2020年11月5日木曜日

気温は低いけど…

朝の気温は10度をきっていて寒さを感じました。
それでも青空が広がり歩いているとポカポカしてきました。

5日朝 今シーズン一番の冷え込みに」(えりの気象日記 11月4日)

サイエンスZERO「天然染料 藍の科学 抗ウイルスに農業革命も!?
を見ていて藍のパワーは凄いなと思いました。
昔の人は、どうやって藍の仕組みを知ったのだろう( ゚Д゚)
黄色ブドウ球菌など抗菌・抗ウイルスを抑える力をもっていて新型コロナウイルスへの効果も期待されている。

水に溶けない藍でどうやって布を染めるのか?
染物屋さんで藍の栄養分として日本酒をあげていた(*´▽`*)

イチゴ農家で葉につくカビなどへの対策として藍の抗菌効果を期待して使っていたのですが、
使い始めて3年、予想もしなかった変化があったといいます。
それは…
上野千鶴子さんのTwitterに

辻元さん、頑張ってくれてありがとう!

(国会中継の一部ですが、首相の答弁がどれほど支離滅裂が短時間でわかる)

立憲民主党 国会情報+災害対策のTwitterに

辻元議員
加藤陽子さんは小泉政権から菅政権までの17年間、政府の委員会等の8つの委員を務めてきた事実をご存知でしたか

菅総理
内閣でお願いしているということは私は承知していませんでした

辻元議員
同じ人物を一方では政府が力を借りて一方では拒否。
任命拒否の根拠は破綻していると思いませんか

11月5日
 吉田松陰(しょういん)が萩(はぎ)の郊外に松下村塾(しょうかそんじゅく)をひらいた。 1857(安政<あんせい>4)年

 霜のおりる季節をむかえた城下町萩郊外の松下(本)村(現山口県萩市)で、この日、吉田松陰は実家の杉家(すぎけ)のかたすみの小屋を修理して、新しい松下村塾をひらいた。
54年3月に、松陰はペリーの艦隊にのりこみ海外に出ようとして捕らえられ、翌年なんとか出獄(しゅつごく)したが、まだ杉家にあずけられた身であった。
 おじの久保五郎左衛門(くぼごろうざえもん)の松下村塾を受けつぎ、これをつくりかえた松陰は、「塾生はみなどんどん成長しています。この田舎の小さな村から、すぐれた若者を天下に役立つ人物に育てるのは実にゆかいな仕事です」と、友人、松村無窮(まつむらむきゅう)に手紙を書いている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
松下村塾(世界遺産)」(松陰神社)

日本文学史序説(下)』より吉田松陰について転記しますφ(..)
正直、何度も読み返していますが、読むたびに浅い読みだったなと痛感しています(^^;
これからも繰り返し読みたい本です。
なお、松陰の詩を転記する時に返り点に(レ)(一)などのように( )をつけて表記しています。
第十章 第四の転換期下
 吉田松陰と1830年の世代


(前略)

