新年になり一気に気温が下がったような気がするけど
それまで気温が高かったために寒さを感じるのだと思います。
ホトケノザが咲いていました。
なんか愛嬌のある顔に見えます。
でも、したたかな子だと思いますよ
「ホトケノザ」という名前を在来の野草から奪い取ってしまった(^_-)
その野草は、「コオニタビラコ」という「仏」から「鬼」に格下げになった。
「春の七草、ホトケノザ」(熊本市水前寺江津湖公園 スタッフブログ 2018年1月8日)明日7日は「七草粥」をいただく「人日の節供」なんですが
旧暦の1月7日は2月23日になるようです(旭川情報ねっと)。
六十七候「芹乃栄(せりすなわちさかう)」(1月5日~9日頃)と言うことで探しました。
セリと思って撮していますが、似ている「ドクゼリ」かもしれません。
「高等植物:ドクゼリ」(厚生労働省) 六日年
正月六日の夜、長野県の東北側、また諏訪あたりでも、各家の入口に、沢ガニを茅(かや)に刺したものをはさむことがあった。
神ダナにこれをあげているところもあった。
今ではじっさいの沢ガニを刺さなくとも、カニの絵を描いたり、蟹(かに)という文字を書いたりした紙をはさんでいる家がある。
六日年(むいかどし)と称する正月六日の夜は、年越しの晩だというわけで、外部から侵入してくる厄病神などよからぬものを、カニのはさみで突っつき追いはらうのだという。
ちょうど、節分の夜に、ヒイラギとか、イワシの頭を、門口にさしこんで強い臭いをもって、厄病神、鬼の類を追いはらおうとしたのと似ている。
七草正月を迎えるにあたって、家も人も清らかに、無事息災であることを祈念する気持ちが濃かったのである。
一月にはいってから、最初のツメ切りは、この六日の夜ふろにつかってするという土地が多いのも、その意味である。
(『民俗歳時記』和歌森太郎 岩崎美術社 1970年) 春
江戸の七草
七草の由来
七草は七草の節供の略で、正月七日に七草粥を食べて一年中の無病を祈る行事です。
平安中期の『延喜式(えんぎしき)』には、米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・葟子(みの)・胡麻・小豆を材料とした七種(ななくさ)粥が正月十五日に供御(くご<天皇の召し上がり物>)とされことあり、春の七草を炊き込む正月七日の七草粥への変化は、室町前期までに起こったといいます。
『荊楚(けいそ)歳時記』には6世紀の中国で正月七日を人日(じんじつ)とよび、七種の菜で羹(あつもの<熱い汁物>)をつくる行事の記載があります。
また日本には古くから、正月の最初の子(ね)の日に野辺にでて若菜を摘んで羹にする「子の日の遊び」の行事がありました。
「子の日の遊び」を子の日ではなく七日の行事にするようになり、中国の人日の七種菜羹の影響もあって、七種粥が七草粥へ変化したと考えられています。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年) 七草粥
最近は七草粥をつくる家庭は少なくなりましたが、江戸時代には家々でつくられ『守貞謾稿(もりさだまんこう)』(1853)には次のようにあります。
「正月七日 今朝、三都(江戸・京都・大坂)ともに七種(ななくさ)の粥を食す。七草の歌に曰(いは)く、芹(せり)、なづな、ごげう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七種。以上を七草といふなり。しかれども、今世、民間には一、二種を加ふのみ、三都ともに六日に困民(貧しい人々)・小農ら市中に出て、これを売る。京坂にては売詞に曰く、吉慶のなづな、祝ひて一貫が買ふておくれ、といふ。一貫は、一銭をいふ戯言なり。江戸にては、なづななづなと呼び行くのみ。
三都ともに六日にこれを買ひ、同夜と七日暁と再度これをはやす。はやすといふは、俎(まないた)になづなを置き、その傍に薪・庖丁・火箸・磨子木(すりこぎ)・杓子・銅勺子(しゃくし)・菜箸等七具を添へ、歳徳人(としとくじん)の方に向ひ、まづ庖丁を取りて、俎板を拍ち囃子(はやし)て曰く、「唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬさきに、なづな七種、はやしてほとと」といふ。
江戸にて「唐土云々渡らぬさきに、七種なづな」といふ。残り六具を、次第にこれを取り、この語を繰り返し唱へはやす。京坂、このなづなに蕪菜(かぶら)を加へ粥を煮る。江戸にても、小松といふ村より出る菜を加へ煮る」。
七種の草をたたく時のはやし歌は、本来は作物の害鳥を追い払い、豊作を祈る鳥追いの行事の歌が、七草粥に結びついたものといわれています。江戸にて「唐土云々渡らぬさきに、七種なづな」といふ。残り六具を、次第にこれを取り、この語を繰り返し唱へはやす。京坂、このなづなに蕪菜(かぶら)を加へ粥を煮る。江戸にても、小松といふ村より出る菜を加へ煮る」。
図1は、江戸の年中行事や庶民の生活を書いた『江戸府内絵本風俗往来』の中の七種の記述の挿絵です。
「御台所掛りにては紋付小袖に麻上下を着し、遠土(とほど)の鳥の渡らぬ先より、恵方に向かひ若草を打ちはやす。ストトントン、戸々に響く」と書かれています。
(図1 七種の武家の台所『江戸府内絵本風俗往来』より:左の図) 七草の種類
