2021年7月4日日曜日

雨でぬれるよりも…

歩いているとポツポツ雨が降って傘をさしたりしたのですが
雨よりも汗でぼとぼとになりました。
大阪は、小雨ですが
静岡では2次災害の危険のなか救助作業が続いていますし
熊本や広島では…

熊本の豪雨災害から1年 各地で追悼式」(NHK)

西日本豪雨3年を前に追悼式 広島 坂町 災害関連死含む20人犠牲」(NHK)
半夏水(はんげすい)
 「半夏生(はんげしょう)」のころの雨。
「半夏生」は、半夏(カラスビシャク)という植物が生える季節の意。
倉嶋厚『日和見の事典』に「半夏生のころに一雨降って急に照り始めるのを『半夏のはげ上がり』という一方、このころの大雨による洪水を『半夏水(はんげみず)』と呼んで警戒している地方もある」とある。
「水」の読みで意味が異なる。
(『雨のことば辞典』倉嶋厚・原田稔編著 講談社学術文庫 2014年)
くらしの季語
 半夏生
(はんげしょう)

 雑節(ざつせつ)の一つです。
暦には、二十四節気や五節句のほかに、雑節という季節の移り変わりを知らせる日がいくつか決められています。
たとえば「節分」「八十八夜」「二百十日」などです。
「半夏生」もその一つで、だいたい七月一日ころです。
 ことに農事の目安の日として重要な役割をはたしてきました。
農家ではこの日までに田植えを終えるというのが、約束事だったのです。
 この時期に「半夏」という草が勢いをまして生えてきます。
半夏とは薬草として知られたカラスビシャクの漢名です。
「半夏」は「半夏生」の略としても使われますが、作句にあたっては混同しないように注意が必要です。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
 この日、蛸(たこ)を食べるという風習があります。
これは植えた早苗が蛸の吸盤のように田に根をおろすようにという呪(まじな)い祈願からきたものですが、じつはこの時期の蛸が一年でもっとも美味しい旬なのです。
当節でもデパートなどでも「半夏生の蛸」として売出しをするようになりました。
 なぜかこの日の天や地には毒が充(み)ちているといわれ、わが家でも雨が降りこまぬように井戸に蓋(ふた)をしたり、この日、地からのびた野菜は食べないようにということを言っておりました。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
 国立公文書館のTwitterに

7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日。
大正15年(1926)、米国独立150周年に合わせ、フィラデルフィアで万国博覧会が開かれました。
画像は『公文類聚』から、開催の前年に日本が博覧会への参加を決めた際の資料です。
博覧会参加の先例が理由の一つとして挙げられています。
ぼやくことが多いのでホンワカするニュースを(^_^)v

パン屋の人気者「こむぎ」 看板犬との触れあい求め、絶えぬ客足〟(毎日新聞)
原民喜の「華燭」について 

Ⅱ 愛の章 結婚の日
……
「華燭」は目立たない小品だが、原の作品には珍しく軽妙でユーモアがあり、何よりも愛情と幸福感に満ちている。
この作品は「三田文学」の1939(昭和14)年5月号に掲載されたが、それは結婚して6年後のことで、貞恵が肺結核を発病するのはこ年の9月である。
結婚から貞恵の発病までは、原の人生でもっとも幸福なときだった。 
……
(『原民喜 死と愛と孤独の肖像』梯久美子 岩波新書 2018年)
 華 燭