 このように30年の世代の時代に対する反応は、多岐にわたっていた。
しかし維新の動乱の立役者たちは、ほとんどすべてこの世代に属していた。
明治社会を作ったのは、この世代である。
彼らは主として、長州と薩摩と土佐から出た。
そのなかで長州の活動家たちの大多数は、多かれ少なかれ、若くして刑死した一人の詩人=「イデオローグ」=「テロリスト」の影響のもとにあった、といえるだろう。
木戸孝允然り、伊藤博文(1841~1909)然り、「奇兵隊」を武士層以外のところに募った高杉晋作(1839~67)また然り。
その名は長州藩を超えて、遠く水戸にまで聞えていた。
その詩人が、吉田松陰(1830~59)である。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
 吉田松陰は、長門国萩の下級藩士の次男として生れ、幼時に山鹿流兵学師範の叔父の養子となって、その家を嗣いだ。
20歳前までは、萩で兵学を学び、また大塩中斎の『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』を読んだという。
20歳のとき、長崎へ遊学して、オランダの軍艦を見、21歳で佐久間象山の門に入る(1851)。
松陰が海外密航を企てたのは、西洋の事情を現地に探る必要を説いてやまなかった象山の影響によるところが大きかったろう。
密航は三度企てられて、三度失敗した。
第一回は浦賀のアメリカ艦隊に近づこうとして、準備の整わなぬうちに、艦隊が出航して終った(1853)。
第二回は長崎のロシア艦隊に頼ろうとして、長崎まで出向いて間に合わなかった。
第三回は、もう一人の青年と共に小舟で、再来したアメリカ艦隊に漕ぎつけ、乗船したが、アメリカ側は密航留学の願いを容れず、二人を岸へ送り返した。
下田奉行は、自首した松陰らを逮捕して、江戸へ護送した。
小舟は乗船のときに流され、当局の手に入ったが、そのなかに、象山の松陰にあたえた送別の詩があった。
幕府は象山も逮捕した(1854)。
同じ年松陰は江戸から萩に移され、野山獄に下る。
獄中で作ったのが『野山獄文稿』(1855)、「回顧録」(1855)などであり、前者は時事を論じる書簡を含み、後者は密航失敗の事情を詳しく述べる。
 野山獄から1年余の後解放された松陰は(1855年末)、萩の生家に禁錮となる。
再び1858年末に投獄されるまでのおよそ3年間、すなわち松陰の26歳から28歳までは、彼に比較的自由な交際と活動が許されていた時期である。
松陰はその間に「松下村塾」を開いて(1857)、弟子を集め、文通を盛んにし、幕府老中の暗殺計画をたてた(1858)。
その頃、54年の日米和親条約から58年の日米通商条約まで、幕府の対米政策は、艦隊の圧力のもとで、譲歩をくり返し、開国を躇(ためら)う宮廷と幕府との対立は鋭くなっていた。
そういう状況に対する松陰の反応は、58年中に書かれた多くの文章に要約されていて、『戊午幽室文稿』(1858)に見ることができる。
幽閉中の松陰は、翌59年初め、参府の藩主を道中に擁して京都へ連行し、幕府の政策に反対して、対米強硬策を練らせるという計画をたてた。
藩政府の要人がこれに反対すれば、殺害すべし、というものである。
しかし彼が送った使者は、捕らえられて、投獄され、計画は失敗した。
幕府は長州藩に松陰の江戸送りを命じ、同じ年の秋に江戸で処刑した。
 松陰の詩は、その大部分を、『松陰詩稿』に収める(『全集』、岩波書店、1939の第七巻)。
そこには頻に「墨土火船」とか「四夷」とか「国恥」とかいう語がみえ、また頻に「忠義」とか「勤王」とか「報国」とかいう憂国の語があらわれる。
身辺雑事の観察はなく、四季の吟詠もなく、恋の歌もない。
措辞の洗練も、詩的「イメージ」の独創もなくて、彼の詩はほとんど日記のように、機会に応じてその政治的理想を述べる。
彼が詩人であったのは、そういう詩を書いたからではなく、その生涯の思想と行動とが一種の詩に他ならなかったからである。
  狂愚誠可(レ)愛 才良誠可(レ)(おそる) 狂常鋭(二)進取(一) 愚常疎(うとし)(二)避趨(一)
  才多(二)機変士(一)  良多(二)郷原徒(一) 流俗多(二)顚倒(一) 目(レ)人古今殊(ことなり)
  才良非(二)才良(一) 狂愚豈狂愚 (「狂愚」、『松陰詩稿』)
 「進取に鋭く」は、『論語』、子路篇、第21章の「狂者進取」に拠る。
「郷原の徒」は、同じく、陽貨篇、第13章の「郷原徳之賊也」を踏まえて、いわゆる「八方美人」に対して、あくまで前進し、困難を避けない「狂愚」を、彼は愛するといったのである。
そういう心情は、力関係の冷静な判断や費用と効果の計算や戦略的な妥協というもの、つまり政治的な思考と、背馳するにちがいない。
彼には詩人の気質があって、政治家の天性がなかった。
しかるに時代は、詩人を政治的状況のなかにまきこんだのである。
吉田松陰という現象は、まさに詩人の政治化であった。
そのことから現実主義に媒介されない政治的理想主義が生じる。
現に彼の理想主義から影響を受けた青年は多く、非現実的な行動計画に賛成した同志は少なかった。
かくして孤立は強まらざるをえず、獄中に孤立した松陰の行動計画の選択範囲は、いよいよ狭くなるはずであった。
それでも積極的に動こうとすれば(「進取」)、もはや「テロリズム」以外に手段がなくなるだろう。
妥協のない理想主義から孤立へ、孤立から手段の過激化へ、したがってより以上の孤立へ――という悲劇的な道は、ついに効果の点で絶望的な行動に終らざるをえない。
その最後の行動は、もはや政治的な面においてではなく、詩的な、あるいは精神的な面においてのみ、象徴的な意味をもち得る。