七草粥に用いる七草の種類は、江戸時代には『守貞謾稿』にあるように、三都では現在と同じ七種でしたが、地方によって違いがあったようです。
文化10年(1813)ごろに、幕府の奥儒者屋代弘賢が諸藩に送った、その地方の年中行事についての問状に対する答が、昭和17年刊の『諸国風俗問状答』に収録されており、その中に七草についての項目もあります。
七草についての問状は次のようなものです。
「七草粥、菘(あをな)薺(なづな)芹(せり)など入候事通例、此外に何等の菜を用候哉(や)。七草をたゝく時、唐土の鳥といふ事を唱候は通例、此外にも有之候哉」。
この問状に対する答書の回収率はかなり低いものでしたが、次のようなものがあります。 越後長岡 「雪深き国なれば七種の菜もそろはず。有あふ品々もて祝ひ侍(はべ)りぬ。
唐土の鳥と唱候はおなじさま成べし。外に知る事侍らず」。
奥州白川 「家中(藩士)にては江戸とかはる事なし。町在にては薺 芹 蕪 ほんだはら つのまた こんぶ 串柿等入候て祝候由、其外は異成(ことなる)品不用候へ共、つのまた ほんだわら 昆布 くし柿等用ひ候は外に不承事に有之候。
尤(もつとも)七種はやし候は、唐土の鳥の外唱不申候」。
淡路(あわじ)国 「七種の粥作る事はなし。六日晩よりまな板に、薺 蘿匐(だいこん)など二種或三種をのせ、唐土の鳥といふ事を唱へ、摺子木、杓子等にて叩き、七日朝和合物にして神仏に供す。在方には七種を必揃へ用る所もあり。其中に嫁菜、蒲公英(たんぽぽ)などを入る也」。 このように江戸時代後期の諸国の七草は、一律のものではなく、七草粥をつくらない地方も多かったようです。
なお問状では七種粥の材料としてあげられている菘は、アオナ・タカナ・ツケナ・ウキナなどの読み方がありよくわかりませんが、図2(七草の種類『和漢三才図会』より:略)の蕪菁(かぶらな)に「あをな」ともありますので、図2は『和漢三才図会(ずえ)』から七草の図を並べたものです。
右側から、セリ(芹菜)・ナズナ(薺菜)・ゴギョウ(鼠麴・ハハコグサ)・ハコベ(鵞腸菜)・ホトケノザ(黄鵪菜・タビラコ)・スズナ(蕪菁・カブナ)・スズシロ(蘿匐・ダイコン)。 これらの七草には、健康への効能が認められていたようで、和歌の形式に本草書の『和歌食物本草』(1630)には次のようなものがあります。
「芹はただ甘く毒なし血を止(とど)め精を養ひ気力増す也」
「なづな根は目の痛みをぞ止むるもの汁もみ出して中へ入べし」
「ははこぐさ甘く平なり気を増して中を補ひ痰除くなり」
「かぶらなは人を肥やして健やかに五臓を利するものと知るべし」。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)妹のリハビリに迎えに行くと地震があって気持ち悪かったと話していたのですが
どういうわけか気がつかなかったのです???
「鳥取・島根で震度5強 近畿でも震度3など広い範囲で揺れ」(関西NHK)
「【専門家】今回の地震が起きた場所の特徴は?今後の見通しは?」(NHK)
「鳥取県 島根県 これまでの地震活動」
鳥取県の東部では1943年にマグニチュード7.2の地震が発生しました
その後、南海トラフ沿いの巨大地震が起きています。
今回も起きるとは限りませんが
「1944 東南海地震・1945 三河地震」(「防災情報のページ」内閣府)地震予知について誤った情報を平気で発信する方がいますが、日時、場所を特定する情報はアクセス数を増やすのが目的だと思います。
あとがき
小田原・東海・首都圏直下の大地震の「短期・直前予知」(およそ数日以内)ができるかどうかについて本文に書かなかったので、ここで簡単に触れておきたい。
一般論として、地震予知は難病の治療に似ている。
つまり、「地震の科学」のレベルは、すべての地震を基礎理論にもとづいて予知できるという状況から程遠いが、地震によっては予知できる可能性があることも否定できない。
東海地震はその一例である。
これにたいして首都圏直下地震の場所・規模・時を予知することはまず無理で、私が震災軽減のための国土政策を重視する所以である。
小田原地震は、学問的にも社会的にも、短期・直前予知の可能性を追求する絶好の対象だと思うが、敬遠されがちなのは残念なことである。
ただし、地震予知は多くの複雑な問題を抱えている。
関心のある方は、今秋日本地震学会から発売される「地震予知研究シンポジウム」論文集の拙稿やほかの論文をご覧いただきたい。
(『大地動乱の時代 地震学者は警告する』石橋克彦 岩波新書 1994年) 東京一極集中の是正にまで言及したのは地震研究者の守備範囲を越えているようでもあるが、そこまで言わなければ首都圏を襲う地震の深刻さが伝わらないのではないかと思う。
将来の地震について敢えてストーリーをはっきり書いた本書が、首都圏の地震問題に関する国民的議論に少しでも役立てば幸いである。
それと同時に、私の予測が当分実現しないで、その間に一極集中の是正が進み、災害の危険性が少しでも低減することを願っている。
なお、執筆にあたっては多くの研究成果や書物を参考にさせていただいたが、読み物としての流れを重視して、ほとんど出典や人名を記さなかった。
関係の方々に謝意を表しつつ、お断りしておく。
…後略…
(『大地動乱の時代 地震学者は警告する』石橋克彦 岩波新書 1994年)
「東京大学地震研究所 地震火山観測研究推進協議会」













