2020年11月17日火曜日

青空…

今朝は、昨日と違って雲がまったく見られなくて青空が広がっていました。
この季節、ポッカリと雲が浮かんでいる空がいいのだけど…

今週 小春日和続く」(えりの気象日記 11月16日)
日曜日に放送されたNNNドキュメント「自分のままでいい 自閉症のアニマル画家
こんなにも素晴らしい番組を制作できるのだから
24時間テレビをもっと質のいい番組できるはずだと思うのだけど…
(と、言っても最近、見たことがないので無責任な発言ですが…)
石村嘉成さんが11歳の時、母親の有希子さんが40歳で永眠されました。
でも、常に有希子さんが嘉成さんの傍で見守って、励まされていると思います。
親の想い」(HP「版画は僕のことば 石村嘉成」)
11月17日
 霜月(しもつき)騒動がおこった。 1285(弘安<こうあん>8)年

 安達(あだち)氏は北条氏とならぶ有力な御家人(ごけにん)であった。
とくに泰盛(やすもり)のときには、娘が執権(しっけん)北条時宗(ときむね)と結婚し、つぎの執権貞時(さだとき)を生んだ関係で、幕府の要職についた。
文永(ぶんえい)の役(えき)で手がらをたてたが認めてもらえないという竹崎季長(たけざきすえなが)の訴えをきいてこれに恩賞をあたえたり蒙古襲来前後の困難な時期の政治をきりまわしたりして、御家人の信望を得ていた。
 しかし強力な敵対者がいた。
北条得宗(とくそう)の家臣(御内人<みうちびと>)平頼綱(よりつな)で、執権貞時の乳母(めのと)の夫である。
 霜月17日、頼綱が機先を制した。
昼すぎ鎌倉で合戦(かっせん)が始まり、泰盛一族と与党はことごとく殺されたが、争乱は、各地へ波及した。
とくに九州は泰盛の子盛宗(もりむね)が在国していたので戦いは激しく、少弐(しょうに)氏の家督争いともかかわって岩門(いわと)合戦がひきおこされたが、泰盛方が敗れた。
これら一連の合戦を霜月騒動という。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
蒙古襲来』より「霜月騒動」を転記しますφ(..)
なお、泰盛の改革については、本書や他の本を参照してください。
弘安の「徳政」と安達泰盛
 霜月騒動


