さつよう)』をとりあげて機関説が反国体(こくたい)学説でるとあらためて攻撃したのである。
美濃部は本会議で堂々と反論し、最後まで自説を曲げなかった。
穏健(おんけん)な岡田啓介(けいすけ)内閣ははじめ美濃部を擁護したが、内閣打倒をねらう政友会は軍部・国家主義者とともに内閣を突き上げ、衆議院は「国体明徴(こくたいめいちょう)」を満場一致で可決して、議会中心主義を説いた機関説を自らの手で投げ捨ててしまった。
1935年、時代は再び大きく転換しようとしていた。
(『Story日本の歴史 近・現代史編』日本史教育研究会編 山川出版社 2000年)
今朝の父の一枚です(^^)v
いつもはトリミングしているのですが、今回は、ジョウビタキ♂を画面いっぱいに写せています(^^)v
途中で落ち合って休憩していた時に「今日は鳥に会えない」とボヤいていたのですが
写したいという気持があると出会えるようです!
一方、私の方は、会えなくても仕方がないと思っているので
会っても写す間もなく飛び去ってしまいました(^-^;