2020年11月12日木曜日

冷たい風…

今朝のニュースを見ていると、今シーズン一番の冷え込みだとか…
風が冷たかったです。

12日朝 空気冷たく感じそう」(えりの気象日記 11月11日)
昨日は、Windowsアップデートで四苦八苦していました。
アップデートの後、入力が重たい重たい…
姪に連絡すると、パソコンが重たくなったから今年買い替えたと返事がありました。
これまでだと新しいOSが出た後もサービス終了まで使えたのに(7、8年)
これでは2、3年で買い替えろと言われているみたい。
この画像の編集をしていると途中でフリーズしたりしてなかなか作業が進まない(`´)
三つ嫌な予感の内、二つは外れました。
一つ目は、大阪市の住民投票の結果。
二つ目は、アメリカの大統領選挙の結果(まだ確定されていないけど)。
嫌な予感が当ったのは?
三つ目、住民投票の後、感染が一気に増えること…
大阪だけではないと言われると思いますが、
大阪府の感染者数(NHK)」のグラフを見ていると住民投票が影響しているように思えてしまう。

関西で感染過去最多 対策継続を」(関西NHK)

なかのとおるさんのTwitterに

大阪で過去最多の感染者数。
パニックになってないのはいいけれど、落ち着きすぎてるような気もします。
東京の方が警戒感は高いですね

Agnes Chow 周庭さんのTwitterに

香港の立法会議員4名の議員資格が中国に奪われました。
今日、中国の全人代が「国家安全に脅威を与える立法会議員は資格を失う」という決定を可決し、民主派議員4名は即日議員じゃなくなりました。
それに伴い、他の民主派議員全員は中国政府への抗議を示すため、共に辞職することを発表しました。

BBCニュースの記事

アルツハイマー病の元バレリーナ、「白鳥の湖」聞いて踊りを思い出す スペイン

身についたものは甦るのだな…
Twitterには、心ないリプもあるので記事にリンクをしました。
11月12日
 岩倉具視(ともみ)らの遣外(けんがい)使節団が横浜を出発した。 1871(明治4)年

 不平等条約の改正の打診と欧米文明の見聞を目的とする使節団の全員が、この日の朝8時、神奈川県庁に集まった。
全権大使は岩倉具視、副使は木戸孝允(きどたかよし)ら3名。
馬車で波止場に向かい、蒸気船アメリカ号に乗ると、19発の祝砲が使節団の門出を祝った。
乗船者は華士族54名、女子学生5名で、このなかには中江兆民(ちょうみん)や最年少でようやく8歳の津田梅子(つだうめこ)もいた。
 12時に出航合図の大砲がうたれ、船はゆっくりと動き出した。
港の軍艦上では水兵たちが整列して帽子をとり敬礼した。
海上では、他の船が伴走してアメリカ号を見送り、かれらの壮途(そうと)を祝った。 
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
岩倉使節団」(中学・高校)

Story日本の歴史 近・現代史編』より「岩倉使節団の異国体験」を転記しますφ(..)
使節団の構成を見ると、現在の日本政府よりよっぽど多様性や女性参加が進んでいると思う。
8歳の津田梅子を留学させるのですから!
今の日本は、すぐに成果が上がることばかりを考えている。
岩倉使節団の異国体験

 岩倉使節団とは


 1871(明治4)年に出発した岩倉使節団と呼ばれる政府の公式訪問団は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、スイスなど訪問国12(ポルトガルとスペインは内乱で訪問中止)、期間約1年10か月(予定は10カ月)、総勢50人に迫る近代史上最大の使節団であった。
全権大使となった右大臣の岩倉具視をはじめ、副使に大蔵卿大久保利通(おおくぼとしみち)、参議木戸孝允、工部大輔(たゆう)伊藤博文(いとうひろぶみ)など大臣級が名を連ね、全体の平均年齢が30歳代(最高は岩倉の47歳)というのも維新直後とはいえ現在では考えらえない構成である。
(『Story日本の歴史 近・現代史編』日本史教育研究会編 山川出版社 2000年)
各省派遣の随員にはそれぞれの視察分担も課せられた。
藩別では、薩摩・長州・土佐・肥前(ひぜん)出身者が多いが、幕末の洋行経験や語学力を買われた旧幕臣(ばくしん)も含まれ、まさに「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」であった。
一行はほかに40数名の留学生を伴っていて、山川捨松(やまかわすてまつ<後の大山巌(おおやまいわお)の妻>)や女子英学塾(後の津田塾)を開く津田梅子(つだうめこ)など5人の少女留学生もいた。
中江兆民(なかえちょうみん)も同じ船でフランスに留学し、使節団のような上(政府)からの近代化ではなく、下(民衆)からの近代化の重要性を実感して、自由民権運動の理論家としての素地(そじ)を養った。
一方、留守方(るすかた)も大変であった。
発案者で大隈使節団ともなるはずであったが大久保らに阻(はぼ)まれた大隈重信(おおくましげのぶ)や、西郷隆盛(さいごうたかもり)中心の留守政府は、出張中は新政策を行わない約束などまでさせられた。
使節団組か留守番組かがその後の分岐(ぶんき)点ともなった。
しかし廃藩置県直後の2年近くも何もしないわけにはいかない。
学制公布、太陽暦への改暦、徴兵令、地租(ちそ)改正などは留守政府の施策(しさく)である。
 岩倉使節団の見たもの

