2020年11月4日水曜日

通院の後に

循環器科の通院日でした。
先週受けた血液検査の結果、主治医の先生が一番気にしている項目の数値が、前回よりも高くなっていました。
天気のいい日は、運動するようにとアドバイスしていただいたので
午後から公園でリハビリ散歩です。
なんか冬のような冷たい風が吹いていました。
歩いているといつも朝早くから野鳥を撮影されている方がまだおられました。
それに比べて、1時間ほどの撮影では…(^^ゞ
診察の時間がくるまで読んでいたのが
武漢日記 封鎖下60日の魂の記録
この本が日本で出版されるのに様々な困難があっただろうなと思います。
というのも「世界 2020年8月号」に吉岡桂子さんのレポート
『武漢日記』に宿る特殊の中の普遍――方方が綴る中国社会の現在地
が載っていたからです。
その一部を転記したいと思いますφ(..)
『武漢日記』に宿る特殊の中の普遍
――方方が綴る中国社会の現在地 
吉岡桂子(朝日新聞)

(前略)

ネット中傷――もう一つの疫病

 だが、感染者が爆発的に増える時期が過ぎると社会の空気は少しずつ変わっていく。
政府は中央、地方ともに、感染を抑制した成果を強調するようになる。
市民に感謝を求め始めた。
その変化に方方(ファンファン)さんは嫌悪を吐露する。
「いつになったら指導者たちが視察に来たときに感謝の演技をしなようになるのか」
「(政府の)スローガンでは武漢人の痛みは和らげられない」(2月12日)。
(『世界 2020年8月号』岩波書店)
 政府の意図の足並みをそろえるように、ネット空間も変わっていった。
2月半ばを過ぎるころから、方方さんに対する攻撃が勢いづく。
大勢の親戚が外国にいる。
高級な不動産をいつくも持っている。
コネのなる警官に姪を空港に車で送らせた。
マスクを有力者からもらっている……。
方方さんは日記や取材に応じることを通じて否定し、説明するが、中傷はやまない。
 知識人の系譜の著名な作家で、大金持ちならずともそれなりの暮しを営む彼女は、ねたみの対象になりやすいかもしれない。
個人の情報源と公式の報道に依拠して書かれた記述には、異なる印象を持つ人がいてもおかしくない。
基本的には、一市民の目線で綴った記録なのだから。
 だが、想像を超えた誹謗中傷がネット空間を跋扈(ばっこ)した。
「ウイルスによる疫病の蔓延とあわせて、もう一種の疫病が言葉の形で蔓延した」(3月15日)。
方方さんは執拗な攻撃をスルーせず、粘り強く言い返す。
「武漢ではもめ事には女性が出てくる。(中略)女性は早口で声も高い。言葉の衝突では負けない」(3月8日)。
そう書くタフな女性像を体現していた。
 日記を書き終えてしばらく経った4月初旬。
米国とドイツで翻訳出版される情報が伝わると、ネットは「大炎上」した。
「売国奴」「外国崇拝」「文化漢奸(漢民族の裏切り者)」「米国のイヌ」。
悲観的すぎるとの声はあったものの貴重な現場報告として共感を集めた日記が、罵詈雑言(ばりぞうごん)の嵐に襲われた。
 いったい、どんな人たちが、なぜ攻撃したのか。
外国での翻訳出版への批判

