2020年11月16日月曜日

曇り時々晴れ…

今朝の天気は晴れのようだったけど、歩いている時は、曇り時々晴れといった感じでした。
顔見知りの方に出会って「お久しぶりです」と声をかけると
「休んでおられたのですか?」と尋ねられました。
実は、私もその方と会えないなと思っていました。
ちょっとしたタイミングで数日会えなかったようです。
今までしたら心配することないのですが、この頃は…
お互いに気をつけましょうと声をかけ合いました。
ETV特集「サピエンスとパンデミック~ユヴァル・ノア・ハラリ特別授業~
を録画して父と一緒に見ましたが、父も感動していました。
世界中から集まった「ワールド・カレッジISAKジャパン」の生徒たちの聡明さに感嘆しました。
目の輝きが違う!
ハラリさんは人類の250万年の歴史を「認知革命・農業革命・科学革命」という3つの革命という視点で、生徒たちと語り合っていました。
再放送が11月19日 午前0:00~(18日水曜日深夜)にありますし、
見逃し配信が11/21(土) 午後11:59 まであります。
この番組と響き合うなと思ったのが…
こころの時代~宗教・人生~ それでも生きる~旧約聖書・コヘレトの言葉(2)
4月から全6回の予定で始まったのですが、新型コロナのために収録が延期になっていました。
番組の中で
貧しくても知恵ある少年のほうが
 もはや忠告を聞き入れない
 老いた愚かな王よりまさる。
」(『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』)
という言葉が引用されていて、
若松
何か、世の中が大きく変わっていく時のある目印のような気もするんですね。
私たちは、何か危機にあって、世界を少し変えていこうとする時に、誰の声を聞くべきかって時に、とても大事な光を与えてくれるような感じもいたしますね。
どうしても私たちは、この力ある者、あるいは声の大きな人の声を聞きがちなわけですけど。
コヘレトはやはり、「真実を語る小さな者の声を聞け」っていうのを私たちに教えてくれるんじゃないかなと思いますね。やっぱり。

小友
この「愚かな王よりも知恵ある少年がまさる」ですね。
今ですね、この地球環境の危機はね、現実あるわけですけども。
この地球環境について、今、一生懸命発言してですね、この行動しているのは、少女ですね。グレタさんね。
この知恵ある少女のほうがですね、愚かな王よりも、大人よりもまさるっていうですね。
これはとても皮肉ですけども「コヘレトの言葉」っていうのは、現代を痛烈に批判してるですね。
私は、そう読んじゃうんですけどね。

(大統領とグレタさんのことが語られていますが、元市長が高校に出向いて、一方的に自説を述べ、生徒の話を聞かずに「政治のことは大人に任せなさい」と言い放ってその場を立ち去ったことも思い出していました)
あなたは義に過ぎてはならない
賢くありすぎてはならない
どうして自ら滅びてよかろう
あなたは悪に過ぎてはならない
愚かであってはならない
あなたの時ではないのに
どうして死んでよかろう

  ―「コヘレトの言葉 7章」―
11月16日
 伊賀惣国一揆(いがそうこくいっき)の掟(おきて)がつくられた。 (1552―67年ころと推定)

 他国から伊賀国へ侵入する者に対しては、惣国一味同心してこれを防ぐこと。
惣国の者がとりしきっているので、要所要所より注進があれば里々で鐘をならし、直ちに出陣するようにせよ。
そのときは兵糧(ひょうろう)・矢楯(やたて)をもち、要所の防備が手うすにならないように陣を張ること。
 これは「惣国一揆掟之事」と題する掟書の一条と二条で、他の九条もすべてこのような戦争に関する条文となっている。
16世紀なかばころ、幕府の実力者三好(みよし)氏や大和(やまと)の武士の侵入に対して一味同心して戦い、惣国一揆による自治をおこなおうとしたことがそこからうかがえる。
 この惣国一揆は、村々の住民による惣結合を基礎に、侍たちの連合で運営された。
隣国の近江甲賀(こうか)郡の惣組織と国境で野外集会を開いて協議をし、軍事同盟を結んで敵に対抗することもあった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
惣・一揆と下剋上の社会状況
 伊賀惣国一揆


