2023年9月29日金曜日

秋晴れ

青空広がり日ざしが眩しいのですが
いつもの蒸し暑さでなくカラッとしていました。
暑い日が続いた影響かな?
歩いているとよく目についたのが

カメムシ大量発生 県全域に注意報 農家に薬剤散布など対策を」(和歌山NHK 9月28日)

カメムシの悪臭の本体は不飽和のアルデヒド類で
瓶に入れて密閉すると自分が発した匂いで死ぬのだそうです。
カメムシのにおい」(虫の雑学 JATAFF)
久しぶりによかったなぁと思える判決がでました。
水俣病訴訟 救済策の対象外の原告全員を水俣病と認定 大阪地裁」(NHK 9月27日)

大阪地裁で水俣病認定判決 原告らが国に早期救済の要望書提出」(関西NHK 9月28日)

一方
判決には、怒りを感じます。
対馬市長の
“核のごみ” 処分地調査受け入れず 長崎 対馬市長が表明」(NHK 9月27日)
賛成派からいろんな意見がでているようですが
素人の考えでは、安全だというなら東京や大阪に処分地を設置したらいいと思う。
電力を大量に消費しているのは東京や大阪など大都市なんだから
さらに言えば、原発の敷地内に設置することができるはず
原発の設置場所には、事前調査で活断層などがないと判断されている。
  阪神大震災の後から活断層が多く発見されていることからみても、活断層がどれだけの確実さで発見されうるかについても大いに疑問が残るところで、「活断層がない所」が選ばれているというより、「活断層がまだ知られていない所」という方が正しい。
(『高木仁三郎セレクション』佐高信、中里英章 編 岩波現代文庫 2012年)
第1章 巨大エネルギーの「光と影」――核兵器と原発の密接な関係
 対立した正力松太郎と湯川秀樹


 一方、第五福竜丸事件と同じ年、1954年3月には、日本で初めての原子力研究開発予算(2億3500万円)が国会に提出され成立した。
その前年アイゼンハワー米大統領の「平和のための原子力」演説と、その後の原子力普及政策に呼応した動きであった。
ここから国策先行の日本の原子力開発の歴史が始まったといってよいだろう。
(『核兵器と原発 日本が抱える「核」のジレンマ』鈴木達治郎 講談社現代新書 2017年)
 これに対して、拙速な政府の対応に危機感を感じた日本学術会議が、1954年4月23日、「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」を発表した。

 「わが国において原子兵器に関する研究を行わないのは勿論外国の原子兵器と関連ある一切の研究を行ってはならないとの堅い決意をもっている。
  われわれは、この精神を保障するための原則として、まず原子力の研究と利用に関する一切の情報が完全に公開され、国民に周知されることを要求する。……真に民主的な運営によつて、わが国の原子力研究が行われることを要求する。……日本国民の自主性ある運営の下に行われるべきことを要求する」
 この「自主・民主・公開」の3原則はその後、1955年に成立する原子力基本法に組み込まれた。
原子力基本法第2条(基本方針)には、以下のように記されている。

 「原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力にに資するものとする」
 原子力基本法に基づき、米国の原子力委員会に倣って、1956年、日本にも総理府の附属機関として「原子力委員会」が設立され、その後長い間、日本の原子力政策の司令塔として、大きな役割を果たすことになる。
 その初代委員長には当時科学技術庁長官だった正力松太郎氏、委員には湯川秀樹博士らが就任した(写真4<省略>)。
ところが、「海外からの技術導入」により「早期実用化」をめざす正力委員長に対し、「自主・民主・公開」の原則に基づいて自主技術開発を訴える湯川委員が対立した結果、湯川委員は設立からわずか1年後の1957年に辞任している。
 正力委員長の路線に従い、日本の原子力発電開発はまず米国から導入された動力試験炉JPDRから始まった。
その際、供給国である米国と被供給国である日本との間に「原子力平和利用協力協定」が締結された。
この日米原子力協定こそが、平和利用の担保を確保するものであり、米国の核不拡散政策の重要な一部をなすものであった。
 その後、日本初の商業原子炉となる、イギリスの黒鉛ガス炉が東海第一発電所に導入され、1966年7月に運転を開始。
この頃から各電力会社では米国が開発した軽水炉の導入計画がはじまり、その第1号機が1970年11月に運転を開始した関西電力の美浜発電所1号(加圧水型軽水炉)だった。
発電した電気は大阪万博にも供給された。
 東京電力はその1年遅れの1971年3月、福島県大熊町の福島第一原子力発電所(沸騰水型軽水炉)の運転を開始し、日本に本格的な商業用原子力発電所の幕が開いた。
その福島第一原発が、2011年3月11日の大震災で炉心溶融事故を起こして、日本の原子力開発に大きな転機を再び生み出すことになるとは、歴史とはなんと因果なものなのだろう。
(『核兵器と原発 日本が抱える「核」のジレンマ』鈴木達治郎 講談社現代新書 2017年)
 今日は、リハビリ散歩を短めにして父を病院へ送りました。
7回目の新型コロナワクチンの接種です。
私も接種券が届いたらかかりつけの病院に申し込む予定です。
父が接種を受けた病院は、子どもを診てくれるます。
患者さんが多くて外で待っている人もいました。

大阪 インフルエンザ患者増加続く 小児科は対応に追われる」(関西NHK 9月28日)