2020年11月28日土曜日

冷たい風が吹いていたけど

時々、雲の間から青空が見えたけれど、冷たい風が吹いていました。
ちょっと分かりづらいと思いますが、虹が薄く見えました。

土日 日中も肌寒い」(えりの気象日記 11月27日)
岩波書店のTwitterに

今日はイタリアの法学者ベッカリーアの命日(1794年)。
啓蒙主義の見地から封建時代の刑罰制度の非人道性を批判し、罪刑の法定を強調しました。
古典派刑法学の祖で、彼の『犯罪と刑罰』は、近代ヨーロッパ刑法思想の礎石となった重要な古典

犯罪と刑罰
岩波文庫ではありませんが、手元にあるのが
犯罪と刑罰』(小谷眞男 訳、東京大学出版会 2011年)

表の帯に書かれているのが
あなたは人を裁けますか?
“死刑・拷問の廃止”“罪刑法定主義”“応報刑から教育刑へ”などを明確に提唱し、ドストエフスキー『罪と罰』構想の源泉となった近代刑法革命の金字塔『犯罪と刑罰』。


裏に書かれている一つが、

――私は、以下の一般的な公理にいかなる例外をも見出しえない。
その公理とは、一人ひとりの市民は、どんなときに有罪とされ、どんなときに無罪とされるかを、知らされていなければならない、という公理である。 
 (「公共の平安について」)」

「罪刑法定主義」を否定して刑法を都合よくかえる国は独裁国家であり、恐怖政治が国民を支配している国だと思う。
Agnes Chow 周庭さんのTwitterに

Admin: 今日、周庭に面会に行った日本人の友達が、彼女から日本語で応援してくださっている皆様へのメッセージを預かりました。

「日本の皆さん、たくさんの人が応援してくれていると聞いて、心が強くなりました。
ありがとうございます。
今、私は一生懸命この環境に適応しようとしています。
食欲はないけど、食べる努力もしています。
乗り越えるためにはエネルギーを蓄えないといけないから。
12月2日に外に出られるかはわからないですけど、外で3日の誕生日を祝えることを願っています。
寂しい時もありますが、がんばります。」

国家によって理不尽な扱いを受けている香港の人々。
かつて日本でも
今朝のNHK映像ファイル あの人に会いたい
アンコール 水木しげる(漫画家)
再放送がEテレで12月4日午後1時50分からあります。
その中で、水木しげるさんが話していたことを一部紹介しますφ(..)

(昭和18年召集)
大日本帝国の兵隊としておかしかったんだろうね。
とにかくパチパチパチパチ
面白いほど殴られてたね代表で
だから軍隊入ったのはいいけれども
言うことを聞かず軍律に反することが多すぎるから、すぐ野戦です。


(ラバウルへ出征
ある日、たった9人で最前線に偵察に出され、敵の奇襲で、味方は壊滅します。
生きて帰りますが、上官に罵倒されました)

「何で、おまえだけ生きて帰ったのか」って驚いたね。
歓迎されると思ったら「死ね」って
あれには驚いたね。
「おまえだけ何で生きているんだ」と
そんな馬鹿な話はないでしょう。生きてるのに。

 (その後の爆撃で、左腕を失いながらも、再び、九死に一生を得ました。
この戦争体験は、後に『総員玉砕せよ!』昭和48年執筆。
「お国のため」という大義のもと、死んでいった人々の無念を描きました)

描かされたとう感じなんです。
描いてしまってから「ああ」みたいな感じです。
出来上がるまで、何か無我夢中ですね。

(誰が描かせたのですか?)

やっぱり死んだ連中だろうね。
だから、自然の声。
「そういうことはしない方がいい」という自然の声だと思いますよ。


あの人に会いたい「アンコール 水木しげる(漫画家)」より
11月28日
 浄土真宗の開祖、親鸞が京都で死去した。 1262(弘長<こうちょう>2)年

 11月に入ると90歳の身には寒さが一層きびしく感じられ、病床に伏すようになった。
死の近いことを悟った親鸞は、常陸(ひたち)国の門弟たちに手紙を書き、貧しい娘の覚信尼(かくしんに)親子の生活の援助をしてくれるように遺言し、この日午後2時ごろ静かに息をひきとった。
越後(えちご)にもどっていた妻恵信尼(えしんに)に悲報が届いたのは翌月20日のことであった。
親鸞は法然の専修念仏(せんじゅねんぶつ)の思想を深めることに一生をかけ、寺や教団をもとうとしなかった。
越後や常陸で民衆に接し、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機説(しょうきせつ)を唱えるなど、独自の思想をうちたて浄土真宗の開祖となった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
新しい仏教」(中学・高校)