 改革は着々と進行していた。
使いからの報告に対し、泰盛は具体的な指示をあたえ、改革の一部を修正するなど、多忙な日々をおくっていた。
安達氏の館は代々甘縄(あまなわ)にあったが、そこは子息宗景にゆずり、泰盛自身はそのころ松谷(まつがやつ)の別邸にいりことが多かった。
(『蒙古襲来』網野善彦 小学館文庫 2001年)
 11月17日、午前10時ごろまで泰盛はそこにいた。
しかし異常な周囲の空気を感じて、12時前後、泰盛は塔ノ辻(小町大路と横大路のまじわる辺)の屋形(やかた)にむかい、すぐ近くの執権貞時の館に参じようとしたところ、御内人(みうちびと)たちにはばまれたらしい。
衝突がおこり、死者30人、手負(ておい)10人が出た。
 それをきっかけに、この辺を中心に合戦がはじまり、激闘のなかで将軍の御所も炎上した。
あるいは泰盛方が将軍を奉じようとし、これをはばもうとする御内人と戦ううちに火が出たのであろうか。
午後4時、戦闘は終わった。
泰盛方は完全に敗れ、泰盛以下、子息宗景、弟長景・時景ら安達氏一族は自害・討死して果てた。
 泰盛とともにたおれた人々は安達氏の分流大曾禰(おおそね)氏の宗長・義泰(いずれも引付衆)、二階堂行景(引付衆)・武藤景泰(引付衆)、泰盛の母方甲斐源氏小笠原氏の人々、佐原頼連(よりつら<伯耆(ほうき)国守護>)・伊東三郎左衛門(前石見国守護)・足利(吉良)満氏(みつうじ<越前国守護>)、そのほか田中(小田氏)・殖田(大江氏)・小早川・天野・伊賀・足立など、そうそうたる豪族的御家人など5百人のほか、安達氏が守護であった上野国御家人、それに武蔵国御家人も多数、討死・自殺した。
この戦いがいかにはげしかったか、また泰盛がいかに御家人たちから大きな信望をかちえていたかは、この死者の交名(きょうみょう)をみても明らかであろう。
 また犠牲者の筆頭にあげられた刑部卿(ぎょうぶきょう)相範(すけのり)は、たぶん熱田(あつた)大宮司季兼(すえかね)の兄藤原成季(なりすえ)を祖とする学者の家柄の人と思われる。
泰盛の一面はこのようなところにもあらわれている。
それとともに、南部、池上など、日蓮の弟子の同族がこの交名中にみえることも、興味をひく事実である。
 騒動はこれにとどまらず、地方に波及した。
安達重景は常陸で、伴野彦二郎(小笠原氏)は信濃でそれぞれ自害し、播磨でも安達氏の一族が追いつめられ、美作(みまさか)に逃れて捕らえられるなど、その範囲はひじょうに広かったと思われる。
なかんずく、泰盛の子盛宗(肥後国守護代)の在国していた九州では大きな合戦がおこった。
 盛宗自身は博多で殺されたが、兄経資と対立していた少弐景資(しょうにかげすけ)が泰盛方にくみし、筑前の岩門(いわと)で兵をあげたのである。
景資は文永の役のときの大将、弘安の役にも恩賞を検知しており、武人らしい気質の人だった。
筑前・豊前・豊後・薩摩の御家人の一部もこれに味方した。
しかし少弐経資・北条時定(肥前国守護)のひきいる筑前・筑後・豊前・肥前などの人々を中心とする大軍に攻められ、景資は自殺した。
これを岩門合戦といい、鎌倉で騒乱とあわせて、弘安合戦、あるいは霜月騒動という。
 乱後の鎌倉では泰盛の縁者たちの処罰が行なわれた。
泰盛の婿(むこ)金沢顕時(あきとき<評定衆>)は、12月22日、下総に流された。
泰盛の父義景の婿宇都宮景綱(評定衆)、同じく義景の婿長井時秀(評定衆)、その子宗秀(引付衆)も失脚、問注所執事三善時連も罷免された。
結局、評定衆5名、引付衆7名が姿を消したことになる。
幕閣内部の分裂がいかに深刻だったかは、これをもってしても明らかであろう。
 泰盛誅殺の原因を『保暦間記(ほうりゃくかんき)』はこう説明している。
「弘安八年、泰盛と頼綱の二人は、たがいに他を失おうとして時貞に讒言(ざんげん)しあっていた。そこに泰盛の子宗景が源氏に改姓するということがおこった。曾祖父景盛がじつは源頼朝の子であった、というのがその理由だった。頼綱はこれをとらえ、宗景が謀叛(むほん)をおこし、将軍になろうとしている、と貞時に訴えた」と。
 弘安の改革が将軍の権威を高めようとしたことは事実であり、泰盛が源氏将軍に心をよせていたのも本当である。
また泰盛も子息宗景にはまことに甘い父親だった。
たしかにこれはありうることと思われる。
 たとえ泰盛自身がそう考えていなかったとしても、頼綱の訴えはまことに人の耳にはいりやすかったであろう。
15歳の執権貞時がたやすくそれに動かされたとしてもむりはない。
 こうして、鎌倉後期政治史に強い光芒(こうぼう)を放っていた巨星は堕(お)ち、内管領(うちかんれい)平頼綱のひきいる御内人の覇権(はけん)が確立された。
弘安の改革はその魂を喪失し、泰盛がひらこうとした「新しい時代」は、泰盛の意図とはまったく異なる「新しさ」をもって、その幕をあけた。
得宗専制時代がここにはじまる。
最後まで、ここで死んでいった泰盛たちの怨念にからみつかれつつ、この時代はその歩みをはじめていく。
(『蒙古襲来』網野善彦 小学館文庫 2001年)
今朝の父の一枚です(^^)v
何気に空を見上げるとタカが悠々と空を舞っていたそうです。
気がついた時は遅く、すぐに見えなくなったそうです。
その前にカワセミにも出会ったのですが、写そうとしたときにすぐに飛んでいった。
今日はもったいないことをしたと悔しがっていました。

Windowsのアップデートをして以来、重たくなり、パソコンが悩んでいる時間が長くなりました。
イライラするとフリーズをしてしまうので気を落ち着かせて入力するように心がけていますが…
そう言えば、Win95の頃は、印刷するのにも時間がかかり、その間、コーヒーでもとパソコンから離れていました。
コーヒーを入れ終わった後に戻っても印刷が始まっていなかったなぁ…