2026年1月10日土曜日

検査の後に野崎観音~野々宮神社(八幡宮)

来週、診察があるので事前に血液検査と尿検査を済ませて街歩きに出かけました。
参道を歩いているとマンホールの蓋に
これから訪ねるお寺にちなんだ図案が描かれていました。

河内名所圖會 巻六」(国書データベース)

『名所図会』で見る野崎参り」(文化デジタルライブラー)
いきなり急な石段が…
途中にベンチがあり休憩できるようになっています。
振り返ると…
石段は、お寺まで約150段あるそうです…
今日は、昨日までの寒さがウソのような穏やかな日和でした。
野崎観音(慈眼寺)まで来ると遠く大阪の町々が眼下に広がっています。
 福聚山 慈眼寺(野崎観音) 

 十一面観世音菩薩(平安中期)をご本尊とする、曹洞宗の禅寺です。
 行基菩薩を開山とし、古くから大阪の人々の信仰を多く集めてきました。
 ご本尊は白檀の一木彫りで身の丈は約130cm、一匹の龍が取り巻く台座の上に立っておられます。

 浄瑠璃や歌舞伎、落語の舞台としても登場し、昭和初期の『野崎小唄』で東海林太郎さんが「のざきまい~りは~、屋形船でまい~ろ♪」と歌い、広く全国に名を知られるようになりました。
 江戸から明治の頃までは屋形船に乗って、大阪天満橋の八軒屋浜から寝屋川を遡り、住道浜を経て野崎駅の南までお参りできました。
残念ながら当時の風景は歌の中だけになってしまいました。

 普段は御簾が掛けられていますが、お正月(元旦~18日)、のざきまいり(5月1日~8日)千日参り(7月9日)は開帳されお姿をしっかりとお参りすることができます。
いかめしいというより愛嬌があるなぁと思いました(^_-)
 賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ・ビンズルさん) 

お釈迦様のお弟子さんの一人です。
神通力を使って人を驚かせてしまったため、お釈迦様に本堂の外、人の手が届く所に座るように言われ、ここに座っていらっしゃいます。
 撫で仏としてご病気や痛い所、良くなりたいところを引き受けて治してくださいます。
 平成29年の台風で転んで大怪我を負い、長期療養されてましたが、多くの方々の篤いご寄進により、すっかり元気でお綺麗になって戻って来られました。
 その際、宝暦3年(1753年)産まれの260歳以上のご高齢であることも判りました。

[悪い所、痛み、病気を治してもらう]
 自分の身体を触る ⇒ ビンズルさんの身体を撫でる
[良い所、良くなりたい所をいただく]
 ビンズルさんの身体を撫でる ⇒ 自分の身体を触る
 西国三十三ヶ所 観音堂 

 西国観音霊場の観音様が一堂におまつりしてあります。
 当寺のご本尊『十一面観世音菩薩』を中心に、第一番の那智山青岸渡寺から第三十三番の谷汲山華厳寺まで計三十四体の観音様に一会でお参りすることができます。
 昔は交通手段もない上、社会的な制約もあり、一般の人々が西国三十三ヶ所観音霊場をお参りすることは、とても難しいことだったと思われます。
 そんな時代に、このお堂で三十三ヶ所すべての観音様にお参りできることは、現代の私たちが想像する以上にありがたい事だったのではないでしょうか。

 当寺のご本尊は「いねむり観音」とも呼ばれています。
 西国観音霊場を決める観音さんの集まりで居眠りをしていたため、目覚めた時には三十三番まで決まっており、入れてもらえなかったそうです。

 横の入口からお堂にお入りいただけます、どうぞ中に上がってお参りください。
鐘楼

本堂 境内諸堂案内」(野崎観音 慈眼寺)に

梵鐘は、宝永5年鋳造のもので「枚方住田中河内大目藤原家成」の銘があます。昔は「野崎の鐘のつきっ放し」と言われ、いつでも撞くことができましたが、現在は除夜の鐘やお寺の法要の時に撞かれています。
河内キリシタンを保護した三好長慶の菩提寺の一つ
四條畷の龍尾寺も「枚方住田中河内大目藤原家成」の銘があり
同じように十字が刻まれているそうです。

梵鐘の十字について知ったのは『野崎観音の謎  隠れキリシタンの寺か!?』を読んだからです。
病気をする前、飯盛山城跡などを山歩きをしました。
その時、野崎観音もお参りしました。

国史跡 飯盛城跡について」(四條畷市 文化財課)
 江口ノ君光相比丘尼(妙の君・きみさん) 

 平安時代、淀川の右岸(現東淀川区)江口の里にいらっしゃった白拍子(歌舞を演じる遊女)です。
 病を十一面観音様に治して頂いたお礼に当寺を再興されました。
その後、多くの女性の方々が江口の君にあやかろうと観音様にお参りされるようになりました。
 当寺の中興開基として君堂におまつりしております。
 子授け・病気平癒・身体健全など、様々な女性の願いをお聞きくださいます。

