2021年7月11日日曜日

ひたすら我慢

晴れたのは嬉しいけど、強烈に暑い(^^;
九州南部が梅雨明けしたそうだけど、
水害にあった人たちは炎天下に片づけをしなければいけない…

九州南部が梅雨明け 平年より4日 去年より17日早く 熱中症注意」(NHK)
ヒオウギがもうじき咲きそうでした。
ヒオウギ(檜扇)は祇園祭に欠かせない花です。
祇園祭を「檜扇(ヒオウギ)」で彩ります〟(京都市情報館)

昨日から
京都の祇園祭 山や鉾組み立てる「山鉾建て」2年ぶりに始まる〟(NHK京都 7月10日)
 祇園祭(ぎをんまつり)<祇園会(ぎおんえ)・祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)・山鉾(やまぼこ)
  鉾(ほこ)・二階囃子(にかいばやし)・祇園囃子(ぎおんばやし)>晩夏 行事

 祇園祭のもととなった祇園御霊会の起源は、869(貞観11)年である。
全国に流行した疫病が、牛頭天王(ごずてんのう)の祟りであるとして、勅命により、6月7日、全国の国の数である66本の鉾を立てた。
6月14日、洛中の男児が神輿(しんよ)を奉じて神泉苑(しんせんえん)に集まって御霊会を修した。
今の還幸祭(かんこうさい)は、この6月14日の、神泉苑の神輿を送ったことを期限としている。
祇園祭は神幸祭(しんこうさい)と還幸祭の神輿渡御(とぎょ)に本質がある。
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
 同じ年、東北地方に巨大地震があり、大津波による災害があった。
祇園祭と貞観の大津波との時間的な関係から、両者に深い関連があったという考え方が成り立つ。
当時、形を整えた街を構成する地域は、京、東北の多賀城(たがじょう)、九州の太宰府(だざいふ)だけであったから、多賀城の被害は京にも大きな影響を及ぼしたにちがいない。
史実を時間順に並べてみる。
貞観11年5月26日(グレゴリオ暦7月13日)、陸奥国東方沖の海底を震源域とする巨大地震が発生し、津波による甚大な被害があった。
その前後、日本列島は大地震と火山の噴火が続く大地の活動期であった。
その歴史は、日本の正史六国史(りっこくし)の六番目、『日本三代実録』にある。
 864年の富士山噴火、同年の阿蘇三噴火、868年の山崎断層地震、869年の貞観地震である。
さらに続いて、871年の鳥海山噴火、874年の開聞岳噴火、880年の出雲地震、887年には南海トラフで仁和の巨大地震が起こり、893年、朝鮮半島の白頭山が噴火して東北から北海道にまで降灰があった。
 貞観11年5月は小の月で29日までだから、鉾を立てた6月7日は貞観地震から10日目になる。
京と緊密な関係にあった多賀城は、「京を去ること一千五百里」とあるから、おそらく五日くらいで知らせが到着したであろうと思われる。
陸奥国で起きた災害を知った朝廷は、御霊会の勅令を発することができたのである。
 ところで、現在の祇園祭に日付は、さまざまな変遷を経て決まったようである。
旧暦明治5年12月2日、翌日を新暦6年1月1日とすると、突然に決められた。
それは、明治政府では役人の報酬が月給で定められており、旧暦の明治6年は閏月(うるうづき)があって13回の月給を払う必要があることに政府が気づいたからである。
祇園祭の日付はその余波を受けて、かなり乱れてしまった。
旧暦6月7日、14日の祇園祭は、明治6年以後、かなりばらばらに行われ、1888(明治21)年からは、7月17日と24日になった。
  ついでながら、貞観地震の時代の地震や噴火の歴史が記録された『三代実録』を編修したのは、菅原道真たちであった。
道真は、859(貞観元)年に15歳で元服、18歳で文章生(もんじょしょう)に合格、867(貞観9)年、文章生中で特に優秀な文章得業生(とくごうしょう)となり、方略試(ほうりゃくし<議政官資格試験>)を受ける資格を与えられたという。
方略試受験は、3年後に行われ「氏族を明らかにせよ」という問題と「地震を弁ぜよ」という問題が出された。
大学者の都良香(みやこのよしか)による採点で「中の上」という成績により及第した。
  このような、国の最上級職を争う人たちのための試験問題から見ても、試験の前年に貞観地震が発生するまでの日本列島で、地震や噴火がたいへん目立つ現象として認識されていた状況が、十分に伝わってくると思う。

  東山回して鉾を回しけり  後藤比奈夫

(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
  華 燭

 暫くすると、駿二の正面に郵便局長の叔父がやつて来てべつたりと坐つた。
叔父はもう大分御機嫌らしく、徳利をふらつかせながら駿二に盃を勧めた。
「飲み給へ、駿二君。なにしろ芽出度い。なあに遠慮はいらん。しつかり勇気を出して人生を邁進することぢや」と、叔父はひとり合点に頷いては駿二に盃を勧める。
(『定本原民喜全集Ⅰ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
すると、その横に学務課長の木村氏がやつて来て、これまた昨夜以上に矍鑠たる酔顔で、「処世訓を云つてきかせる。先んずれば則ち人を制し後るれば則ち人に制せらる、だ。君のやうに愚図愚図してゐると女房にまで侮られるぞ。いいか、結婚は格闘だ。見給へ、向ふに並んでゐる幾組の夫婦たちだつてみんな火の中、水の中を潜り抜けた猛者だ」と、木村氏もまた駿二を激励するのであつた。
駿二も盃を重ねてゐるうち大分酔つたらしかつたが、見渡せば丸髷の重さうな妹はまだ若かつたが、そこに並んでゐる多くの連中は大概年寄で、夫婦喧嘩の数を重ねて来たらしい錚錚たる面構へであつた。
そのうち今迄、姿を見せなかつた花嫁が駿二の母に連れられて座敷にやつて来ると、一人一人に挨拶して廻つてゐたが、その衣装がさつきとは変つてゐるので駿二は珍しげに遠くから眺めてゐた。
挨拶がすむと花嫁と母はまた、すつと消えて行つたが、間もなく母が駿二のところへやつて来て、手招いた。
  駿二が母の後に従いて廊下を曲り、別の小さな部屋に行つてみると、そこには花嫁と駿二の姉がぺたんと坐つてゐた。
駿二が這入つて行くと、花嫁は横眼を使つて彼を眺めた。
この前見た時より、彼女は大変別嬪のやうに思へた。
「それでは、さきに三人で帰つてゐなさい」と、母が云つてゐるうちに、「自動車がまゐりました」と女中が云つて来た。
駿二と花嫁と駿二の姉は並んで自動車に腰掛けた。
夜の闇の中に樹木の肌がライトに照らし出されて白く現れた。
駿二は側にゐる花嫁をなるべく意識すまいとして先んずれば人を制すを繰返してゐた。
(『定本原民喜全集Ⅰ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく…