2021年7月17日土曜日

梅雨が明けて…

青空が広がっていました。
それでも涼しい風が吹いていたので助かりました。
途中で、なんか空に黒い雲がみえて雷がなっているような(耳が悪いので…)
昨日まで雷や激しい雨がふっていたので無理をせずに早目に帰りました。
梅雨が明けて一番助かるのは洗濯物が早く乾くこと。

近畿地方が梅雨明け 各地で真夏日 熱中症に注意を」(関西NHK)

【熱中症】対策のポイントと応急処置の方法は?」(NHK)
雷がなるとよく言われたのが

Q 「神様にへそを取られる」の由来、知っていますか?

 そういえば、「雷が鳴ったら、へそを隠せ」ということわざ。
これは、ある面では正解かもしれません。
へそを隠すポーズを思い出してください。
おなかに両手をしっかりと当てますね。
本当に雷様にへそを取られるから、というわけではありませんが、雷が鳴る時、特に夏の夕立の場合には、一緒に激しい雨を伴うことが多いので、その際に急激に気温が下がる場合が多くあります。
そんな時、もし小さなお子さんがおなかを出したまま遊び回っていたり、寝ていたりすると……。
(『仕事で得する天気の雑学』片平敦 いろは出版 2015年)
  そう、おなかが冷えてしまい、体調を崩してしまうかもしれません。
そんな心配をした昔のお父さんお母さんが、「雷様にへそを取られちゃうよ!」と怖がらせて、おなかを冷やさないようにさせたという話もあるのです。
(後略)
(『仕事で得する天気の雑学』片平敦 いろは出版 2015年)
吾亦紅

   カナリヤ

 
 カナリヤを飼ひはじめたのは、昭和十一年の終頃からだつた。
ふと妻が思ひついて、私たちはある夜、巷の小鳥屋を訪れた。
そこには、小鳥のやうに、しなやかな、心の底まで快活さうな細君がゐて、二羽のカナリヤを撰んでくれた。
最初から、その女は私の印象にのこつたが、妻もほぼ同様であつたらしい。
その後、妻は餌を買ひにそこへ行くにつけ、小鳥屋の細君のことを口にするやうになつた。
どうして、あんなに身も魂も軽さうに生きてゐられるのだらうか、小鳥など相手に暮してゐると自然さうなるのだらうか、と私の妻はその女の姿を羨しがるのであつた。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
 さて、翌日カナリヤの箱が届けられると、それからは毎朝妻がその世話を焼くのであつた。
新しい新聞紙を箱の底に敷きかへて、青い菜つぱと水をやると、縁側の空気まで清々しくなる。
妻は気持よささうにそれを眺めた。
 春さきになると、雌はよく水を浴びるやうになつたが、雄の方はひどくぎこちない姿で泊木に蹲つたまま、てんで水など浴びようとしなかつた。
それを妻は頻りに気にするやうになつてゐた。
と、ある朝、この雄は泊木から墜ちて死んでゐた。
 その後、一年あまりは残された雌だけを飼ひつづけた。
この雌は箱の中から、遠くに見える空の小鳥の姿を認めて、微妙な身悶えをすることがあつた。
私たちが四五日家をあけなければならなかつた時、餌と水を沢山あてがつておいた。
帰つて来て早速玄関の箱の中を覗くと、このカナリヤは無事で動き廻つてゐた。
 ある秋の夜、妻は一羽の雄をボール函に入れて戻つて来た。
ボール函から木の箱へ移すと、二三度飛び廻つたかとおもふと、咽喉をふるはせて囀りだした。
電燈の光の下で囀る雄と、それを凝と聴きとれてゐる雌の姿はまことにみごとであつた。
こんどの雄は些も危な気がなかつた。
産卵期が近づくと、棉を喰ひちぎつて巣に持運んで行く雌を、傍からせつせと手助けするのであつた。
やがて、卵はかへつたが、どれも育たなかつた。
梅雨の頃、三羽の雛が生れこんどは揃つて育ちさうであつた。
が、母親がぽつくり死んでしまつた。
すると、残された雄が母親がはりになり、せつせと餌を運んでは、巧みに仔を育てて行つた。
雛はみな無事に生長して行つた。
一羽の雛はもう囀りを覚えはじめ、わけても愛らしく頼もしかつた。
  ある日、カナリヤの箱を猫が襲つた。
気がついた時には、金網がはづされてをり、箱の中は空であつた。
が、庭の塀の上に雄のカナリヤと二羽の雛がゐた。
この父親は仔をつれて、すぐに箱の中へ戻つて来た。
だが、一羽の一番愛らしかつた雛は、父に随はず、勝手に黐木の梢の方を飛び廻つてゐた。
「あ、あそこにゐるのに」と妻は夢中で空をふり仰いでゐた。
カナリヤは屋根に移り、そこで、しばらく娯しさうに囀つてゐた。
その声がだんだん遠ざかり、遂に聞えなくなるまで、妻は外に佇んでゐた。
やがて、ぐつたりして妻は家に戻つて来た。
耳はまだあの囀りのあとを追ひ、その眼は無限のなかに彷徨つてゐるやうで、絶え入るばかりの烈しいものが、妻の貌に疼いてゐた。
妻が発病したのは、それから間もなくであつた。
  二羽のカナリヤは無事に育つて行つたが、翌年の春になると、父親と喧嘩して騒々しいので、とうとう父親だけを残して、出入の魚屋に呉れてやつた。
残された雄は相変らずよく囀つた。
春も夏も秋も、療養の妻の椅子のかたはらに、ぽつんと置かれてゐた。
カナリヤは孤独に馴れ、ひとり囀りを娯しんでゐるやうにおもへた。
このカナリヤが死んだのは昭和十八年の暮で、妻が医大に入院してゐる時のことであつた。
数へてみると、妻がそれ買つて帰つた時からでも、五年間生きてゐたことになる。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)