2020年11月18日水曜日

小春日和というよりも…

この頃、校外学習の小学生や幼稚園の子どもたちによく出会います。
今朝は、天気もよくて気持ちよかっただろうな(*´▽`*)
歩いていると小春日和というよりも暑かった(^-^;

18日は夏日のところも!?」(えりの気象日記 11月17日)
中国・武漢の市民記者、禁錮刑の恐れ 感染流行報じて起訴」(BBCNEWS)

隠蔽や弾圧はこれからも続くのだろうな…
香港も心配です。
米 オバマ氏回顧録 「硬直化し、迷走した日本政治の象徴だ」〟(NHK)
という報道に対して

飯田哲成さんのTwitterには、

【悪質なNHKのデマ報道】
これは原書とは真逆で、鳩山由紀夫氏への名誉毀損もの。
プロ翻訳家
カツミタカヒロ氏@tkatsumi_eによれば
「(中略)鳩山由紀夫首相と経済危機、北朝鮮、沖縄の米海兵隊基地移設問題について協議した。独特で気さくな人物だったが、10年もの間日本を苦しめた硬直化した目的のない政治の病理により3年足らずで4人目の首相となり、私の就任後2人目の首相となった。7カ月後、彼はいなくなっていた。」


語学力がないので翻訳本が出版されたら読みたいと思っています。
11月18日
 官営八幡(やはた)製鉄所の開業式が行なわれた。 1901(明治34)年

 新しい溶鉱炉(ようこうろう)が北九州八幡村の空に高くそびえる前で、この日、午前10時半から製鉄所の開業式が行なわれた。
まず農商務大臣平田東助(ひらたとうすけ)がお祝いの言葉を述べ、つぎに製鉄所長官和田維四郎(わだつなしろう)が製鉄所設立の経過と現状について述べた。
 和田によると、八幡村に製鉄所をつくったのは、近くに石炭があり、水陸の便もよいためであった。
また原料の鉄鉱石については、国内産ではとてもたりないので、主に中国の大冶(ターイエ)鉄鉱石を日本のコークスと交換で買い入れることになったと説明した。
ここに日本の近代製鉄業の基礎が築かれた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
官営八幡製鉄所」(小学6年)

日本の歴史22 大日本帝国の試練』より官営八幡製鉄所について転記しますφ(..)
産業革命
 官営八幡製鉄所


 近代戦は鉄の戦いである。
参謀本部編『日清戦史』には、1つの戦闘が終わるごとに、その戦闘での死傷者とあわせて、消耗した弾薬の量がしるされている。
たとえば平壌の戦いでは、榴弾(りゅうだん)680発、榴散弾(りゅうさんだん)2128発、霰弾(さんだん)16発、小銃弾28万4869発と報告されている。
当時の日本軍にとって、弾丸は単なる消耗品ではなく、貴重な財産だったのである。
ということは鉄が貴重品だったということである。
日清戦争のころ、その鉄は日本ではごくわずかしか生産されていなかった。
たとえば日清戦争中の27年に国内産額はわずかに1万9400トンにすぎないのにたいし、輸入が13万4000トンにのぼっていた。
日清戦争は輸入した鉄で戦われたわけである。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
 鉄の国内需要は、陸海軍軍需用のほか、鉄道用レールや船舶用の需要増加につれてその後もしだいに増大し、29年には銑鉄6万5000トン、鋼材22万2000トンにのぼったが、その90パーセント近くは、イギリスをはじめ、海外からの輸入にあおがなければならなかった。
 極東の情勢はどう動くか不安をはらみ、国防の充実は一日もゆるがせにすることができない、という危機感のなかで、衆議院は28年、製鉄所の設立を建議し、翌年の第9議会せ製鉄所設立費490万円、4ヵ年の計画を議決した。
当初のもくろみでは、各種の鋼材を一時に生産することはできないので、とりあえず兵器用鋼材と鉄道用レールの生産を主とし、一般用は従として、年生産高6万トンでスタートし、経験をつむにつれて拡大する方針をきめた。
 製鉄所の用地として選ばれたのは、筑豊(ちくほう)炭田を背後にもつ福岡県遠賀(おんが)郡八幡(やはた)村(現在の北九州市八幡区)である。
原料については、鉄鉱石は25年以来の調査により、国内に豊富に存在するので心配ないということになっている。
石炭は筑豊の二瀬(ふたせ)炭坑を買収して間にあわせた。
技術については最新の技術を導入するため、技師数名を欧米に派遣し、設計はドイツ人の専門家に委嘱した。
当時の日本の技術水準では、逆立ちしても独力では手に負えない仕事だったのである。
高炉も平炉もみなドイツの設計で、機械もドイツ製であった。
 そればかりではない。
このような巨大な近代的製鉄設備を動かした経験のない日本では、具体的な操業についてもドイツ人の技師や職工長の指揮をあおがなければならなかった。
製鉄所長官の年俸が6千円――これも当時の労働者の年収が250円程度であったことを考えれば、たいへんな高給であるが――にたいして、作業長として招聘(しょうへい)されたドイツ人技師グスタフ・トッペは年俸1万9千2百円であったし、各職場の職工長も年俸4千円前後の高給で迎えた。
そうでなければ遠い異国の日本まで来るものはなかったのである。
 苦心の操業

