風がなくて蒸し暑かったです(;´Д`)
「厳しい残暑 猛暑日予想も 群馬と沖縄本島に熱中症警戒アラート」(NHK)
「立つ女たち~女性議員15%の国で」(NHK 見逃し配信は25日まで)
朝、準備をしながらチラッと見ていた番組。
録画予約していたので、帰宅後、改めてみました。
二人の行動が地域を変える力になってほしいと思いました。
新たな市川房枝さんだなとも思いました。
〝「市川房枝」ってどんな人なの?〟(市川房枝記念会 女性と政治センター)
今日は、「敬老の日」私も古稀を迎えたので(^^ゞ
うばすて山
――大分県直入郡――
昔は年よりになって、何も出けんようになると、もっこに入れて山へふて(棄<す>て)に行く時代があったんと。
これもそん時代の話じゃけんど、あるところに婆(ばあ)さんがあった。
子供と孫が婆さんをもっこに入れて、山へふてに行きよった。
そしたら婆さんがもっこの中から、草を丸めちゃ道に投げすてた。
そんじゃき、子供の人が「かかさん、かかさん。何しよるんな」とたずねた。
そしたら「こりゃなあ、お前たちが帰るとき、道をまちごうちゃいかんき、目標(めじるし)をおいちょくんじゃ」といったけれども、それはそのままにして山に行って婆さんをすててしまった。
(『一寸法師・さるかに合戦・浦島太郎』関敬吾編 岩波文庫 1957年)そしたら孫になる人が「お父っつぁん、お父っつぁん、こんもっこはもっち帰ろうへ」
「どうしちそげんこというな。もうこりゃいらんじゃねな」といったそうだ。
そしたらまた孫が「そげいうてん、またお前が年とったらふてえ(棄てて)来(こ)んならんきな」といった。
そしたらお父っつぁんも、「ああ、こりゃ俺がわるかった。年よりをふてるとまた自分もふてられんならん」と思って、また年より婆さんを、つれて帰って大事にしたということである。
(『一寸法師・さるかに合戦・浦島太郎』関敬吾編 岩波文庫 1957年)姥捨て山の話は各地にありますが、八丈島では…
人捨ヤア
おおむかしの話でおじゃる。
八丈島では、五十になると伊郷名(いごうな)にある人捨ヤア(あな)に捨てられることになっていました。
これは島に大風や、干ばつが多いため食物が不足し、皆が生きていくことができなかったからです。
そのころ、ヤクナ、トコラ、カズラフジの根、アシタバの根などが島人の食物でした。
(『[新版]日本の民話 40 八丈島の民話』浅沼良次編 未来社 2016年) 捨てられた人は、食べるものがないので数日のうちに、このヤアの中で餓死するのでした。
なかには親孝行な者がいて、食物を運んではならないオキテを破り、夜こっそり「ミヤダマ」といって、山芋をウシヨ(海水)で煮たものを、スニヤゴ(竹でつくったカゴ)にウラジロの葉をしいて入れ、人捨ヤアに捨てられた親のもとに持って行き、食べさせるのでした。
そのころ、この島に悪い代官がいて、ことごとに島人をしいたげるのでした。
ある日のこと、代官が道を歩いているとき、おじぎをしなかったという理由で、一人の五十近い百姓をとらえ、切り捨てようとしました。
百姓の妻が泣きながら、
「ワギイ(うち)の人は、人捨ヤアに捨てられるまで、あと幾年もおじゃらないから、それまで命を助けてたもうれ」
とたのみました。 代官は許そうとしませんでしたから、百姓も観念して、ミザ(土)の上に坐り、静に目をつむって両手をあわせました。
さすがに悪代官も、その神妙な様子にうたれて、そくざに斬り殺すことが出来なくなり、その百姓に、
「縄を五十尋(ひろ)ない、その縄を焼いても灰にならなければ許してやる」
と無理なことをいいつけました。 百姓は黙ったままで、いいつけられたとおり、縄を五十尋ない、椿油をかけて、火で焼きました。
すると、どうしたことでようか、縄は焼けても灰にならず残りました。
これを見ていた代官をはじめ、多数の人々は驚きました。 「それでは今度はホラ貝に糸をとおしてみろ」
といいつけました。
百姓はホラ貝の口をつけるところに、椿の花からとった蜜を流しこみました。
そしてヒヤシメ(蟻)の細い胴に糸をゆわえつけ、ホラ貝の先から中に放してやりました。
ヒヤシメは椿の蜜のにおいを、さがしもとめてホラ貝の中をとおりぬけ、無事に糸はとおりました。 そこで代官もすっかり感心して、
「年よりは立派なホジ(智恵)を持っている。今からは年よりを人捨ヤアに捨てるな」
と島中へ布令(ふれ)を出しました。
こうしたわけで、島の人が年よりを人捨ヤアに捨てなくなったのは、今から数百年前のことだといわれています。
原話 樫立 佐藤さとる(71)
(『[新版]日本の民話 40 八丈島の民話』浅沼良次編 未来社 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)/
キジバトの声、私には「チュウチュウ(ちょっと) ヨッテコイ」に聞こえるのですが(^_-)
へそ曲りの鳩
昔、鳩の親子がありました。
親の方はおひとよしでした。
子の太郎吉はそれをいいことにして、いつも親の言いつけを、まともに受けませんでした。
ある日、
「太郎吉や、たきもんなないがになったさかい、今日ぁ山へ行ってきてくれや」
と親が言いました。
すると、太郎吉はほっぺたをおたふくみたいにふくらませて、返事がわりに、大きなおならを、プーッとぶっぱなし、山へ行かずに田んぼへ行って、雀といっしょに遊びました。
雀はいい気になって、稲の穂をつつきました。
親は腹をたてましたが、根がおひとよしだから、二、三日たつと、また言いました。
「太郎吉や、今日ぁ天気がいいさかい、田んぼへ行って、雀の番をしてきてくれや。」
太郎吉は相変らず、ほっぺたをおたふくみたいにふくらませて、大きなおならをぶっぱなしました。
太郎吉は田んぼへ行かず、畑へ行って、キュウリをたらふく食べてあそびました。
親は腹をたてて、四、五日一言も口をききませんでした。
それを、太郎吉はいいことにして、いつまでたっても、親の言うことを素直に聞きませんでした。
つむじまがりをテテッポッポというのも、これからおこったそうです。
そんなわけでしたから、親は心配のあまり、重病にとりつかれました。
いよいよ臨終だというとき、親は太郎吉を枕もとに寄せて言いました。
「太郎吉や、とうとぁ死んだら、川土堤へ埋めてくれや。」
こう頼めば、へそまがりのことだから、山へ埋めてくれるだろうと思ったのでした。
ところが、親があの世へ行ったとたんに、太郎吉の心がさめたのです。
「申しわけないことをした。」
太郎吉はそう思ったから、遺言どおりに親の亡骸(なきがら)を川土堤へ埋めました。
すると、にわかに空が雨模様になってきました。
雨が降れば川土堤に埋めてあるお父さんの亡骸が大水のために押し流されます。
太郎吉はそれが心配で
テテッポッポ オヤガコイシイ(とうとが恋しい、流れないでくれ)
となくのでした。
今でも、鳩がこんなふうになくのも、そんないわれがあるかだといいます。
鹿島郡誌
(『日本の民話12加賀・能登・若狭・越前篇』清酒時男、杉原丈夫、石崎直義編 未来社 昭和51年)