2018年2月14日水曜日

石清水八幡宮

父が旅行に行く前に参拝したいというので同行しました(^-^)
男山ケーブル山上駅から参道を歩きました。
ここ数日、雪が降ったりしていて木陰が続く参道はどうかなと思いましたが
乾いていて歩きやすかったです(^_^)b
南総門から社殿を見ると、社殿が少し西側を向いていることが分かります。
これは、御神前にて参拝したのち帰る際に、
八幡大神様に対して真正面に背を向けないよう中心を外しているといわれています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
長い間、祈っていました。
今も入院生活が続く伯母の回復を祈っていたのだと思います。
カヤの木から力をもらっています。

樹齢700年以上、根周り7m、樹高約20m、樹冠30mの巨樹であり、
京都府下のカヤのなかでも有数の巨木といわれています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
お詣りの後、父と別れて石灯籠の続く道を歩き、
表参道をくだることにしました。
一ツ石(ひとついし)
三ノ鳥居から本殿へと続く、馬場先と呼ばれる石敷の参道の三ノ鳥居付近中央に
その箇所のみ自然石が露出している部分があります。
この石は通称「一ッ石」「勝負石」「お百度石」などと呼ばれ、
「一ッ石」「勝負石」は「五ッ石」(かつて、南総門下にあった)に対する呼称で、
この石が走馬・競馬の出発点になっていたこと(終点が「五ッ石」)に由来するといわれています。
「お百度石」はこの石が百度参り・千度参りの起点になっていたこと
(蒙古襲来の折には人々が一ッ石と本殿を往復し「道俗千度参」を奉修した)に由来するといわれています。
江戸時代には、本殿参拝を終えた参詣者が一ッ石の前で
再び本殿に向かい拝礼するという習わしがあったということも伝えられています。
(石清水八幡宮「境内の案内」より)
鳩峯寮の庭 重森三玲作
 この石庭は昭和を代表する作庭家である重森三玲翁により、
昭和36年9月16日に当地方を襲った第二室戸台風で倒壊した三之鳥居(正保二(1645)年建立)の石材を用いて、
昭和41年5月11日に作庭されました。
 参道の石畳を含めた東西にわたり一貫する直線と斜線の繊細な組み合わせと、
力強い石組との対比によって構成された珍しい石庭で、
生涯にわたって月参りを続けられた翁の深い敬神崇祖の心が大変見事に表現されています。
   石清水八幡宮
南谷 豊蔵(ほうぞう)坊跡
 江戸に幕府を開いた徳川家康が早くから祈願所とし、
徳川将軍家の坊として江戸時代もっとも栄え、
文久3年(1863)に孝明(こうめい)天皇が攘夷(じょうい)祈願を行った場所としても有名です。
石高(こくだか)は男山四十八坊といわれた坊のなか随一でした。
正法寺(しょうぼうじ)の開祖である志水(しみず)家の娘で、
家康の側室となったお亀(かめ)の方(相応院 そうおういん)のおかげで、
江戸幕府の手厚い保護があったともいわれています。
お亀の方の子は初代尾張藩主となり、
母の菩提寺である正法寺を厚く庇護しました。
 豊蔵坊は、江戸幕府が直接修理や築造を行ったので、
詳しい絵図が複数現存しています。
客殿や庭を備え、湯殿が2ヵ所、蔵が3棟あり、
敷地全体に所狭しと建てられていました。
明治の初めに建物は全て取り除かれましたが、
豊蔵坊にあった徳川家康の像(東照神君像)は、
京都市の等持院(とうじいん)に移され現存しています。
東谷 橘本坊跡
 橘本(きっぽん)坊は足利氏の祈願所でした。
足利氏は、平安時代後期に石清水八幡宮社頭で元服し、
「八幡(はちまん)太郎」と呼ばれた源義家(みなもとのよしいえ)の孫・義康(よしやす)を祖とする武家の名門で、
室町幕府を開いた足利尊氏(たかうじ)から約240年間にわたり日本を統治しました。
 室町幕府3代将軍である足利義満(よしみつ)の母、良子は、
石清水八幡宮寺(ぐうじ)の長官を務めた家である「善法寺(ぜんぽうじ)家」の出身であったことからゆかりが深く、
足利将軍の多くは生涯に何度も参詣し、
放生会(ほうじょうえ 現在の勅祭 ちょくさい ・石清水祭、9月15日未明に斎行さいこう)も執り行いました。
橘本坊には世に名高い八幡太郎義家の産衣(うぶい)や甲冑(かっちゅう)がありましたが、
宝暦9年(1759)の火事で焼失し、今は石垣だけが残されています。
 男山の麓、南へ約300mに善法寺家ゆかりの寺、善法律寺(ぜんほうりつじ)があり、
良子の寄進と伝わる紅葉が美しく、「もみじ寺」ともいわれます。
景清塚
表参道と石清水社の方面へと向かう道の分岐点に位置し、
祓谷という谷筋の流れが向きを変える曲水の所に当たり、
その谷を隔てた向かい側には、かつて祓谷社というお社があり、
現在は山上の祓所で行われている6月30日の夏越大祓と
12月31日の年越大祓もここで行われていました。
かつて当宮へ参詣する人々は、
この清水に己の影(姿)を写して心身を祓い清め、
長く長く幾度も曲がる参道を上がるうちに心を整え、
山上の本宮への参拝に臨んでいました。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
赤い矢印の方向に進めば裏参道。
左に見える二ノ鳥居をくぐれば表参道です。

頼朝公ゆかりの松
『男山考古録』によると、源頼朝公奉納の伝承を持つ「六本松」のことが記されており、
唯一の生き残りであった松が昭和22年、落雷により焼失されてしまいました。
現在の「頼朝松」は昭和30年に奉納された2代目です。
『吾妻鏡』によると頼朝公は当宮に5度参詣していますが、
そのうちの1度、建久6(1195)年4月3日には妻・北条政子と娘を連れて私的参拝
、同月15日には長男・頼家を伴っての公的参拝をしています。
頼朝公49歳のとき、鎌倉から持参した6本の松の苗木を当地に植え、
帰路は当地より持ち帰った松を鶴岡八幡宮の境内に植えたといいます。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)
高良社(こうらしゃ)2017年7月10日の記事

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 仁和寺の法師が石清水の本殿と間違うほど、じつは高良社も九州では由緒のある社なのである。
高良大社は福岡県久留米市御井町の高良山の中腹にある。
この地域は継体天皇と戦をした磐井の本拠地で、この山が磐井勢力の聖地とみられる。
 高良社には古代の山城とも聖地ともみられる神籠石(こうごいし)があって、一部は高良大社と重複している。
聖地でもあり山城でもあるとみてよかろう。
この神籠石に水源のあるのが岩井川であり、
下流に岩井という薬師如来を祠る聖なる水場もある(図説日本の古代五巻『古墳から伽藍へ』の「磐井戦争の国際環境」)。
 高良大社は『延喜式』では高良玉垂命神社とある。
この神は神功皇后の三韓親征を助けた神とされているが、男神とも女神とも両説がある。
 高良大社は筑後国一宮であり、中世に九州の武将たちの信仰を集めた。
宇佐神宮よりも九州の武将たちが崇拝した神社なのである。
高良社がいつどのようにして男山の麓に祠られるようになったかのか、関心の集るところである。
(『京都の歴史を足元からさぐる 宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年)
頓宮
頓宮の南門から入って普段は閉まっているようですが
左側の門から見えるのが
五輪塔(航海記念塔)
石清水八幡宮をお参りするたびに感じるのは、明治維新の影の部分を感じます。
それは日本の伝統・文化の断絶。
よく日本の伝統という言葉を聞きますが、
その人たちの考えている伝統とはいつの時代なのかなと思います。

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 実際江戸時代の最盛期には四十以上もの僧房が山上にあり、
幕末でも三十余りがあったようで(八幡市教育委員会『石清水八幡宮境内調査報告書』)、
完全に寺院の様相を呈していた。
それが明治の神仏分離で完全に消滅したのである。
石清水八幡宮での明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の激しさは特によく知られ、
僧侶は全員還俗(げんぞく)、僧坊はすべて撤去、
仏教関係の物品は大阪の古道具商松浦某に売却、
今となっては滑稽以外の何ものでもないが、
行教像の還俗儀式まで行われたという(『明治維新神仏分離史料』)。
 こうして明治に男山の仏教色は完全に廃され、現在の石清水八幡宮の姿となる。
(『歴史でめぐる洛中洛外(下)洛東・洛南』井上満郎 淡交社 2017年)
一ノ鳥居を出てすぐあるのが「やわた走井餅
前から気になっていた「走井うどん」をいただきました。
あっさりして美味しかったですよ(^。^)
そして母へのお土産に「走井餅」を買って帰りました。