 作業にあたる日本人職工は、ほとんどがズブのしろうとであるから、ドイツ人職工長たちは職場につききりで指導した。
言葉は通じないし、作業は一刻を争うし、不馴れな労働者は思うように動かぬしで、ドイツ人職工長たちはイライラした。
当時の事情について、一老職工はこう語っている。
 「ドイツ人と私ども作業する者との間では言葉が全然通じませんので、仕事の間に彼らが合図をする。指を一本出してみせたり二本出したり、手をあげたりする。今でこそなるほどと理解もできることですが、当時は何もわからなかった。じれったくなったドイツ人どもが、首ったまをひっとらえにくる。ステッキを振り廻すので、だれもかれもひどい目にあったもんです」(『八幡製鉄所五十年誌』)
 工場建設の過程で、いくつかの計画変更が生じた。
その一つは、欧米製鉄業の発展に対応して、規模をいっそう大きくして年産9万トンとし、あわせて設備の充実をはかる必要を認め、31年の特別議会で647万円の追加予算をくんだことである。
創業費としては、さらに原料鉱山費などを加えてけっきょく1400万円近くの巨費を、この1製鉄所につぎこむことになった。
 もう一つは鉄鉱石である。
当初の計画では鉱石は国内でじゅうぶん自給できる見通しであったが、需要の増大と採掘計画の齟齬(そご)のため、中国大冶(だいや)鉄山から購入することが必要となった。
そこで和田製鉄所長官は、明治34年みずから清国におもむいて大冶鉱石の購入を契約した。
これは日本の軍事上重要な基幹産業が、その原料を中国に求めることになったという点で、注目すべき決定である。
日本の鉄鋼業は中国の原料なしには存立しえないことになった。
 第一溶鉱炉は明治34年2月に火入れをして操業を開始したが、不馴れなため故障が続出した。
コークスが悪く、溶鉱炉はつまる。爆発はする。
火を入れたかと思うと故障して修理に三ヵ月もかかった。
そのため、操業1年半で作業を中止するほかなかった。
しかし、日露の風雲はますます険悪であるから、操業の再開は焦眉の急であった。
溶鉱炉にふたたび火を入れたのは、日露戦争のはじまった37年7月のことである。
 日清戦争後、鉄鋼の需要が増加し、価格も上昇するにつれ、東京や大阪で鉄鋼所の設立がいろいろ計画されたが、莫大な資金と高度の技術を必要とするため、どれもうまくいかなかった。
32年、大阪に設立された日本鋳鋼所も、故障の続出と経営の困難のため、翌年には早くも住友に身売りしなければならなかった。
民間製鉄業としては釜石(かまいし)製鉄所だけが、その苦心の経営によって火をともし続けただけであって、日本の近代的鉄鋼業は、官営八幡製鉄所という姿で、上から軍事目的を中心として作られなければならなかったのである。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
今朝の父の一枚です(^^)v
咲くのを楽しみにしていた皇帝ダリアが咲きだしました。
今朝は、野鳥に出会えなかったと残念がっていました。
2時間弱ほどの散歩で野鳥に出会うのは難しいです。
それでも会えることがあるので
父も楽しみながら散歩に出かけることができます。
午後から心臓リハビリに通院しました。
始まるまでの時間などに読んでいたのが
ルース・ベイダー・ギンズバーグ
中学生から読める本です。
後日、紹介したいなと思ってます。

30分間のトレッドミルで歩行距離は1.69km、消費カロリーは82kcalでした。
最近、入院中の時のように体が重く感じます。
午前中、2時間弱のリハビリ散歩をするのですが、午後からは、ほとんど自宅で自粛中。
心臓の機能が落ちているのかなと思います。
新型コロナの感染者が増加しているので、以前のように図書室に歩いていって調べ物をしたりするのも…