2021年7月23日金曜日

今朝も暑い…

天気予報で、今日も厳しい暑さだと…
公園の温度計を見ると9時前に30度になっていた…

そんな中で元気なのはクマゼミたち!
クマゼミたちは朝が早い
そのうえ声が大きい(^^;

近畿地方 厳しい暑さ続く 午後は大気の状態不安定に」(関西NHK)

 昨日の番組 映像の世紀プレミアム(15)「東京 夢と幻想の1964年」で
1964年の東京オリンピックが特集されていました。
見逃し配信期限、7月29日 午前11:34 まで
さまざまな困難を克服し、大きな感動を残した東京オリンピック。
聖火ランナーが、当時、日の丸を掲げることができなかった沖縄を走る姿も写されていました。

……
田畑は聖火の最終ランナーに東京が世界に放つメッセージを託し
選ばれたのは19歳の若者。坂井義則。
昭和20年8月6日。
原爆が投下された、その日に広島で生まれていた。

田畑政治の回顧録より)
坂井君が最終ランナーであることが、アメリカに悪感情を与えるとの批判も一部にあったようだが、
われわれが憎むのはアメリカではなく、原爆そのものである。
アメリカにおもねるために
原爆に対する憎しみを口にしえない者は
世界平和に背を向けるひきょう者である。
番組の最後に

(オリンピック閉会の)2日後、東龍太郎東京都知事は記者会見を開き、今後の都政についてこう語った。

東龍太郎都知事)
オリンピック関連事業と申しまして、今日まで進めて参りました事業
その裏には多少の不均衡があるとか、あるいはまた、ひずみであるとか
あることも事実でございます。
したがいましてそういう風なものを出来る限り
是正をして参りたい…


そして記者団にこう漏らした。
「何かいい目標はないかね」
……
オリンピックが過ぎると景気は一気に冷え込んだ。
建設ブームが去り下請けなどの経営が悪化。
企業の倒産件数は前の年の2倍半に上った。
ここは東京下町にある国民金融公庫。
年末が近づくにつれて窓口には、資金繰りに苦しむ中小企業経営者の姿が目立ち始めた。
……
町工場の経営者は不況と人手不足の板挟みでもがいていた。
……
(映像の世紀プレミアム(15)「東京 夢と幻想の1964年」より)
今回の東京オリンピック・パラリンピックが終わった後、どんな悲惨な状況がおきるのか?

2020年10月10日の記事で紹介した「祭りのあとの空しさ」に、
 ……
 オリンピックは東京都政をかけた起死回生策(きしかいせいさく)であったがはずだが、祭りのあとの反動は深刻であった。
集中的な建設投資の反動もあって、オリンピック不況といわれるような景気後退がはじまった。
1964、65年と、山陽特殊鋼など倒産が続出し、山一証券が日銀の救済融資ををうけねばならなかった。
オリンピックでテレビ業界は活況を呈するかにみえたが、消費財一巡説が出るほど家庭電器の需要が落ち、オリンピック後の電機業界は不況においちった。
社会心理学者の石川弘義は、経営学ブーム時代には考えられなかった悲劇の経営者の続出などを総称して、この時期を「落ちた偶像の時代」と名づけている。
……
(『昭和の歴史第10巻 経済大国』宮本憲一 小学館 1983年)

今回は、これに新型コロナの感染爆発も加わるのですから…
 田中均さんのTwitterに

女性蔑視、障害者いじめ、ホロコーストいじりについて五輪関係者が辞任・解任されているが、
本質的な問題は弱者に対する思いやりが徹底してない社会にあるのではないか。
私たち自身が、このような問題をいい加減に済ませない、という認識を新たにしていかなければならない。


朝刊を見てビックリしたのだけど…

江川紹子さんのTwitterに

この時期、こういう話が「検討」されているというだけで驚きを禁じ得ない 
森元首相に「名誉最高顧問」就任案 五輪組織委が検討〟(朝日新聞)


今朝の「折々のことば」(鷲田清一)にジョン・スチュアート・ミルの言葉が紹介されていました。

 人はその行動によってのみならず、行動せぬことによっても他人に対して害悪を与えうる
                    
 明白な不正や差別を目にしつつも、その兆しに気づいても、
声を上げずにいることが結果としてそれらを後押しし、
より大きな災禍を招くという例を、私たちはこれまで何度も目にしてきた。……
…19世紀英国の哲学者の『自由論』(早坂忠訳)から。
吾亦紅

 机


 私の使つてゐる机は、――机ではなく実は箱なのだが、下に石油箱を横たへ、その上に木製の洋服箱を重ね、書きものをする高さに調節してゐる訳なのだが、この上の方の軽い箱には蓋も附いてゐて、それが押匣の代用にもなり、原稿用紙や鳥渡したものを容れておくのに便利だ。
もともと、これは洋服箱ではなく、実は妻が嫁入する時持つて来たもので、中には彼女が拵へた繻子の袱紗や、水引の飾りものが容れてあつた。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
  私は昨年の二月、千葉の家を引上げ、郷里の兄の許に移ると、土蔵の中で、この箱を見つけた。
妻が嫁ぐとき持つて来た品々は、まだその土蔵の長持の中に呼吸づいてゐて、それが私の嘆きを新たにした。
警報がよく出てあはただしい頃ではあつたが、私は時折、土蔵の二階へ行つて、女学生の頃使用してゐたものらしい物尺や筆入などを眺めた。
はじめて島田を結つたとき使つたきり、そのまま埋没されてゐた頭の飾りも出来て来た。
私は刺繍の袱紗の上に、綺麗な櫛など飾つて四五日眺め、やがて一纏めにすると妻の郷里へ送り届けた。
それから空箱になつた木の箱には、私の夏の洋服やシヤツを詰めて、田舎の方へ疎開させておいた。
 原子爆弾のため、広島の家は灰燼に帰し、久しく私が使用してゐた机も本箱も、みんな喪はれた。
だが、八幡村へ疎開させておいた洋服箱は無事であつた。
私は八幡村の農家の二階で、この箱を机の代用にすることを思ひつき、そこで半歳あまり、ものを書くのに堪へて来た。
昭和廿一年三月、私は東京の友人のところへ下宿することに決心したが、荷物を送り出すについて、この箱が一番気にかかつた。
薄い板で出来てゐる箱ゆゑ、もしかすると途中で壊れてしまひさうだし、それかといつて、どうしても諦めてしまふことは出来なかつた。
私は材木屋で枠になりさうな板を買ふと、奮然としてその箱に枠を拵へた。
自分ながら驚くべき奮闘であつたが、やがて、その箱は他の荷物と一緒に無事で友人の許に届いてゐた。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく…