2020年11月13日金曜日

13日の金曜日で

ほんの少し青空が顔を出していたけど、雲が覆っていた。

13日 すっきりしない天気」(えりの気象日記 11月12日)
 Eテレ0655 の「気にしないの助音頭」♪に

13日の金曜日とか 気にしない~(ここは日本!)♪

こういうことは気にしないほうがいい(^_-)-☆
でも…
淀川左岸線 最大700億円増」(関西NHK)

10月10日の記事で紹介したのですが

 日本の公共投資は、画一的総花的に全国にばらまかれている。
そこで、地域開発のために集中的にある地域にあつめようとすれば、オリンピックや博覧会に便乗するのが、一つの方法である。
しかし、この集中豪雨のように短期間に、しかもお祭りという対外的イベントを目的としてなされる公共投資は、災害の原因となったりして、結局は住民生活の改善にはつながらない。
このことを、東京オリンピックと大阪の万博はくりかえし証明した。

(『昭和の歴史第10巻 経済大国』宮本憲一 小学館 1983年)

大阪の府民は、2025年の万博を歓迎・支持しているようですが、
東京のようにいくらでも当初予算が膨らんでいくのではないでしょうか!
市長は、
淀川左岸線予定どおり開通目指す」(関西NHK)
天六事故のような事故などが起きなければいいのですが…
 岩波書店のTwitterに

【今日の名言】
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。
詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。


――『萩原朔太郎詩集』「月に吠える」序
11月13日
 川合小梅(かわいこうめ)が「ええじゃないか」のことを日記に書いた。 1867(慶応3)年

 紀州藩の学者河合梅所(ばいしょ)の妻は、もう30年間もこまごまと日記をつけてきた。
この日も、お春というものが「京都の親からのですが、あんまりふしぎなので見て下さい」といって持ってきた手紙を、丁寧に日記に写した。
それにはこんなことが書いてあった。
「このあいだ名古屋で、江戸の女が裸で空から降ったりで大さわぎ。ここ京都でも、お札(ふだ)や木像が降ったり、祇園社(ぎおんしゃ)境内に江戸の男がおちてきたとか。町中大さわぎになって、かね・太鼓・笛・鼓(つづみ)ではやしたて、エエジャナイカ、エエジャナイカと踊り歩いています。」
小梅は「世も末だけど、つつしんでいるしかないわ」とも書いている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女』より「お陰詣り」、

江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』より「ええじゃないか」を転記しますφ(..)
  お陰参り

 旅が庶民レベルまで広がったのは、何度となく繰り返されたお陰参(かげまい)りと、主人や家族に無断で伊勢へ出かける抜け参りが黙認されていたことの影響が大きかった。
(『江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女』金森敦子 平凡社新書 2002年)
 慶安3年(1650)に始まったお陰参りは、60年ごとに伊勢の神威があらわれると噂されたが、実際には宝永2年(1705)、享保3年(1718)、享保8年(1723)、明和8年(1771)、文政13年(1830)に、爆発的な流行を見ている。
 伊勢へお参りしたら病気が治ったとか、伊勢のお祓(はらい)やお札が降ったのが契機となって思わぬ利益にめぐまれたとか、幸運は口から口へと伝えられ、伊勢参宮をする者が増える。
そしてある日突然、着の身着のままの農民や商家の奉公人の大群衆が、どっと伊勢へと繰り出すのである。
伊勢からはるか離れたところから来た群衆の中には、驚くことに、少女を含めた子供たち、乳飲み子を抱えた母親までが紛れ込んでいた。
普段ならば旅に出ることができない者ばかりである。
もちろん親や主人も知らないうちの行動で、旅の準備らしいものはしていない。
不意に飛び出してしまうのだから銭も持っていない。
しかしお陰参りの大集団が来ると聞くと、沿道の住民や富豪が、食べ物やわらじを山と積み上げて待ちかまえた。
沿道の人びとも熱に浮かされたようになっていたのである。
 こうしてお陰参りは、宝永2年には東は美濃・尾張・信濃・江戸、西は安芸・阿波のあたりまで広がり、京都方面から120万人、大坂方面から255万人が押しかけたという。
明和8年のお陰参りは山城あたりから始まったが、南九州と東北を除いた全国から人が押し寄せ、約120日間で伊勢の入口の宮川を渡った者は、207万7450人ともいわれている(いずれも『続後神異記』の数字)。
お陰参りが頂点に達した文政13年の数字もすさまじい。
参宮者は457万9150人。
閏3月26日の一日だけで、14万8000人という信じられないような数字が書き残されている。
明和8年には人口のおよそ1割が、文政13年には1割5分の者が伊勢へと繰りだしたとみられている。
(『江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女』金森敦子 平凡社新書 2002年)
第4章「徳川システム」の疲労
 「ええじゃないか」