それが藩主の待ち伏せ計画、いわゆる「要駕策」であった。
「要駕策」が失敗し、捕らえられた門人に送った彼の書簡には、「天下一人の吾れを信ずるものなきも、吾れに於ては毫も心を動かすに足るものなし」という(「和作に与ふ」、『己未文稿』、1859)。
詩人はどれほど政治化しても、詩人に還るのである。
 松陰は「尊王攘夷」のイデオローグとして知られ、その立場は一貫していた。
彼はアメリカとの通商条約を日本国の独立に対する脅威と考えていたらしい。
米国人が商館や領事館をひらけば、彼らは貧院を起し、医院を設け、「愚民の心を結ぶ」ばかりでなく、知識人を籠絡するだろうし、「書を知りて道を知らざる人、翕然附同し、蟻聚して、蠅集」するだろう。
しかも「幕内貧婪の吏、其の心夷狄の得る所となること已に久し」(「狂夫の言」、『戊午幽室文稿』)。
故に「天勅は奉ぜるべからず、墨夷は絶たざるべからず」(「対策一道」、同上)ということになる。
 しかし松陰は、象山の弟子であった。
彼の「攘夷」は、鎖国の維持ではない。
「航海通市は固より雄略の資」であり、「鎖国は……末世の弊政」にすぎない(同上)。
「何卒大艦打造、公卿より列公以下、万国航海仕り、智見を開き、富国強兵の大策相立ち候様仕り度事に御座候」(「続愚論」、同上)。
これは象山の考えであったばかりでなく、周知のように、明治政府の指導者の一致した見解になった考え方である。
このような「開国」は「攘夷」と矛盾しないと、松陰は考えていた。
「開国」は、日本人の海外渡航であり、「攘夷」は外国人の日本における特権の廃止である。
「然れども鎖国を開き候には、墨夷丸に御拒絶成されず候ては、御国威相立ち申さず」(「愚論」、同上)というのは、そのためである。
「墨夷丸に御拒絶」とは、その前年1857年の日米和親条約の破棄を意味し、したがってアメリカ艦隊との一戦を意味していたはずだろう。
しかし交戦の用意について松陰のいうところは、ただ全国が一致団結して戦えば道がひらけるだろう、という漠然とした期待にすぎなかった。
 和親条約に否定的な宮廷は、鎖国政策の維持を幕府に迫っていた。
「尊王」と「開国」の主張は、松陰のなかでどう折合っていたか。
彼は「開国」の必要が、「幕府の俗吏のみに非ず、当今天下材臣智士と称する者皆々」の意見であるとして、「鎖国の御定見」すなわち「流行に後れたる叡慮」の変更を、京都の梁川星巌を通じて、宮廷に具申しようとしていた(「愚論」、同上)。
「尊王」は、松陰において「倒幕」につながっていたか。
必ずしもそうではない。
「攘夷」は、天皇の命令を奉じて、幕府が実行できると、1858年の段階でも彼はなお信じていたようにみえる。
「征夷(幕府―引用者)万一勅旨を奉ぜざれば、天下挙つて之を斃さんこと易々たるのみ。而して征夷は決して然らざるなり」(「対策一道」)――これは一種の、条件つき公武合体論である。
 このような松陰の思想に、独創的な点は、一つしかない。
すなわち「開国」と「攘夷」との組み合せであるが、それこそ彼の考え方のなかでもっとも非現実的な点であった。
「開国」の必要の理性的な認識と、「攘夷」の感情的な欲求とを、現実的な議論として整理すれば、「開国」による富国強兵を当面の目標とし、「攘夷」問題を延期するということになる。
それは早くも象山が見抜いていたことである。
そのためいは、倒幕が必要であったかもしれないし、なかったかもしれない。
 後に倒幕に向った下級武士層に、何故松陰は強い影響をあたえることができたのだろうか。
それはおそらく彼が「尊王」を唱えたということだけではなかったろう。
「尊王」を強調したのは、彼だけではない。
対外的な危機感とからんで国内の改革を唱えた知識人のなかで、松陰の立場は徹底していた。
彼は幕藩体制の指導者たちの無能を痛論し、長期的には、青年の教育法を改めて指導者を養成すべしといい、短期的には、上級武士にその人がなければ、下級武士をとって大臣にすべし、といった。
 もし下級武士にも人材がなければ、「之れを徒士・足軽に取り、之れを農工商賈に取るも、不可あることなし」(「狂夫の言」)。
攘夷のための兵力は、「力に任せ有禄無禄武士浪人に拘らず調募させ……」(「愚論」)ともいう。
これはほとんどそのまま彼の弟子、高杉晋作がその「奇兵隊」において実行したことである。
すなわち封建的身分制の打破であり、松陰の「分」を超えた言論と活動そのものが、徹底した身分制打破の人格化にほかならなかった。
 吉田松陰の思想には独創性がなく、計画には現実性がなかった。
しかし「狂愚誠に愛す可し」といった青年詩人は、体制が割りあてた役割を超えて、歴史に直接に参加するという感覚を、いわばその一身に肉体化していた。
その感覚こそは、1860年代に、若い下級武士層を維新の社会的変化に向って動員した力である。
「尊王」と彼らはいった。
なぜなら彼らにとっての幕藩体制は、参加の不可能を意味したからである、幕藩体制に反対するためには体制そのものが幕府の上にあるとした権威を必要としたからである。
そうして木戸孝允から伊藤博文まで、松陰よりもはるかに現実的な政治家たちが、改革を実行した。
詩人は死に、政治家は権力を握ったが、政治家に理想を――もし理想があったとすれば――吹きこんだのは、詩人であって、その逆ではない。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v
野良ネコちゃんがコスモスの花を見ているような…
シッポをチョコンと縄に乗せていました(*´▽`*)
この子のシッポは長いけど、日本の猫にはシッポが短いのが多いです。
が参考になります。