 ☆四月十四日は大祭が行われ、君堂で特別祈祷法要が厳修されます。
 お堂の周りを、『お百度まいり』することが出来ます。
 正面の箱から回る数だけ棒を取り時計回りにお堂を回ります。
回数は百回・数え歳、またはご自分の決めた回数で結構です。
多さにこだわらず丁寧にお参りください。
江口の君堂の絵馬

第66話 江口の君(遊女 妙)」(なにわ大坂をつくった100人)
  らかん堂・十六羅漢像

野崎観音の十六羅漢は、江戸時代から「のざきかんのん十六羅漢、うちの親父は働かん」と子どもの遊び唄にまで親しまれ、観音様と共に信仰を集めてきました
本堂 境内諸堂案内

賓頭盧尊者も中におられました(^_-)
お染久松の塚

新版歌祭文(しんぱんうたざいもん) 野崎村の段(のざきむらのだん)」(文化デジタルライブラリー)
オシャレでかわいい地蔵さま(^-^)
野崎観音 楽庵 無庵」で、
お抹茶と和菓子をいただきホッと一息(^_^)v
 南條神社 

祭神・牛頭天王(ごずてんのう)・素盞嗚命(すさのおのみこと)
  例大祭 10月20日 21日
  月正祭 毎月 1日 15日
当社は 宝塔神社に対して北の宮さん牛頭さんの呼称で親しまれ
野崎地区の氏神として厚く信仰される
明治5年から野崎 宝塔神社に一時合祀されたが
同13年には 野崎村村社として復活し現在に至る
牛頭天王は仏教における神将として怨霊や病魔を打ち払う
素盞嗚命は姉の天照大神の岩戸隠れ神話を生ませる程の荒ぶる神であり
病魔を退散させる神威ありとして尊崇される
このため平安期以降の神仏習合理論により牛頭天王と同一視されるようになった
京都・八坂神社に代表されるように牛頭天王をお祀りする神社は古く
当社も北條村に対し南條村を称した江戸期以前に南條(野崎)村の鎮守として牛頭天王社と呼ばれていたのであろう
石鳥居に「元禄」の銘が刻されていることから
この時期 「十七世紀末」に社域が整備されたと推定される
また 本殿前にある一対の木製狛犬(向かって左側の狛犬の頭に角があり 一角獣と呼ばれる狛犬に角があるもの程時代は古いと言われている)は極彩色が施され現在剥離ているが桃山時代の雰囲気を漂わせている
なお その台座の裏書きに「延享元年(一七四四)子年子九月十九日 天王宮野崎村」とある
  平成9年9月吉日
     南條神社氏子中
[付録]野崎まいりの案内ガイド
 隠れキリシタンと牛頭天王


 …前略…

 野崎観音にある南条神社には「牛頭天王宮」と記されている。
東高野街道の野崎観音に昇る道の角にも、「牛頭天王宮」と大きな石碑が立てられている。
街道筋を通るキリシタンにとってシグナルになっていたのではないか。
南条神社の前の石の鳥居の上に、「牛頭天王宮」と彫り込まれた石の額がある。
この額の中は「♡」で枠取りされている。
現代では「♡」は心や心臓を表す。
キリシタンの時代の人々にとってもそれは同じであったろう。
(『野崎観音の謎  隠れキリシタンの寺か!?』神田広大 文芸社 2008年)
 彼らにとって、野崎観音は牛頭天王(=十字架)が心に描かれた場所であったろう。
殉教者を偲ぶ野崎観音の祭礼に来た人々は、「からだを殺しても、魂を殺すことはできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ十章二十八節より)という、イエス・キリストの言葉を思い出したであろう。
向こうに見える八幡山で殉教した者は、肉体は土、埃となるとも、十字架の救いによって、ドチリナに「善人はゼズキリシトとともに終わる事なくアニマにも、色身にも天上の快楽を受け奉るべし」と書かれていたように、天国における永遠の生命に入れるという希望を抱いたであろう。
「♡」印をとがめる者があれば、「これは『猪の目』です」と言い逃れできるようになっている。
実際、「猪の目」はイノシシの目として使用されていたもので、特に問題はない。
しかし我々は「♡」印を見て「猪の目」を連想するであろうか。
むしろ、あの時代のキリシタンが思ったのと同じ思いで、牛頭天王宮の額のデザインを見るのではないだろうか。

 …後略…

(『野崎観音の謎  隠れキリシタンの寺か!?』神田広大 文芸社 2008年)

