2020年11月2日月曜日

雨の予報でしたが…

真っ赤な朝焼けが見られたので、予報通り雨が降るなと思っていました。
7時過ぎに出かけるとまだ雨は降っていなかったのですが、途中でフロントガラスにポツポツ…
風が強かったら諦めたのですが、アソビカメラと時々50㎜マクロでリハビリ散歩。
いつもより早めに散歩を終えました。
龍谷ミュージアム元館長のつぶやきさんのTwitterに

大阪都構想騒動、やっと終結。
信頼を大切にしない人がぶちあげた構想というものは市民を分断に導くだけなのです。
それにしてもこの構想に振り回された市職員、府職員の精神的プレッシャーは相当なものであったはず。
コロナ禍の中、市民のため府民のために働いている方々の声が届く政治を強く望みます。


反対多数でホッとしました。
関西民放と吉本などのコメンテータがヨイショして頑張っている知事というイメージ作戦を作り上げていたので
今回は、大差で「賛成」になるのでは危惧していました。
市民投票日が近づいて僅差になってきたけど「危ないかな?」と不安でした。
これからは

釈撤宗さんのTwitterにあるように

大阪のみなさん、お疲れ様でした。
まずはノーサイドで。
自分たちの地域についてしっかり考える糧になったな、と思えるようにしていきましょう。

11月2日
 水俣病(みなまたびょう)に抗議して漁民がチッソ工場におしかけた。 1959(昭和34)年

 1956年、熊本県水俣市で奇病が発見された。
はじめ手足のしびれ、そのうち舌がもつれてしゃべれなくなり、ひどい場合には発狂して死ぬという恐ろしい病気である。
人間だけではなない。
猫が突然踊り出して死んだり、カラスが空から落ちてくるという薄気味の悪いことも続いた。
調査の結果、不知火海(しらぬいかい)でとれた魚や貝による中毒だとわかった。
しかし毒物が何かについては、新日本窒素(現チッソ)水俣工場の排水に含まれる水銀だと主張する熊本大学の医師らと、日本海軍が昔捨てた爆薬だと反論する会社側が対立していた。
じつは、会社はひそかに猫の実験で排水が原因だと知っていたのだが、それはひた隠しに隠していた。
 病気にはなる、魚は売れなくなるの大打撃を受けた漁民1800名はこの日、工場へおしかけたが、会社は話し合いにさえ応じなかった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
日本の素顔 奇病のかげに」(NHKアーカイブス 1959年)

チッソの過失を認める判決が下る」(NHKアーカイブス 1973年)

昭和の歴史第10巻 経済大国』より水俣病について転記しますφ(..)
「公害先進国」日本
 四大公害事件
 水俣病


 戦後の公害問題の性格は、後に裁判となった四大公害事件にあますところなくあらわされており、これを知らねば戦後の日本はわからないといってもよい。
高度成長期以前に発生したものもあるが、ここではかんたんに四つの事件について述べておこう。
 水俣病はいつからはじまり、いつ終わるかは、まだ誰もわかっていない。
1953年(昭和28)ころ、鹿児島県との県境にある熊本県水俣湾の周辺で、魚介類の大量斃死(へいし)、鳥の狂ったような乱舞、さらに猫が狂い死にするなど、生物界に異常な変化があらわれていた。
この時すでに患者が発生していたといわれている。
また、生物の異常状態はやがて人間の異常状態へとつながるものであったが、当時、生物学と医学の交流は不足しており、学際的協力のない科学者は、誰も気がつかなかった。
(『昭和の歴史第10巻 経済大国』宮本憲一 小学館 1983年)
 1956年、新日本窒素(ちっそ<65年以降チッソ、以下チッソとする)付属病院長細川一(はじめ)は、これまでの診断例にない「奇病」の子供の患者4人を発見した。
彼らは手足が硬直し、たえずふるえがおこり、眼はうつろで、よだれを流しながら、狂ったように泣きわめくのである。
子供だけでなく、成人もふくめ、患者はつぎつぎとふるが、原因も病名も不明であり、最初彼らは伝染病棟におくりこまれた。
細川博士や伊藤蓮雄(はすお)熊本県水俣保健所長の調査の結果、患者は魚介類を大量に食べる漁民と、その家族に多発していることがわかった。
 1957年、熊本県水産課は、チッソ工場の廃水による魚介類の汚染が原因とみて、食品衛生法によって漁獲禁止と工場排水の停止をおこなおうとした。
当時すでに、熊本大学医学部の研究者は、水俣病は原因物質を特定できないが、チッソ工場廃水による重金属汚染であるという学説を主張していた。
もしこの段階で、右の県の措置がとられ、この学説が採用されていたら、現在の患者の大部分は発生しなかったかもしれない。
しかし、チッソと日本化学工業協会の圧力で、政府は熊本県の介入をゆるさなかった。
わずかに水俣湾の漁獲の自主規制がもとめられた。
このため、他に生活手段のない漁民の漁業の一部はつづけられた。
 1958年、熊本大学医学部水俣病問題研究班は、水俣病が有機水銀中毒であることをつきとめ、翌59年これを公表した。
それは水俣病の症状が、イギリスの職業病を研究したD=ハンターとD=S=ラッセルの発見した症候群とよくにていることがわかったためである。
厚生省食品衛生調査会がこれをみとめ、水俣病に原因物質は有機水銀であると答申したが、厚生大臣は翌日、同調査会水俣部会を解散してしまった。
 これで、水俣湾の魚介類が有機水銀で汚染されていることははっきりしたが、どの生産工程で工場排水からその物質が出ているかは、当時まだ不明であった。
この年、細川は、猫をつかった実験において、アセトアルデヒド製造工程の排水をかけた飼料で、猫が水俣病になることをつきとめた。
細川は、よりたしかなデーターをもとめ、工場長に実験の結果をつたえ、その継続を要求したが、工場長はこの結果の公表を禁じ、実験の一時中止を命じた。
 一方チッソは、公式には東京工業大学清浦雷作(きようららいさく)教授 のアミン説(60年4月発表)を支持し、この論文を全国の研究者や関係者(私のところにもきた)に配布した。
このアミン説は物にふくまれるタンパク質の腐敗にともなって生じるアミンの中毒によって水俣病が発生したというものである。
これでは工場の過失を、くさった魚介類を食べた漁民の過失にすりかえるものであった。
 通産省はこの時点で、ひそかにアセトアルデヒド・塩化ビニール生産工場の水質調査をおこなっていたが、表面上はこのアミン説を支持したため、厚生省の有機水銀説と対立して、政府見解はまとまらなかった。
 水俣のたたかい