「さあ、これからもう一ぺん花嫁の衣装でも見せてもらひませう」と、駿二の姉は妹を誘つて立上つた。
それをきつかけに人々はみんな坐を立つて、ぞろぞろと隣の座敷の方へ行つた。
何時の間にか駿二の寝間はとりかたづけてあつて、座敷は真昼のやうに明るい電球が点されてゐた。
駿二の姉と妹はそこに集まつて来た女達に競売の品でも示すやうな調子で、勝手に箪笥の中から衣装を引張り出して、景気よく振舞つた。
(『定本原民喜全集Ⅰ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
姉は刺繍入りの丸帯を掌に繰展げて、「これはどう。疵ものではありません」と、云ふと皆は面白さうにワハハと笑つた。
「でも、その帯の模様はモラルがないと思ふわ」と、妹は口を挿んだが、その言葉は反響を呼ばなかつた。
姉は今度は箪笥の戸棚から湯婆を発見した。
「おや、おや、まあ、まあ、ゆ、た、ん、ぽ」と、姉は嬉し相に湯婆を揺すぶつてみた。
どうも不思議なことにその湯婆はぽちやぽちやと音がするのであつた。
かういふ発見に刺激されたためか、今迄ぼんやりと見物してゐた駿二の弟が、今度は単独で本箱の中を引掻廻した。
中学生の弟は一番にアルバムを持出して忙しげにパラパラめくつてゆく。
駿二はその側へ行つて覗き込んだが、同じやうな制服を着た女学生の写真ばかりが現れ、どれが自分の嫁になる人物なのかわからなかつた。
その時まで何といふことなしに、陳列品をこまごまと見て歩いてゐた母が、駿二の耳許へ来て、「大概よく揃つてゐるが、盥が無いね」と呟いた。
駿二は自分の落度のやうにちよつと情ない気持がした。
そこへまた従弟がやつて来て、「ね、ね、君、君、こんなに嫁入仕度ばつかし派手であつても、肝腎かなめの君が素寒貧では何もならないではないか。この嫁入道具を収めて置くだけの家もない身分では結局、箪笥、長持、下駄箱の類など、ここの家の倉であくびをするばつかしだ。この矛盾を君はてんで気づかないのか」と難詰して来る。
駿二は今更のやうに座敷の品々を見渡したが、何とも返答が出来なかつた。
恰度その時、家の老婆が箒を持つて来て、座敷を掃きだした。
「さあさあ、何時までそんなところへ突立つてゐないで、帰つておやすみなさい」と老婆に云はれると、従弟は案外素直に引退がつた。
また誰か二三人寝呆け顔で箪笥の前に佇んでほそぼそと話してゐたが、それらも何時の間にか自然と姿を消した。
そこで駿二は老婆が延べてくれたらしい蒲団の上に、漸く手足を伸して横はることが出来た。
灯はもう消されてあつたが、隣室の薄ら明りがどういうふものか少し気になり、今度は芯から睡れさうになかつた。
それでも眼は自然に塞ぎ、早春の深夜のなまめいた空気の中にうつらうつらと気持は遙かになつて行つた。
 暫くすると、突然玄関脇で電話のベルがけたたましく鳴出した。
駿二は夜具の下でふと目を見開いたが、皆よく熟睡してゐるためか、ベルは何時までたつても鳴歇まない。
とうとう彼はまた寝巻の上に著物を引掛けると、座敷の方から出て行つて受話器をとつた。
「もしもし、駿二さんですか」と、受話器は駿二がまだ何とも云はないうちに喋り出した。
「一体、あなたは誰です」と駿二はむつとした声で訊ねた。
「あら、わかんないの、ひどいわ」と、女の声は浮々してゐる。
「名前をおつしやい、名前を」と、彼が焦々して訊ねると、「ハハハ、名前なんか御座いませんよ、わたしはただの女です」さう云つて、ぷつんと電話は切れてしまつた。
彼は何だか愚弄された後の味気なさに暫く悄然と玄関に佇んでゐると、表の戸にどたんと何か突当たる音がした。
その瞬間、彼はピクつと背筋に冷感を覚えた。
ぢつと聞耳を立ててゐたが、しかし、誰もやつて来る気配はなかつた。
駿二は再び座敷に引戻し、頭からすつぽり夜具を被つて睡つた。
(『定本原民喜全集Ⅰ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく…