まずはお地蔵さんにご挨拶地蔵菩薩がお祀りされている。
廃仏毀釈の嵐をうけたのによく残っておられると
お参りするたびに思うのですが、経緯は分からず仕舞いです。
毎年、初詣は石清水八幡宮へ
父は、年々、八幡さんへの参道が遠く感じるようです。
それでもお参りをすることが出来ました。
一遍が参詣した時のことを転記します。
『一遍聖絵(模本) 巻第九』(東京国立博物館)などを参照してください。
なお、私の画像と一致しません(^_-) 六 先達の古跡を追って
往生を考える
巻九になってその第一段は、弘安9年(1286)の冬に石清水八幡宮に参詣した。
八幡大菩薩の託宣に、「昔、出家して法蔵と名乗り、阿弥陀の名を得て身は浄土に住み、今は『娑婆世界』に来て念仏する人々を護っている」とある一文を引用し、「金方刹の月」(極楽浄土の阿弥陀仏)を仰ぎ見る者は、頭を「南山の廟」(八幡宮)の神前に垂れ、八幡宮の流れをくむ者は、心を西方浄土の教えにかけるであろう、という。
(「『一遍聖絵』の世界」五味文彦 吉川弘文館 2021年) その後、山城淀の上野に参った時、大炊御門二品禅門と会い、その持っていた団扇の柄が少し汚れていたので、一遍はその団扇を手に取って、柄を小刀で削って返した。
大炊御門二品禅門(藤原信綱)の話を挿入したのは、しばしば貴人が一遍を訪ねてきたことを示すものであり、絵に村の堂での踊念仏が描かれているのは、村での念仏勧進をしばしば行っていたことを示したのであろう。 絵は、山上にある石清水八幡宮の全景を東南の上空から描く(図9-①:省略)。
本殿が三殿、内殿が三殿一続きの屋根に葺かれ、本殿の前面中央に切妻造の幣殿、これに屋根をつくりつけた縦長の舞殿がある。
机が置かれ一遍が座し、時衆は後ろにあって祈っている。
南に楼門があり、廻廊が本殿を取り囲んでいる。 本殿の西は参道で競馬(くらべうま)の馬場ともなっており、その競馬を見るための馬場殿が社殿の左手前に見え、馬場の西の奥に塔の先端が見える。
廻廊の内外には摂社・末社が並び、本殿の右奥、すなわち東南の隅の大きな社が若宮で、ここには巫女がいて前で人々が祈っている。 『梁塵秘抄口伝集』によれば、後白河法皇が本殿の前で今様「峰の嵐の烈しさに 木々の木の葉も散り果てて」を謡っていた時、これを聞くため若宮の童子が参っていた、という夢を見た、と厨女(くりやめ)に知らされたので、翌日に若宮の前で今様の会を開いたという。
…後略…
(「『一遍聖絵』の世界」五味文彦 吉川弘文館 2021年) 一遍の見た石清水八幡宮
生涯を全国の遍歴の旅についやした時宗の祖の一遍(いっぺん)は、弘安9年(1286)に難波の四天王寺や上太子の聖徳太子の廟に詣ったあと石清水八幡宮に詣でた。
一遍の事績は死後間もなく、絵師が一遍の旅した場所を訪れて製作したとみられる「一遍上人絵伝」(一遍聖絵ともいう)に克明に描かれ、中世史研究の基礎資料となっている。
この絵伝の各場面は今日の航空写真をみるように鮮明に描かれている。
(『京都の歴史を足元からさぐる 宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年) 石清水八幡宮の図では、東を正面とした鳥瞰図として、本殿を見下ろしている。
回廊で囲まれた内側に東西に細長い本殿と同じほど長細い外陣があり、楼門を入った南東隅では座った10人ほどの僧が経を唱えている。
一遍の一行で、正面で机に向かうのが一遍だろう。 回廊の東正面には鳥居が建ち、その南側に二層の塔が建っている。
これは石清水八幡宮にある二つの塔のうちの小塔である。
大塔はこの図からはみだしているが、頂上平坦地の北西、通称西谷にあった。
大塔も二層であった。
この大塔のすぐ北側に阿弥陀如来像を安置する八角堂があった。 この八角堂は明治初年の神仏分離の嵐のなか、正法寺の住職によって志水の西車塚古墳の後円部に移建された。
一度内部を見学したことがある。
鎌倉時代の木造の仏像があって堂々とした大きさに圧倒された。
なお正法寺にも多数の平安時代の仏像があって、そのなかには元の宮寺の信仰をしのべるものも含まれていることであろう。
いずれにしても廃仏の嵐が男山を襲う以前の姿を頭に描かないと、男山に長くつづいていた信仰の姿にはせまることはできない。
(『京都の歴史を足元からさぐる 宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年)扉が半分閉まっていましたが
台所の神様「末社 竈神殿<そうじんでん>」休憩所の「石翠亭」(2階)で1月7日限定の「七草がゆ」(50食)。
あっさりとしてオイシイと父が喜んでいました(^_^)v
「周辺案内 お食事・喫茶」(八幡まるごとナビ)
電車の中で読んでいた本は俵万智さんの『愛する源氏物語』
『源氏物語』の「玉鬘(たまかずら)」に石清水八幡宮に参詣したことが出てきますし、
『枕草子』(「神は」)にも出ているのですが、
両書とも赤線を引いていたのに記憶から消えていました(^^ゞ 七草
私の中学生時代ですら、正月八日に初登校して、きのうは七草粥(がゆ)を食べたぜと友人に言うと、「ヘエ、そんなもの君のところでは食わすのか」と言ったくらいだから、今日では七草粥の習俗はめっきり忘れられているかもしれない。
もっとも粥にいれる七種(くさ)の菜というものには、古代以来、またところによりいろいろと変わりがある。
セリ、ナズナ、スズシロ(大根)は用いられることが多い。
一年中の無病息災を祈るべく、前の日に若菜摘みをしていただくのだとして来た。
西日本では雑炊を食べるふうがあり、菜類よりもいろいろのグをいれている。
九州の南部の山村では七歳の子が、この日ズシ(雑炊のなまり)モレと称して、七軒の家から雑炊をもらい集めて食べると、災厄にかからぬと言い伝えている。
この地方では、七歳という年を一種の厄年と見ているので、その年の正月には非常に気をつかうそうである。八幡宮の神使(眷属)、ハトについて
武士からの信仰を集めた軍神の使い
ハト
主なご利益
厄除け 戦勝 交通安全
ココで会える
石清水八幡宮(京都) 鳩森八幡神社(東京) 靖国神社(東京) 鶴岡八幡宮(神奈川)
寺社との深い関わりを持つ「堂鳩」
街中でよく見かけるドバトは「堂鳩」とも表記されるように、古くから寺社との関わりが深い鳥だった。
すでに平安時代末期から、寺社の境内に群棲していたといわれる。
なかでも、八幡神(応神天皇)の使いであるとされたことから、八幡宮では古来、ハトを霊鳥として崇めてきた。
ハトが八幡神の使いとなった理由には諸説あり、「宇佐神宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際、船の帆柱の上に金色のハトが現われたため」「ハトはつがいで飛び、向かい合って止まると八の字になるから」などといわれる。
また、白ハトは平和のシンボルとされ、靖国神社で放し飼いにされている。
…後略…
(『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監) 二見書房 2018年)















