公園に着くと雨
あわてて傘をさしたけどすぐに止みました。
涼しくなるかと思うと風がなく蒸し暑い(;´Д`)
帰るころに風が強くなったので雨が降るかなと思って早めに帰りました。
「東北と西日本で今夜 東日本であすにかけ 激しい雨のおそれ」(NHK)雨が降りそうだったので50mmのマクロレンズで出かけました。
40年以上前に高山植物を写したくて購入しました。
カメラの本体は2016年10月に中古で購入(23000円)。
壊れてしまっていてカバーを何処かに落としてしまった(T_T)
修理対応期間も過ぎているので使える間は……こころの時代~宗教・人生~「医師と禅僧 生と死をめぐる対話」
元国立がんセンターの総長で、現在は日本対がん協会会長を務める垣添忠生さんと
7歳の時に母をがんで亡くし、禅の道に入った禅僧、ネルケ無方さんとの語り合い。
再放送が9月23日(土) 午後1:00からあります。昨日、彼岸入りしました。
こんな伝説が四天王寺にはあります。
天王寺彼岸紀元
釈迦如来転法輪処
当極楽土東門中心
聖徳太子(厩戸<うまやど>の前で御母御産の気あり、よってはじめ厩戸皇子と名づける)は、こう心に念じて、四天王寺西大門の前に立たれました。
(『日本の伝説 京都・大阪・奈良』藤沢衛彦 河出書房新社 2018年) 欽明天皇の朝、仏教渡来について、崇仏・排仏の二派反目抗争し、ついに戦いにまで進展した時、聖徳太子は、四天王に祈願を発し、幸いに崇仏派の勝に期した時、〝勝たば一寺建立〟の誓いをはたすため、欽明天皇の2年(630年)難波玉造の岸(大阪市南区天王寺元町)に四天王寺(荒陵山敬田院)を建てられました。
今日は、めぐり来る初の彼岸というので、来て見ると、果して、彼岸中日(秋分の日)の大日(だいにち<太陽>)は、西大門の真中に沈んでゆきます。 そこには、もう、だんだんに集った仏教信仰の人々が、真西に向いている西大門のはるかむこうに、真紅に染った雲や、金色の太陽の、うつくしい景色をながめています。
人々は真剣な心で、
「聖徳太子さまは、お釈迦さまが、わたくしたちの幸福(しあわせ)な国は、西の方にある、それを、極楽浄土というと、おっしゃったことについて、お導きくだされたが、きっと、それは、あすこにちがいない」
といって、四天王寺の西の門のはるかむこうの西の空に沈んでゆく、太陽をおがみました。 これをごらんになった聖徳太子は、
「そうだ、みんなが、あんなに幸福になりたいのだ。お釈迦さまの教えは、今日の太陽のように、右にも、左にも、かたよらない、正しい道なのだから、この日にちなみ、ほんとうに正しい御仏の御教えをひろめることにしよう」
と、お考えになって、この日から、いわゆる彼岸といういことをおはじめになりました。 彼岸といういみは、もと、梵語(ぼんご)の波羅蜜(はらみつ)の訳語で、仏教では菩薩の修行の意(こころ)、到彼岸(とうひがん<ひがんにいたる>)の略語で、つまり、生と死との区別をあらわしたものです。
それは、生はこちらの岸、死はあちらの岸というわけで、此岸は、なやみの多い現世(このよ)、あのよの彼岸は、死後(しんだのち)ゆかねばならない。
西方にあるという極楽浄土をいったものです。
つまり、人々の生存する現実の世界に対して、はるか、西のかなたにある理想の世界、極楽浄土をいったものです。
〝この岸は、あまりにも小さな自我にとらわれすぎる。あまりにも貪欲と愛欲と怒りと愚痴に惑乱されすぎている。諸悪から解脱することは容易でない。しかし、この実相のままに、煩悩のなかに、菩薩を実践しうるものが、覚者(さとるもの)の彼岸でなければならない。つまり、此岸は同時に彼岸である〟
と、豊聴耳(とよのききみ)の法(のり)の王(きみ)である聖徳太子は覚られても、凡人には『観無量寿経』のなかの、浄土の荘厳を観わけることができません。
浄土は十万世界に遍在する道理ではありますが、生命と智恵の限りある凡人には、一定の方向と距離が指示された方が落ちつきやすい。
それで、〝西方十万億土を過ぎると極楽がある〟、一年両度の春秋彼岸の中日の太陽のまさに地平線上はるか彼方に落ち沈もうとするを眺めて、平常(ふだん)と異なる想念(おもい)を感得せしめようと、聖徳太子は、四天王寺の西門に沈んでゆく太陽を拝ましたのです。 それで、本当は、ご先祖の墓まいりということが、彼岸の行事の中心ではなく、聖徳太子の彼岸を拝ませたはじめは、死んだのち、極楽浄土にゆかれるように、四天王寺の西門に人々を集めたものが、後一定のお寺で行われる〝彼岸会〟(修行)にお参りすることとなり、ずっとのち、だんだんに、じぶんのご先祖のまつってある菩提寺へ、おまいりするようになったのが、彼岸まいりというものなのでした。
…つづく…
(『日本の伝説 京都・大阪・奈良』藤沢衛彦 河出書房新社 2018年)
「四天王寺と聖徳太子 仏教思想の実践の場」(NHK みちしる 2000年)今朝の父の一枚です(^^)/
ヒガンバナが一気に咲き出したなと話していました。
9月19日が正岡子規の命日(糸瓜忌)でした(松山市立子規記念博物館)。
彼岸の菓子といえば「牡丹餅・おはぎ」ですね。
第7章 我、菓子を愛す
正岡子規と牡丹餅――彼岸のお見舞いに
…前略…
そのような子規の姿を見てか、知人や弟子たちも食べ物を持参することがありました。
明治34年9月24日の秋分には、勤めていた日本新聞社の社主・陸羯南(くがかつなん)が自家製の「牡丹餅」を持って見舞いに訪れます。
子規は昼に「お萩(はぎ)一、二ヶ」食べていたのですが、もらった牡丹餅はおやつにし、陸にはお返しとして菓子屋に作らせた牡丹餅を渡しています。
当時、彼岸の牡丹餅は自家製が一般的でした。
正岡家でもかつては作っていたものの、子規が病に臥(ふ)してからは菓子屋に頼むようになったようです。
日記には「菓子屋に誂(あつら)へるは宜(よろ)しからぬことなり、されど衛生的にいはば病人の内で拵(こしら)へたるより誂へる方宜しきか」と書く一方、牡丹餅を贈ったりもらったりすることを「馬鹿なことなり」としています。
とはいえ、しっかり食べて、俳句を三つも残しているのですから、本当はとても嬉しかったのでしょう。
お萩くばる彼岸の使(つかい)行き逢(あ)ひぬ
梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな
餅の名や秋の彼岸は萩にこそ
(『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫 山川出版社 2017年)