2020年11月24日火曜日

連休の後…

午前中は、歯科を受診しました。
連休の後ということで、予約外の患者さんもいました。
連休中に具合が悪くなったのでしょうね。
(4、5日したら新型コロナの感染者がさらに増えるのだろうな…)
午後からリハビリ散歩に出かけたのですが、途中で上着を脱ぐほど…
診察時間まで読んでいたのは清沢洌の『暗黒日記
品切れになっていたので図書室で借りました。
11月24日
 清沢洌(きよさわきよし)が日記で、戦争指導者を糾弾した。 1944(昭和19)年

 この日、マリアナ方面から発進したB29爆撃機およそ70機が、はじめて本格的な東京空襲を行なった。
それに対する軍部の強がりの報道を耳にしつつ、55歳のジャーナリスト清沢洌は、激しい口調でその日記を書いている。
「……学徒は、皆工場にあり、工場空襲の場合には、これが全滅の危険にあり。壮丁(そうてい)は軍人として、少年は、工場において――ああ。この国は斯(か)くて亡国に瀕(ひん)す。愚劣なる指導者の罪、ついにここに至る。」
 この1年前、大学・高専生らは「学徒動員」によって、根こそぎ軍隊にかり出されていた。
日記にある「学徒」とはこの年8月の学徒勤労令などによって工場に動員された男女の中学生(いまの中学・高校生)のことである。
清沢は終戦前の5月に死去したが、その日記は『暗黒日記』と題して公刊されている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
暗黒日記』より山本義彦さんの「解説」から一部転記しますφ(..)
現在の日本のジャーナリストがどれだけ気骨がないのかがよく分かります。
なお文中に井口喜源治が出てきますが、記念館が安曇野にあるようです。
何度か穂高を訪れていて、穂高駅でいつも「碌山美術館」を目的にしていました。
そのため駅の反対側にある「井口喜源治記念館」に気がつきませんでした(^^ゞ
解説
 清沢洌・その人となり


 清沢洌は、1890(明治23)年2月8日、長野県南安曇野郡北穂高村青木花見(あおけみ)で、村長に推されるほどの裕福な農家の三男として出生した。
1903年に13歳で北穂高村小学校を卒業し、従兄清沢巳末衛(みすえ)に奨められて、内村鑑三の弟子井口喜源治(きげんじ)がひらいていた「研成義塾」に進み、そこでの言論、聖書の学習、清教徒的気風の中で、「信念」に生きることの大切さを学ぶ。
その後、井口の奨めで、1906年12月ピルグリム・ファーザーズの気分を抱き渡米した。
これは「明治三十九年頃より四十年にかけて、一時渡米熱が沸騰した時がある。それは次のことが預(ママ)かっている。当時東京に『日本力行会』といって、一牧師島内兵太夫が若き青年たちに渡米を鼓吹して大いに海外発展を奨励されたものである。井口先生も大和民族の海外発展に共鳴され、率先して渡航者の指導と便宜を図られたものである」(平林利治「井口先生を偲ぶ」井口喜源治記念館『井口喜源治』1978年改訂再版、113ページ)と指摘されている事情による。
(『暗黒日記』清沢洌著、山本義彦編、岩波文庫 1990年)
 渡米した清沢は、1907年から18年にかけて、デパートで雑役をしながら、タコマ・ハイスクール、ウィットウォース・カレッジに政治・経済学を学び、現地の邦字新聞記者、寄稿家として身を立てる。
なおこうした学問で生きようとした人は、この塾から渡米した4、50人の中にはまずなく、「労働を目的として渡米した」(斎藤茂「研成義塾と井口先生」同書、210ページ)という。
13年1月、シアトルで穂高倶楽部を結成し、研成義塾出身者の結束を図った。
在米時代の寄稿紙『日米時事』、『新世界』の主筆松原木公の紹介で、18年に帰国し、20年には30歳で中外商業新報社初代外報部長として日本での活動をはじめる。
また1924年から25年にかけて、朝鮮、中国、「満州」、シベリアに特派員として出張し、それぞれの国の要人との会見を行っている。
27年、東京朝日新聞企画部次長に転じた。
しかし著書『自由日本を漁る』(博文堂、29年4月刊)で、「甘粕と大杉の対話」を収録したことが、右翼の攻撃の的となり、朝日を辞任し、フリーランスの評論家として再出発した。
この年の8月27日には、「文士評論家の自由な会」として「二七会」を組織し、芦田均、長谷川如是閑、小汀利得(おばま としえ)、阿部真之介、馬場恒吾、水野広徳、徳田秋声、正宗白鳥、上司小剣、近松秋江、細田民樹らとの交流に努めた。
 また全国行脚の講演をしばしば行い、石橋湛山の組織した経済倶楽部での講演やパンフレットを執筆した。
38年、石橋に請われて東洋経済新報社顧問となり、自由主義的言論を発表する機会を得た。
太平洋戦争直前の1941年6月、東洋経済新報社より、『外交史』という大部な著書を発刊し、外交評論家としての地位を確立させた。
石橋のすすめで、第二次大戦後の国際関係の展望を44年11月より45年2月にかけて『東洋経済新報』に連載している。
当時の言論界にあって、戦争終結後のことを構想するなどということは、他の人々の場合には、全く考えられない活動であった。
45年5月21日、肺炎がもとで55歳の若さで、東京で急逝した。
 ところで、清沢はアメリカ問題と日米関係についての専門家として、しかも「昭和の吉野作造」を目指したのである。
例えば吉野はこういっている。
「外国が支那の領内に軍隊をくり込むのは余りに弱者の立場を無視する者である。しかも今や更生の途上に悩んでいる支那の国民運動に世界は多大の同情を寄せているという。然らば少し位の不便は忍んでも、彼らの策動に多少の便宜を与うべきではあるまいか。私はできることなら北方在留に日本人に一概退去を命じ、毫(ごう)も他を顧慮することなく自由に活動するの便宜を支那人に提供してやったらとさえ考うるものである。」(吉野作造「支那出兵について」1927年2月、『吉野作造博士民主主義論集』第6巻、新紀元社、1948年、262ページ。ただし、引用にあたり現代表記にした。以下同様)。
つまり吉野は見られるように、中国民衆の自立と統一のための運動への深い友好的態度を表明している。
そして清沢は国際平和、そして民主主義者としての評論活動と、一刻も早く軍国主義的支配体制の解体を願う、そのためには言論弾圧や迫害もおそれず、慎重に発言を行なうということであった。
「戦争を世界から絶滅するために敢然と立つ志士や果して何人あるか。予、少なくともその一端を担わん」(『暗黒日記』1943年12月1日、以下年月日は同『日記』の記述による)と。
とはいえ、彼の発言や著作活動を子細に捉えてみると、たんに外交問題に限定されない、日本の外交政策、政治に及ぼしている近代教育と文化のあり方への深い洞察に満ちた内容を持っており、しかもそれは今日においても一層重要な示唆に富んだものである。
(後略)
(『暗黒日記』清沢洌著、山本義彦編、岩波文庫 1990年)