 横浜から船で出航した使節団は23日かけて太平洋を渡り、アメリカに到着後早くも日本との落差に驚かされる。
すでに大陸横断鉄道が完成し、動くホテル(寝台車)を経験する。
本来の目的であった幕末の不平等条約改正の予備交渉は、必要な全権委任状がないため、大久保と伊藤が日本に引き返すという失態で始まった。
しかも彼らが太平洋を再度戻った時には、条約改正交渉は断念され、重点は西洋の文物・制度の視察や新政権発足にあたっての友好・親善外交に移っていた。
アメリカから渡ったヨーロッパでも議会、刑務所、学校、教会、工場、軍士官学校、鉄道や運河などを精力的に視察した。
工場見学では言葉の違いに加えて、企業秘密を理由に詳しい説明を拒(こば)まれるなど戸惑いも多く、長い旅行中の大久保と木戸の対立など使節団の人間関係も一筋縄にはいかなかった。
西洋を積極的に採用するか否かの溝は容易には埋まらなかったと想像できる。
 使節団は実際の施設見学のほかにも、自由・人権と政府の制限、女性優先の風習、人前で平気で抱き合う男女など、各国の国民性や東西の価値観の違いを中心に社会・風俗にも目を配っている。
その驚き様は随行した久米邦武(くめくにたけ)の報告書『特命全権大使・米欧回覧実記(べいおうかいらんじっき)』(岩波文庫・全5冊)に詳しい。
 日本の近代化に生かされた経験

 帰国後、彼らは留守政府との征韓(せいかん)論争(朝鮮を武力を用いても開国させるべきか国内統治の充実を優先するかの論争)に勝利して留守政府組の多くを追放して主導権を握り、自らが見聞した西洋の制度や文化を採り入れ、不必要な物は切り捨てていくとこになる。
例えば伊藤らは日本が採るべき制度について、アメリカでは民主主義の発展や自由・自主の精神に感激しつつも、皇帝不在の共和政や州(地方)自治が強い連邦制が日本のめざす天皇絶対の中央集権制には不都合なこと、フランスでは訪問直前に起きたパリ・コミューンのような民衆(労働者)自治政権では困ること、イギリスは議会の権限が強すぎること、廃藩置県と同年に統一した若い国家で強い皇帝制という共通項を持つドイツのドイツの政治制度や法律を参考にすべきであることなどを視察中に見抜いていた。
また、大国の間で翻弄(ほんろう)されるベルギー、オランダ、スイスなど小国の姿に日本を重ね合わせ、国際法も大国の利害の前では無力になりかねないとうパワー・ポリティクス(武力を背景にした権力外交)を体感し、軍隊の育成と民力の結集(富国強兵)に思いを馳(は)せている。
帰国時に寄港した東南アジアや中国では、本国とは違う傲慢(ごうまん)な西欧人や遅れたアジアの怠惰(たいだ)な様子を目(ま)の当たりにして、後(1885年)に福沢諭吉(ふくざわゆきち)が唱える「脱亜(だつあ<入欧(にゅうおう)>)論」に近い感想を持つに至った。
 主目的であった条約改正は進展せず、莫大(ばくだい)な費用と時間を費やしただけという使節団に対する低い評価もある。
しかし、この見聞が西洋を大胆に採り入れた富国強兵・殖産興業(しょくさんこうぎょう)・中央集権体制などの近代化の推進に生かされたこと、日本人の中に脱亜入欧的発想と小国が生きるための知恵を学んだことは言うまでもない。
現代の感覚で推し量(はか)る以上の知見を得た大使節団であった。
(『Story日本の歴史 近・現代史編』日本史教育研究会編 山川出版社 2000年)
今朝の父の一枚です(^^)v
公園ではすでに新年の準備が始まっています(*´▽`*)