2016年12月29日木曜日

定期通院の後(^。^)

 金槐和歌集 巻之中 戀之部
  會不逢戀(あひてあはぬこひ)
今更になにをか忍ぶ花すゝきほに出(いで)し秋も誰(たれ)ならなくに

会不逢恋―一度逢うてそののち逢えない恋。
○花すゝき―「ほ」の枕詞。
○秋―「すすき」の縁語。
○誰ならなくに―誰でもない,あなたであったものを。
〔大意〕今さら何を遠慮するのですか,人目を気にする必要もないではないか,
この恋を人に知れるように外部にあらわしたのは,
誰でもない,あなた自身だったのではありませんか。
(『山家集 金槐和歌集 日本古典文学大系29』
   風巻景次郎・小島吉雄校注 岩波書店 昭和36年)
居りよさに河原鶸来る小菜畠  支考
(『俳諧歳時記(秋の部)』横關愛造編 改造社 昭和29年)
サクラの木が弱っているようです…
ヒイロタケ(37/56)かな?
鵙よ鵙ピンチヤンするなかゝる代ニ
(『古典俳文学大系15 一茶集』
   丸山一彦 小林計一郎校注者 集英社 昭和45年)
すずめ【雀】
 屋根や軒先の隙間で繁殖するが,鷹の巣の隙間に営巣することもある。

  飛びあがり宙にためらふ雀の子羽たたきて見居りその揺るる枝を  北原白秋
  春は軒の雀が宿の巣藁にも紅(あか)き毛糸の垂れて見えけり  北原白秋

 一首目は細かな生態観察が生きており,二首目は雀の営巣を歌う。
『雀の卵』(1921)のころ,雀は白秋にとって特別に親しい鳥だった。
(『岩波現代短歌辞典』)
山茶花の散り重なりて土濡れぬ  原田種茅
(『講談社版 カラー図説日本大歳時記[座右版]』 昭和58年)
のびきりし鴨の首やな水をたつ  高浜年尾
(『カラー図説 日本大歳時記[冬](旧版)』昭和57年)

   亡き人々を夢に見て
夢に見れば死もなつかしや冬木風
(『決定版富田木歩全集 全壱巻』
   新井声風編著 世界文庫 昭和39年)
 ベンチに座って横を見るとほんのちょっぴりの岩場。
もう山を登ることは出来ませんが,少しだけ気分を味わいました(^ー゜)
 ふるはたの岨(そは)の立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮 (『山家集』997)

 この歌はその荒涼感で古来人を惹きつけてきた。
よく取り上げられ,知名度も高い代表作の一つである。
「岨(そは)」は斜面,はずれ,崖地などを言葉だが,これを傍,そばとする解釈もあるようだ。
また「すごき」は現代濫用されている俗語「すごい」の方に連想がゆきやすいが,
実はすでに古語としても「寒くて身にこたえる」「おそろしげである」の意で用いられていた。
とはいえそれらよりも,西行が鳩の啼声を「友呼ぶ声」と聞きとっていたことに見すごせないものがある。
 それは詩情を誘い出すような自然の声でもなく,雄と雌が呼びかけあう求愛の声でもない。
西行はそういうものとしては聴き取っていない。
おそらく西行が我が身の孤独を旅路のあいだ,たえず感じていたのだろう。
しかしこのとき内なる孤独は外に向かう。
外界におのれの対応物をさがし求めるのである。
こうして啼いている鳩に,救いがたいまでの孤独が直覚されることになった。
孤独な存在が呼び求めているのがこの場合「友」なのである。
孤独が孤独に呼びかけている――これは「友」が「友」を求めているということにひとしい。
これが「ふるはたの」から読みとってゆくことのできる西行の世界の内的な相であった。
(『西行』)
今日は,循環器科の主治医の先生の診察日で
午後から来ましたが,結構寒かったです。
公園に来た時に運動部の若者が坂道でダッシュの練習をしていました。
σ(^_^;が帰る時に若者たちの練習も終わったようで,肩を組んで記念撮影p(^-^)q