 このような村落住民がその内部と複雑な身分関係をもちながら、外部からの軍事的侵入に対し結束した大きな力を発揮したみごとな事例は「伊賀惣国一揆」である。
 「国一揆」としては文明17年(1485)に南山城地方に成立した山城の国一揆が史上もっともよく知られている。
この一揆に結集した百姓・地侍は宇治平等院でそれぞれの集会をもち、「掟法(おきてほう)」を定め「惣国」と称して検断権までを行使した。
けれどもその「掟法」の本文は残されていない。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
 ところが、伊賀の惣国一揆は、かれらが制定した掟をそのまま伝えており、現在伊勢神宮の神宮文庫所蔵の「山中文書」のなかに収められている。
 11ヵ条からなる「惣国一揆掟之事」は、末尾に「右掟連判を以て定むる所件(くだん)の如し」とあるから、一揆衆中が連判して盟約したものである。
「霜月(しもつき)十六日」とだけあって作成の年代は記されていないが、内容からみて、三好長慶(みよしながよし)が京都の実権をにぎった天文21年(1552)から信長が南近江の六角氏を追って進出してきた永禄11年(1568)までのあいだということはできる。
 第一条 他国より伊賀国に侵入する者があれば、惣国一味同心してこれを防ぐこと、
 第二条 惣国の者どもがとりしきっているゆえ、要所要所の物見から注進あれば、里々に鐘をならし、時を移さず陣におもむくこと、
 第三条 上は五〇,下は一七を限り、その間の者はすべて陣に参加すべきこと、長陣になったら交替勤務とし、在々所々は武者大将を指名し、惣はその下知(げち)に従うこと、
 第五条 国境に他国側がつくった城を取り、忠節を励む百姓があれば、十分の褒美をあたえ、その身は侍に取りたてること、
 第七条 惣国の者は諸侍・足軽(あしがる)によらず、けっして三好方に奉公してはならない、
 第十条 前々より、大和から我方に対し、たびたび不法な攻撃が加えられているが、大和大将の牢人は断じて許容できない、
 第十一条 わが惣国は順調に態勢がととのった、近江の甲賀から協力の申し入れがあるから、我方から出張して、伊賀・甲賀の境目で、近日野寄合(のよりあい)をもつ、
 とくに注目される箇条の要点を書きだしてみるとこのようなものである。
全体として軍事的な性格が強く、これを作成したのは侍分の人々にちがいない。
第五条で、手柄あった百姓は侍に取り立てるといっている。
侍グループが百姓に対する身分支配までも行っていたらしい。
しかし、第三条でも分かるとおり、この惣国は村々の惣を基礎として、百姓の広範な参加の上に成立っている。
また大和をはじめ外部からの侵入者に対抗する共同の防衛組織としての性質が強い。
惣国の内部には侍と足軽・百姓の身分的区分があり、支配被支配に近い関係を包合している面を見のがせないが、全体として百姓・地侍のヨコの結合にもとづく共同体、という性格のほうが前面に押しだされている。
第七条に惣の侍・足軽が外部の三好勢力に結び付くことを禁じている。
 さらに、第十一条によると、類似の組織が伊賀と隣接する近江甲賀(こうか)郡にもあり、そちらから伊賀惣国に協力の申し入れがあったことも興味深い。
その甲賀郡の組織は、「山中文書」に収められている他の史料から分かるが「甲賀郡中惣(ぐんちゅうそう)」よばれ、甲賀郡に居住する村々の小領主の連合体であった。
たとえば甲賀郡柏木(かしわぎ)の御厨(みくりや)という地域に住む山中氏・美濃部(みのべ)氏・伴(ばん)氏という村落単位の小領主が、それぞれ「同名惣(どうみょうそう)」をむすび、その連合としての柏木「三方惣(さんぽうそう)」をつくり、さらに同様のかたちの地域的連合組織を統合するかたちで「郡中惣」が編成されているのである。
これらの組織は地侍中心とはいえ、野洲(やす)川に取水堰(しゅすいぜき)をもつ用水路の共同管理という生産機能や地域防衛という軍事的機能の共同体的な性格が強かったため、農民のひろい支持を得ることができた。
 伊勢小倭郷・伊賀惣国・甲賀郡中惣は、そのスケールを異にしながらも、ほぼ同じ時代の相接する地域に出現した地侍・百姓の自律性の強い結集体である。
こうした基礎組織の出現こそ戦国時代をその深層から規定する社会的動向であり、戦国大名がその領国体制を固めようとするとき対決がさけられない相手であった。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)