2020年12月1日火曜日

もう師走…

 今日から12月。
月初めにいつも早いなとため息をついていますが(^^ゞ
顔見知りの方がスマホをかかげてゆっくりと一回転されいた。
「毎日、空を(360度)写しているんです」と
「毎日、撮っていても同じ空はない」と仰っていました。
私のリハビリ散歩の記事も定点観測のようなものです。

この時期らしい寒さ」(えりの気象日記 11月30日)
 Eテレ0655の「おはようソング」。
先週から「冬毛の歌」が流れています。
先週は、1番でした。
今週は、2番で、最初に映し出されるのは「シマエナガ
(写っているのはエナガです)
かわいい動物や鳥たちがでてきます(^^)v
NHK俳句増刊号 「歳時記食堂2020冬
二品目に紹介された句が
寒玉子(かんたまご)うく徹宵(てっしょう)の油の掌(て)」
鈴木しづ子の句が紹介されていました。

宇多喜代子
この句は多分昭和17年か、18年、そのぐらいの句だと思いますね。

寒玉子をこの手で受けました。
この手を見ればゆうべの仕事で手が荒れたということですね。

鈴木しづ子さんはね、私が執着しておる女性俳人の一人で
このころ年二十幾つだったんでしょうね。
しばらくしていろんな事情があって、岐阜の方へ行かれたんです。
最後は、私どもは行方不明の人と。
分からないのどうなったかが。

(宇多喜代子さんが心に残った句)

夏みかん酸つぱしいまさら純潔など

戦争被害者だと、私、いつも思うんですよ。
だからね戦争被害者というのは、戦地で戦った人ももちろんそうだけれども
本当に女性一人にも及んでいるですよ。
戦争の被害っていうのはね。
宇多喜代子 
私が、先ほどのあれの中に写真がありましたでしょ。この方の。
あれ見た時に、何か訴えてるなっていう感じがしたんですよ。
それでね、この人の場合、一体、どういうところで
どういうことをしたんだろうと思って、私、岐阜にこの方がいらしたところに訪ねていったんですよ。
そしたらたまたまね。
この方を預かってたおばさんに巡り会えたの。
いろいろお話を聞いたんです。
しいちゃん、しいちゃんって言っていました。
おばさんが、しいちゃんと。
俳句は何にも分からないおばさんでしたけどね。
それが預かってた時に、何か知らないけど、毎日手紙を書いて、毎日、郵便局へ行く。
異常だったよって言うのね。
その手紙を書いてるっていうのが、句を書いてた。
それを毎日毎日、投函してたんですね。
どこにも行かずに、机にしがみついて書いているから
おばさんがある日、どっか、ちょっと出てきなさいって家(うち)を追い出したって。
そしたら、ずっと、その辺をぐるっと歩いてきて
「どこ行ってた?」って言ったら
「夏みかんのある、あの土手歩いてきた」
って言った時のしいちゃんの顔が出ていった時と別人のような顔で帰ってきたんだよっていうのをおばさんが教えてくれたんです。
それが私、この句とパッと重なったんです。
私、あの土手へ行ってみたのよ。その川土手にね。
あっ、ここを歩いてきて、この句ができたんだというのを確信しましたね。
話し相手が自分だったんですね。
俳句にした自分の話し相手は、自分の俳句が、自分の話し相手だったという。
12月02日 午後3:00~に再放送があります)

夏みかん酢つぱしいまさら純潔など』(河出文庫)
12月1日
 一万円札がはじめて発行された。 1958(昭和33)年

 法隆寺夢殿(ゆめどの)のスカシの入った一万円札がはじめて発行されたのは、ボーナス支給も直前のこの日だった。
しかし当時は一万円といえばいたって高額だったので、庶民のボーナス袋に入ることはまずなかった。
 戦時中から敗戦後にかけての時期はたいへんなインフレがつづき、戦時中に計画された敗戦直後に発行された千円札も、発行された時には計画当時のわずか五円の価値になってしまっていた。
 その後もインフレは進む一方で、明治なかばに日本銀行が初めて紙幣を発行した時の百円札はこのころ18万円にも相当したから、一万円札は必ずしも高額すぎるわけではなかった。
 しかし、国民の間には、「一万円札が発行されるとインフレが激しくなる」との強い批判の声があった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
お札の基本情報~過去に発行されたお札~(C一万円券)」(国立印刷局)

「戦時中から敗戦後にかけての時期はたいへんなインフレがつづき」と書かれていますが、
敗戦後の世相や状況について
スピード籤<時の話題>」(NHKアーカイブス 1945年)

傷病兵はどうしている 投稿者・東京・一復員者<みなさんの声>」(NHKアーカイブス 1946年)