 ここからは、日記をめぐる大炎上の背景を読み解きたい。
 注目すべき点は、方方さんへの本格的な攻撃が、感染のピークを過ぎて、政府が成果を強調し、国民に対して国家への「感恩」(恩義を感じて感謝すること)を求め始めた時期と重なっていることだ。
感染の中心が、中国から欧米へ移るなか、外国に対しても感染抑止の成功をアピールしたがっていた。
いつまでも問題点を指摘し、批判を続ける方方さんの日記は、国家の戦略にそぐわない存在となった。
武漢での初動の遅れや情報の隠蔽(いんぺい)は、対立が深まる米国をはじめ国際社会で問題視され、中国政府が激しく抵抗している論点のひとつだったからだ。
 こうした政治環境のもと、米国とドイツでの翻訳出版の知らせがネット世論の火に油を注いだ。
「死者を素材に外国で金儲けを企てている」。
方方さんは書き始めた当初に出版の意図はなかったとし、「印税はすべて新型コロナで亡くなった医療関係者の遺族のために寄付する」と説明したが、攻撃者は意に介さない。
「人血饅頭」。
魯迅賞を受けている彼女を皮肉り、魯迅の小説『薬』にでてくる死刑囚の血を混ぜた饅頭を引き合いにだし侮蔑する書き込みまであった。
 批判は米独の出版社にも向かった。
5月15日に出版された『武漢日記』英語版(ハーパー・コリンズ社/電子版)は副題の変更を強いられた。
出版社が仮置きしていた案は「 Dispatches from the Epicenter (感染源からの報告)」。
だが、アマゾンに詳細がアップされると、中国から強い批判を浴びた。
米国と中国との間で激しい政治的な論争になっている感染源を、武漢と特定していたからだ。
結局、「 Dispatches from a Quarantined City (隔離された都市からの報告)」に変えた。
ドイツ語版(ホフマン&カンプ社)は発売日が変わった。
もともとは6月4日。
31年前、民主化を求めて街に出た若者たちを戦車が弾圧した天安門事件の日だった。
黒いマスクの表紙とともに「中国の顔をつぶすものだ」との批判が噴出した。
結局、5月30日になった。
両社とも当初の案は仮のものだったと説明している。
だが、出版関係者の間では中国からの反発を意識したものととらえられている。
 英語版の訳者、マイケル・ベリー氏(カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授)のSNSアカウントにも「ウイルスに感染しろ」「白いブタ」などと罵声が飛んだ。
ベリー氏は言う。
「重要な点は、日記への攻撃は新型コロナの問題を超えて、現下の米中間の対立や中国社会そのものに起因していることです」。
日本でも翻訳出版が準備されているが、詳細は明らかにされていない。
中国国内では、壮絶な炎上に出版社が及び腰になって手をひいてしまった。
(後略)
(『世界 2020年8月号』岩波書店)
11月4日
 近江国今堀(いまぼり)の村人が惣村(そうむら)の掟(おきて)を定めた。 1489(延徳<えんとく>元)年

 この掟は20カ条から成り、「惣ノ地ト私ノ地ト、サイメ(境目)相論ハ、金ニテすますへし」「犬か(飼)うべからず事」などとあるように、漢字と平がな、片かなまじりの文章で書かれている。
2月と6月に猿楽(さるがく)をもよおすときは一貫文(かんもん)ずつ惣のお金を出すこと、他所(よそ)の人は保証人なしに村においてはいけないこと、惣の森で木や葉をとったものは村を追出すことなど、村の生活に関することがらが細かく定められている。
今堀は比叡山延暦寺の所領で、村の中心には日吉(ひえ)神社が勧請(かんじょう)されていた。
村人は14世紀ころからこの神社の神事の運営をはじめ、生産や生活のために村人同士の結びつきを強め、惣(惣村)という自治組織をつくり掟を定めた。
ばくちを禁止し、盗人を捕らえたものにほうびをあたえるなど、村の様子をいきいきと今に伝えている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
惣村(そうそん)
 中世の村落の一形態で、百姓の家の自立を前提に、村落運営に百姓・地侍等の全員(家の代表)が参加する組織。
鎌倉時代後期から室町・戦国時代に主に畿内で典型的に成立。
(『岩波日本史辞典』永原慶二監修 岩波書店 1999年)
一集落(小村)から複数の集落を含むものや、百姓から土豪・武士まで含むものもある。
惣村成立の背景には、山野や河川などの水利の共同利用、土地や池など惣有財産の成立、宮座などの共同祭祀、堂社の維持を行う一体性があり、村落の自治の進展があった。
さらに年貢減免や代官排斥の対領主闘争、近隣地域との境相論など生業権益をめぐる闘いで村落が集中力を強め、村民統制の権力をもつに至る中で成立した。
村のもつ課題の性格によって地域・構成員に多様性があり、領主に対して年貢を請負う村請(百姓請)を行うものや、家を単位とした村落独自の課税、一般的な自治維持から村落の裏切り処罰などの科刑も行った(自検断)。
惣村の構成員となる資格には、屋敷の所持、一定年数以上の居住、村税、宮座運営費等の納入などがあり、運営は家長全員の寄合で合議され、地下掟(じげおきて)という村法なども制定。
行政機関に類する組織も持ち、指導者である乙名(おとな)層、主として治安や軍事に関わる若衆等があった。
全体として年齢階梯的な組織になっているが、平等ではなく村人(もろと)、間人(もうと)という身分差があり、女性は運営から排除されていた。
代表的な惣村に近江の菅浦(滋賀県西浅井町)や今堀(同八日市市)がある。
(『岩波日本史辞典』永原慶二監修 岩波書店 1999年)