 安政7年(1860)3月3日、大老井伊直弼が桜田門外で暗殺される。
文久2年(1862)1月15日には老中安藤信正(あんどうのぶまさ)が坂下門外で襲撃された。
このころから、政局の中心は京都に移り、各地で「攘夷」事件が起きる。
文久3年8月18日、公武合体派がクーデターを起こし、尊王攘夷派の公卿が京都から脱走する。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
翌元治元年(1864)7月19日、巻き返しを図る長州軍が京都に進撃、「禁門の変」を起こす。
この戦闘によって、京都町中は大火事となった。
いわゆる「どんと焼け」である。
被災したのは811町、焼失した町家2万7513軒、寺社253か所。
幕府は、5000石を放出して町中各所で施行を行い、8月には町々へ御救米として1万石を支給した。
「京都大火の略図」などと題した瓦版が多数刊行され、京都の状況がただちに地方へ伝えられた。
 御所攻撃の責任を糺(ただ)すため、長州藩への出兵が行なわれる。
諸大名は戦闘態勢に入り、諸物価が高騰する。
長州藩では三家老に責任を取らせて恭順の意を示したので、実際の戦闘には入らなかった。
しかし、その後長州藩では倒幕派が実権を握り、幕府への反抗姿勢を明確にしたため、慶応元年(1865)再び長州藩への出兵が命じられる。
翌慶応2年6月戦闘が始まると、幕府軍は各地で苦戦、戦果が得られないまま7月家茂が大坂城で死去する。
幕府は一方的に解兵し、慶喜が将軍に襲職した。
「公儀」解体の瀬戸際で、その再編をめざす「死闘」を繰り広げることになる。
 幕府領でも藩領でも、出兵のために住民から物資が徴発された。
おまけに慶応元年・2年は続けて凶作で、食料不足と物価高が深刻になった。
各地で一揆や打ちこわしが起きる。
この年の騒擾件数は江戸時代最高を記録する。
各地で豪農商が打ちこわされた。
かれらは地域の秩序を防衛するために領主と結んで「農兵」を組織する。
この「農兵」が一揆の鎮圧に動員されることもあった。
領主内部の分裂だけでなく、地域の内部でも分裂が深まる。
こうした状況を佐々木潤之介(ささきじゅんのすけ)は「世直しの状況」と呼んだ〔『幕末社会論――「世直し状況」研究序論』塙書房、1969〕。
 慶応3年(1867)7月下旬に三河国吉田近辺でお札降(ふだふ)りがあった。
これを機に人びとが街路に出て踊り出した。
踊りの渦は人びと巻き込んで熱狂を増し、村送りのように東西に広がった。
いわゆる「ええじゃないか」である〔伊藤忠士『「ええじゃないか」と近世社会』校倉書房、1995〕。
踊りはお札降りによって飛び火した。
降った神札は伊勢神宮のものだけでなく、地元の土俗神のものも少なくなかった。
神札が降った家では、酒・餅・銭などを振る舞うことになっていた。
札は富裕な家に降ることが多かった。
打ちこわしのときに施行を促す落札が富裕者の家に投げ込まれたが、それと同じ構図だ。
異性装や裸形など異形な風体で踊る群衆は、伊勢に向かうのではなく、地元の神社に踊り込むことが多かった。
「世直り」を待望する臨時祭礼といった様相であった。
 京都では、10月中ごろから皇太神宮のお札が降り始め、各所で踊りが広がった。
11月12日町奉行所は「花美(かび)の衣類」や「異形の風体(ふうてい)」で踊り騒ぐことを禁ずる町触を出している。
この町触は11月25日にも繰り返され、「ええじゃないか」の踊りも12月にはおさまったようだ。
10月14日将軍慶喜が大政奉還を上表し、12月9日には王政復古のクーデターが起きる。
年が明けると鳥羽伏見の戦いから、戊辰(ぼしん)戦争に突入した。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カワセミに出会う前に、コンデジの電池が切れたそうです。
交換した後に、カワセミに出会ったので大喜びでした!(^^)!

13日の金曜日のこと「気にしない」と書き出したのですが、なんと、画像ソフトが動かなくなり
再インストールしようとしたら受け付けてくれなくなりました(T_T)
XPの頃から使用しているソフトなので…
明日からしばらく記事の更新が出来ないかもしれません…(-_-;)