梅原猛、日本仏教をゆく』より「親鸞 悪の自覚と深い懺悔の〝詩人〟」を転記しますφ(..)
この本、品切れになっているのがもったいないなと思います。
Ⅲ 仏教の革命
 親鸞 悪の自覚と深い懺悔の〝詩人〟


 親鸞が法然に入門したのは29歳のときであり、法然は69歳であった。
新たなる浄土念仏(じょうどねんぶつ)の教えを説いた法然の名声は高く、彼の教えに対する旧仏教側の反撃も起ころうとしていた。
親鸞の法然入門の時期は遅く、すでに法然には信空(しんくう)、感西(かんせい)、源智(げんち)などの大勢の弟子がいた。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
 法然が『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を書いたのは、親鸞が法然に入門する3年前であるが、入門4年目、法然は親鸞に『選択集』を貸し与え、それを書き写すことを許した。
『選択集』は、法然がひそかに九条兼実(くじょうかねざね)に提出し、みだりに他人に見せることを禁止した著書であるが、法然は感西や安楽(あんらく)や証空(しょうくう)をその撰述に参加させ、浄土宗鎮西派(じょうどしゅうちんぜいは)の祖である弁長(べんちょう)や、後の嘉禄(かろく)の法難(ほうなん)で主役を演じる隆寛(りゅうかん)などには、親鸞よりも先に『選択集』を写させている。
 法然が特別に親鸞を重んじていたとは決していえない。
それゆえか「四十八巻本」をはじめ主だった法然の伝記には親鸞のことがまったく書かれず、法然が親鸞に『選択集』を授ける約半年前に「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」に署名した弟子たちの名の86番目に親鸞の元の名である綽空(しゃくくう)という名が見出されることが、親鸞教団に伝わる資料以外では、親鸞が疑いなく法然の弟子であったことを示す唯一の証拠である。
 親鸞は法然の外様(とざま)の弟子としかいいようがないが、弟子唯円(ゆいえん)の撰した『歎異抄(たんにしょう)』に、法然に騙(だま)されて地獄に堕ちてもかまわないと親鸞は語ったと記されているように、彼は一生師を厚く敬い、深く慕い、師の教えを反芻(はんすう)しながら思索し、布教し、著作したといえよう。
それゆえ親鸞は、法然を宗祖とする浄土宗に代わって、親鸞を宗祖とする浄土真宗(しんしゅう)という教団を興す意思などまったくもっていなかった。
親鸞はしばしば「浄土真宗」と語るが、それは浄土宗という意味である。
 親鸞の父は皇太后宮大進日野有範(こうたいごうぐうだいしんひのありのり)であるが、有範は以仁王(もちひとおう)の乱に連座し、失脚したという。
日野家は室町時代には代々の足利(あしかが)将軍の妃を出す家として栄えたが、このときはまだ中級貴族にすぎなかった。
親鸞は9歳のときに、四度天台座主(てんだいざす)を務めた宗教界の大ボスである慈円(じえん)の弟子となった。
親鸞の出世は当然期待されたと思われるが、29歳のときに京都の六角堂(ろっかくどう)に百日参籠(さんろう)し、聖徳太子の夢のお告げによって法然門に帰した。
叡山(えいざん)仏教の腐敗堕落が、純潔な心をもつ親鸞には耐え難かったからである。
 外儀(けぎ)のすがたはひとごとに
 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪偽(とんじんじゃぎ)おほきゆゑ
 奸詐(かんさ)ももはし身にみてり
 (「愚禿悲嘆述懐(ぐとくひたんじゅっかい)」)