日本の歴史26 よみがえる日本』より「勤労意欲と働く場」を転記しますφ(..)
占領政策と経済復興のエネルギー
 勤労意欲と働く場


 終戦直後の世相は、物資欠乏とくに生活必需品の窮乏、そして悪性インフレに帰因するものが多く反映していた。
「たけのこ生活」「モク拾い」「かすとり密造酒」「買出し」というような言葉が世相の一斑を語っていた。
終戦の年からお目見えした宝くじも、入手困難な生活必需品が景品としてつけられていた。
たとえば衣料品・せっけん・タオル・地下タビ・タバコ・サッカリンなど。
また昭和24年の秋ごろから、名古屋をはじめ各地方にパチンコが流行し始めたが、これなども単に子供のあそびのパチンコが、大人のあそびになってきただけではなく、景品がその原因でもあった。
(『日本の歴史26 よみがえる日本』蝋山政道 中公文庫 2006年)
 しかし宝くじやパチンコと時を同じくして、正常な方策や制度の工夫がなされたことを見逃してはならない。
同じく終戦の翌年ごろから、学生アルバイトや学校給食や共同募金や集団見合などがはじめられた。
その背景には生活費の不足を補い、無駄な費用を節約し、ひとりでなく集団的な方法で解決しようとする合理的な工夫の現われとも考えられるものがある。
そういえば新興宗教の流行も終戦直後からであることを思うと、人間にとってもっとも大事な信仰の問題する、こうした当時の経済状態と無関係ではなかったと言えよう。
 当時の東京の街は、まだ焼跡がのこっており、無計画のまま放っておかれていた。
そこに全国から流れこんできた人たちが集まり、また有楽町や新宿・渋谷・上野などは、東京都政の手がとどかないままに、やくざの親分たちに支配されていた。
隅田川の言問橋(ことといばし)のたもとに生まれた「蟻の街」も、戦後5年のあいだに自然に住みついた人々によって浮浪者同士の自力更生の組織として出発したものである。

「北原怜子さん」すぎなみ学倶楽部
 こうした世相の根本的改善は、社会福祉施設の発展にまつべきであるが、その前に生産を復興して、働く意志をもっている多数の国民に働く場を与えることが先決問題である。
そのためには、昔からその美徳をもって知られている日本人の勤労意欲を発揮しうる機会と条件が与えられなければならない。
 昭和22年度の『第一次経済白書』には、終戦1年後の労働事情について、まず人口が戦前と比較して12%増加して7785万人になり、とくに引揚者には要就業年齢層が多いことが述べられている。
つぎに生産活動とにらみ合わせて失業の事情について述べているが、失業者数は統計調査の上では案外少ない。
昭和21年4月26日に行なわれた人口調査の結果、完全失業者と見られるものは159万人にすぎないが、半失業者すなわち月に1週間以内しか働かぬものが196万人、月に8日以上20日未満しか働かぬものが432万にのぼっている。
これは失業の潜在化と呼ぶべきもので、インフレのもとにおいて失業が失業として意識されない状態だ、と説明されている。
 しかしいかなる心理的状態によるせよ、このような半失業状態は、生産再開が軌道に乗り、雇用労働量が増加し、勤労意欲を発揮せしめる条件が具わってくることによってのみ解消されうる。
同じ『経済白書』は、その就業条件が徐々に具わってくることをつぎのごとく述べている。
 「次に雇用労働量の推移をみると終戦の直後には一時著しい減少をみたのであるが、その後次第に回復し、昨年(昭和二十一年)末までは毎月上昇の足どりをしめし、内閣統計局の年次勤労統計調査によると昨年七月には鉱工業生産労働者は約六00万、全産業においては一、000万をこえ、ともに戦前と殆んど同じ高さに達した」
 しかしこの就業状態は、生産回復がいまだ戦前の3割程度に止まっていた当時の状況と比較すると、いわば水増し雇用の状態であった。
したがってこの過剰労働が整理され、正常な就業者一人当たりの生産量を生み出す条件が整備されねばならない。
それにはなお2、3年の経過を必要とする。
その間、日本人の勤労意欲は、伝統的な旺盛さにもかかわらず、企業組織の手まどる再建と労働組合の闘争という深刻な谷間におかれていて、じゅうぶんその機能を発揮できなかったのである。
(『日本の歴史26 よみがえる日本』蝋山政道 中公文庫 2006年)
今朝の父の一枚です(^^)v
シダレエンジュフユザクラを写していました。

昨日は、夜中にトイレの電球が切れてしまった。
そのうえ朝の血圧が150近かったのでリハビリ散歩を諦めて
電気屋さんに電球を買いに行きました。
朝食後、120程に落ち着いたのですが、父の年賀状の作製と印刷をしていました。
前日、父に私と妹のように年賀状をしまいにしたらと言ったら「死ぬまで出す」との返事。
60枚ほど出すということなので急いで作製してあげることにしました。