「猪の目」は朝ドラ「ばけばけ」でも松野勘右衛門(まつのかんえもん)が言っていましたね。
野崎駅に向かって参道を歩いているとお昼前になったので
中華そばをいただきました(^_^)v
見た目よりもあっさりして美味しかったです。
読んでいる本は『中華料理と日本人』(岩間一弘著)です。
読みはじめたばかりですので、後日、紹介したいと思います。
中華食堂 せっちゃん」(赤→)は、参道から入った路地にあったのですが、
作業服の人とか女性のグループなどで一杯でした。
店を出ると順番待ちの人たちもいました。
 第2章 野崎観音の謎
 謎のトライアングル
 野々宮神社


 JR野崎駅近くの外環状線の道路を西に入った大東市深野五丁目に、野々宮神社がある。
この目立たない小さな社の裏は、少し前までは広場であった。
さらに昔の写真を見ると、この一帯は畑で、ぽつんと小さな社が写っている。
現在は住宅が迫り、空地を少しだけ残すだけの小さな児童公園としてわずかに残っている。
神社というよりも祠(ほこら)と言った方がいいような社である。
木の鳥居と、キリシタン灯籠(とうろう)が一対置かれているだけで、この社に注意を払おうとする者はだれもいないようだ。
ここは昔、キリシタンが多数処刑された場所であったと言われている。
多くの殉教者を出したこの場所が、宣教師フロイスなどの文書にも書かれている「三箇大聖堂」――三箇キリシタンによって三回目に建てられた教会――があったところではないかと考えられている。
キリシタン遺跡と巡礼の旅――マップ・ガイドブック』(愛心館)では、「角堂(すみのどう<住道>)大聖堂」は恩智(おんち)川と寝屋川が交差している場所で、銀行の裏側の、大東市浜町の地蔵の社がある場所、と推測している。
(『野崎観音の謎  隠れキリシタンの寺か!?』神田広大 文芸社 2008年)
 私は大東市歴史資料室を尋ねてみたことがある。
「三箇の大聖堂があった場所は住道でしょうか。深野の野々宮神社のところでしょうか」と。
すると「深町五丁目も三箇に入っているところであり、昔は高野街道に近かったので野々宮神社の可能性はあるが、一方の住道は飯盛城下として三千人近くのキリシタンが集まるにはあまりにも田舎で不便すぎるのではないか」と歴史資料室の方が教えてくださり、私の意見と一致した。
 現在のJR「住道(すみのどう)」駅名の名が付けられている大東市周辺の地名は、江戸時代には「角堂」と書いて「すみのどう」と呼ばれていた。
これは尖った三角の屋根がそびえていた三箇教会堂から名付けられたと考えられている。
『大東市史』にも「現在の浜町にあたる『角堂』の地名の起こりを、この教会に求める説も唱えられている」と記されている。
 キリシタン弾圧が始まると、最初に迫害の標的になったのが教会堂であり、キリシタンを処刑する時は、見せしめのために彼らにとって最も聖なる場所が選ばれた。
特に、破壊された教会堂の跡地で処刑される場合が多かった。
また、普段から仕置き場として使っていた処刑場でも、多くのキリシタンが処刑され、殉教した。
 隣接する四條畷市の砂(すな)には、ロレンソ了斎を飯盛城に招いた結城左衛門尉の結城一族が建てた美しい教会堂があった。
秀吉の大坂城築城の際、この近畿で最も美しかった砂の教会堂を大坂城に移築し、大坂城教会として、秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」が出されるまで利用されてきた。
しかし、徳川のキリシタン大迫害の時には、聖なる場所であった砂の教会堂の跡地が信徒の処刑場とされた。
四百年を経た今日でも、少し前までは古老が「この周囲を掘れば骨がいくらでも出る」と伝えていたそうである。(『四條畷市史』四條畷市史編纂室・編より)

 …後略…

(『野崎観音の謎  隠れキリシタンの寺か!?』神田広大 文芸社 2008年)

「野々宮神社」(八幡宮)は、「わかたけこどもえん」の向かいにあります。

2 件のコメント:

  1. おはようございます~

    香里園に住んでいた頃に、一度は野崎参りをと思っていたままに
    引っ越してしまいました~。
    150段もの石段があったのですね。
    野崎観音からの大阪の風景を眺めてみたかったです。
    おかげさまで野崎観音にお参りしたかった当時を懐かしく思い出しました。

    せっちゃんの中華そばとても美味しそうです。
    人気があるのがわかります。(#^.^#)

    Kazeさん~
    本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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    1. カイさんおはようございます

      >おかげさまで野崎観音にお参りしたかった当時を懐かしく思い出しました。

      先日、芸能きわみ堂「名作の地を訪ねて 大阪・江口」(11月28日)を見ていて野崎観音が出てきたときに
      懐かしくて訪ねたくなりました。
      石段の途中にベンチがあり休憩できます。

      せっちゃんの中華そばは、地元の人に愛されている店だなと思いました(^_^)v

      カイさん
      本年もどうぞよろしくお願いします(^^)/

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