 これは親鸞の自己反省の言葉であるが、同時に叡山仏教の聖僧をみての厳しい批判の言葉であろう。
 こうして親鸞は法然に入門したものの、彼はまた深い悩みを抱く。
90歳まで生きた親鸞は体は頑丈であったにちがいなく、その頑丈な体をもった親鸞には激しい情欲があり、その情欲を抑えようとすると心は千々(ちぢ)に乱れ、念仏に集中できない。
親鸞はこのことに深く悩み、再び六角堂に参籠する。
そして何日目かの夢に六角堂の本尊(ほんぞん)である救世観音(くせかんのん)が現れて、次のような偈(げ)を賜った。
 行者宿報(ぎょうじゃしゅくほう)ありてもし女犯(にょぼん)せんに
 われ玉女(ぎょくにょ)の身となりて犯され
 一生の間能(よ)く荘厳(しょうごん)して
 臨終(りんじゅう)には引導(いんどう)して極楽(ごくらく)に生ぜしめん
  (「親鸞聖人伝絵(しんらんしょうにんでんね)

 救世観音が「おまえの業が深くてどうしても女性が必要だとすれば、私が女身になっておまえに犯され、一生の間おまえの人生を立派にして、臨終のときは極楽浄土に往生(おうじょう)させてやろう」といったという。
 私は、これは公然たる妻帯(さいたい)の主張であると思う。
法然の教えに従えば、「ナムアミダブツ」と称(とな)えればどんな人でも必ず極楽往生できるという。
とすれば、戒を守ることはほとんど意味をもたないが、法然自身は固く戒を守った。
法然の弟子の信空なども戒を保持し、法然を開祖とする彼の寺を金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)と名づけている。
そして法然の対する世の僧俗の尊敬は、法然が堅固なる持戒者であることによってでもあった。
しかしそれは必ずしも法然が『選択集』などに述べている法然の教説に合致しない。
 親鸞は純粋に法然の教説に従って戒を廃棄し、公然と妻帯を主張するのである。
親鸞が法然に『選択集』を授けられた2年後、建永(けんえい)の法難と呼ばれる弾圧が起こり、その結果、安楽・住蓮(じゅうれん)は死刑、法然は四国に、親鸞は越後(えちご)に流罪(るざい)と決定する。
このとき親鸞も死刑に決まっていたのに、親族の公卿(くぎょう)の尽力によって死刑を免れ、流罪になったという。
 親鸞がこのような重い刑罰を科せられたのは、公然と妻帯を主張する過激な行動が、旧秩序を重んじる人々の憎しみを買ったゆえにちがいない。
この件について親鸞は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』で次のように語っている。
 「主上(しゅじょう)・臣下(じんげ)、法に背(そむ)き義に違(い)し、忿(いかり)を成し怨(うらみ)を結ぶ。これに因(よ)りて、真宗興隆の大租源空法師(だいそげんくうほうし)ならびに門徒数輩(しゅはい)、罪科を考へず、みだりがわしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀(そうぎ)を改めて姓名(しょうみょう)を賜ふて遠流(おんる)に処す。予はその一(いつ)なり。しかればすでに僧に非(あ)らず俗に非らず。この故に、禿(とく)の字を以て姓(しょう)とす。空師(くうし)ならびに弟子等(でしら)、諸方の辺州(へんしゅう)に坐(つみ)して五年の居諸(きょしょ)を経たりき」
 親鸞は、この事件をでっち上げだといって、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)をはじめとする君臣の非を激しく責める。
日本の祖師にして、時の上皇にこれほど激しい非難を投げつけた人はいない。
  そして彼は還俗(げんぞく)させられたことを逆手にとって、「愚禿(ぐとく)」という姓を自らにつける。
愚禿というのは、「僧でもない俗でもない愚かなやくざ者」という意味であろう。
この最低な人間の名を姓とし、法然にもらった善信(ぜんしん)という名を捨てて、天親(てんしん)と曇鸞(どんらん)という二人の浄土教の祖師からとった「親鸞」を名乗る。
嘉禄の法難 法然滅後の浄土宗教団で起きた事件。天台宗の定照が法然の『選択集』を批判したことに対し隆寛(1148~1227)が『顕選択』を著して非難したため、1227年(嘉禄3)に隆寛らは流罪となり、天台宗徒によって法然の墓所が破壊された。

建永の法難 法然教団に対する弾圧運動のひとつ。1205年(元久2)に興福寺が風紀問題を理由として専修念仏の停止を朝廷に求め、1207年(承元元)までに法然と主要な弟子が流罪・死罪などの罰を受けた。承元の法難ともいう。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)

続きは後日、転記します。