 この間に、患者をはじめ漁獲の自主規制をしている漁民は塗炭(とたん)の苦しみにおちいった。
当時の患者の家の中には、屋根は朽(く)ち、窓や障子はやぶれほうだいで、電燈もつかないものもあった。
その廃屋のような中で、患者はぼろきれや藁(わら)の中に寝ているような悲惨な状況が生まれていた。
生活にこまった漁民はチッソに乱入し、患者はチッソ門前にすわりこんだ。
 この圧力におそれて、1959年暮、チッソは患者との間に見舞い金契約を、自主規制中の漁協との間に補償金契約をむすんだ。
この見舞金契約は文字どおり補償ではないが、そのなかには「将来水俣病が工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わないものとする。」という一項がはいっていた。
これをみると、チッソは、当時すでに猫実験で自らの犯罪の事実を知っていたので、後に発覚して賠償額が大きくなることをおそれ、患者がその事実を知らぬうちに楔(くさび)をうちこみ、患者の経済的困窮につけこんで見舞金をはらったものと考えられる。
 それから14年後の水俣病第一次訴訟判決が、この見舞金契約を「公序良俗に反する」として無効にしたのは、チッソの卑劣(ひれつ)な行為を裁判所もみとめたものである。
ところで当時なお、漁獲禁止はされていなかった。
少額の漁業補償がなされただけなので、生活のために、不知火(しらぬい)海はおろか水俣湾でも漁業はいぜんとしてつづけられ、被害は広がった。
 1962年、熊大研究班はアセトアルデヒドの排水から有機水銀が排出されることを確認し、翌63年、これを公表した。
チッソの過失責任は学界で確定した。
国際学会でも清浦アミン説は否認された。
しかし、政府もチッソも有機水銀説をみとめなかった。この年、私は厚生省の水俣病問題の担当官と会って、水俣病の原因についての政府の見解をただした。
彼は熊大研究班が発表した水俣病研究の論文集をしめい、個人の見解としては、ここにある有機水銀説が正しいと思うが、政府の公式見解としては、いぜんとして原因不明ですといった。
 被害者は放置され、規制はなされなかった。
電気化学産業であったチッソは、60年代には石油化学の時代にはいって、時代おくれとなっていた。
そこでチッソは古い設備の償却(しょうきゃく)をいそぎ、アセトアルデヒドの増産をつづけ、危険な廃水を放出しつづけた。
 学界で確定しても、世間がみとめない場合、いったいどうすればよいのか。
それは熊大の一部の研究者をはじめ、個人の努力にまたねばならかった。
たとえば東京大学助手の宇井純(ういじゅん)は、アルバイトで旅費をかせぎながら、水俣へかよい、熊大の研究をまとめ、地元紙を整理しながら、チッソの犯罪であることを明らかにした(宇井純『公害の政治学』)。
地元でも、石牟礼道子(いしむれみちこ)・日吉(ひよし)ふみ子らが患者の実態調査と救済活動をはじめた。
 1968年、政府はやっと水俣病をチッソの公害とみとめた。
それは、石油化学が電気化学を駆逐(くちく)したために採算の合わなくなったチッソが、アセトアルデヒドの製造を中止した後であった。
 政府はその後、患者に賠償をするために調停案をつくるが、チッソの責任の不明確なことに反発した患者の一部は、新潟の水俣病患者の応援もあって、この調停を拒否して、裁判にはいった。
そしてチッソとの間に自主交渉をつづけるなどして、1973年、チッソの有罪と、正当な賠償を内容とする(政府調停の最高400万円にたいし、1800万円)全面勝訴の判決を勝ちとった。
さらにチッソとの間に補償協定をむすび、原告以外の全患者救済の道を開いたのである。
(『昭和の歴史第10巻 経済大国』宮本憲一 小学館 1983年)