2020年12月10日木曜日

日ざしが暖かく

ヒンヤリした朝でした。
それでも歩いていると日ざしのおかげで一枚脱ぎました。
久しぶりに出会った方と、「コロナに好かれないようにしましょう」と挨拶をかわしました。

10日日中は日ざし暖かい」(えりの気象日記 12月9日)
ファイザーのワクチンで激しい副反応を経験した看護学者が警告」(Newsweek 12月9日)
インフルエンザの予防接種でも副反応が起きます。
副反応についての情報は大切だと思います。

ドイツ 新型コロナ 1日の死者数最多に 首相“厳しい措置必要”」(NHK)
メルケル首相が感情的な演説をされたという。
まさに国民の命に対して責任を持っている方の言葉。
一方、日本の場合は、「お答えを差し控える」などという発言を
記者は、その言葉を黙って聞いているだけで、垂れ流しをしている。
 山口二郎さんのTwitterに

吉村大阪府知事の言動を見ていて、安手のヒロイズムは政治の大敵だとよくわかる。
己の愚昧さゆえに大阪の惨状を招いたことを知るべき。
幼児の砂いじり、維新の制度いじり。
まともな政治家は問題を直視して金と人を動かす。


大阪モデルをVer.1のままで監視していたらもっと早く、対応できたのではないだろうか?
12月4日に紹介した山中伸弥さんの心配した通りになった。
結果を見てから基準を決める。
科学でこれをすると信頼性が揺らぎます。
この報道が本当であれば、大阪府の対策が、科学から政治に移ったことを意味します。

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 5月24日)

一方、死刑を覚悟して人々のために行動した人がいる。
12月10日
 田中正造(しょうぞう)が足尾(あしお)銅山の鉱毒問題で天皇に直訴(じきそ)した。 1901(明治34)年

 この日、天皇は帝国議会の開会式に出席した。
その帰途の午前11時20分ごろ、天皇の行列が桜田門(さくらだもん)に向かおうとした時である。
群集の中から、黒の紋服(もんぷく)・袴(はかま)に足袋(たび)の男が、両手で高く訴状を捧(ささ)げ天皇の馬車に走り寄った。
61歳の田中正造である。
彼は幸徳秋水(こうとくしゅうすい)にこの訴状文を書いてもらい、自分もすぐ直前までこれに手を加えていた。
その、書面には足尾銅山の鉱毒による渡良瀬川(わたらせがわ)流域数十万農漁民の苦しみと、政府の無策、農業民への弾圧の状況が書いてあった。
死を覚悟した田中の訴えも警備の警官にはばまれた。
 田中は警察署に連行されたが、翌日狂人として釈放された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
足尾鉱毒事件」(中学・高校)

日本の歴史22 大日本帝国の試練』より「足尾鉱毒事件」「田中正造の直訴」を転記しますφ(..)
産業革命
 足尾鉱毒事件


 産業革命が労働者の運命を大きく変えていったとき、その影響はいろいろと他の方面にも現われた。
その代表的なものに、当時「鉱毒事件」として騒がれた鉱山の公害問題がある。
住友の別子(べっし)銅山や、藤田組の日立(ひたち)鉱山など、たいていの鉱山でこの問題は生じたが、影響する範囲が広く、それだけ社会の大問題となったのは足尾(あしお)銅山の鉱毒問題であった。
足尾銅山は明治10年(1877)、古河市兵衛(ふるかわいちべえ)が政府から払下げをうけ、巨額の資金を投じ、精巧な設備を設けて盛大に経営していた。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
  ところが、採掘量が多くなるにつれ、そこから流れ出る悪水による鉱毒の害もまた比例して大きくなった。
悪水は渡良瀬(わたらせ)川に流れこみ、関東平野の北、栃木・群馬両県をとおって利根川に入る。
渡良瀬川は水質佳良で魚類が多く、3千の漁民がこれによって生計をたてていた。
それが十年代後半に入ると魚類が減少し、かつては有名だったサケ、マスはもちろん、アユも死にたえ、わずかにハヤ(ウグイ)が生き残れる程度となった。
 その間に鉱毒はじわじわと田畑にもしみこんでいったが、これを一大問題としたのは洪水の頻発である。
銅山の隆盛にともなって、坑木として近隣の樹木をきり、さらに煙害におって山は禿げ山となったから、ひとたび大雨がふると雨水はたちまち渡良瀬川に集まり、悪水は田畑に氾濫することとなる。
かつて洪水は沃土をもたらしたが、いまや鉱毒をばらまくものとなった。
 鉱毒被害地6万町歩、被害人民30万を代表し、24年の第2議会以来この問題の重大性を絶叫してきたのは、栃木県選出の代議士田中正造(たなかしょうぞう)であった。
だが、人民の声にも義人田中の叫びにも、政府は耳を傾けようとしなかった。
殖産興業は明治政府の基本方針であり、とくに銅は日本の重要生産物であるうえ、23年、農商務大臣となった陸奥の二男は古河の養子となり、古河は明治政府と密接に結びついていたのである。
  明治33年2月12日の夕刻、群馬県渡良瀬村早川田雲龍寺(さがわだうんりゅうじ)の鐘が、冬の荒涼とした田野にいんいんとひびき渡った。
これをきくと、群馬県邑楽(おうら)郡や栃木県足利(あしかが)郡・都賀(つが)郡などの村々から、蓑笠(みのかさ)に身をかためた農民たちが、

  人のからだは毒にそみ、
  悲惨の数は限りなく

と「鉱毒歌」をうたいながら、数日分の食糧を背負ってぞくぞくと集まってきた。
かれらは大挙上京して、被害地34ヵ村の惨状を直接大臣に訴えようというのである。
 13日午前10時、雲龍寺をでて館林(たてばやし)町に向ったときには、その数、実に数千に達した。
足利郡久野(くの)村村長稲村与一(いなむらよいち)がその総指揮者となり、安蘇(あそ)郡堺(さかい)村助役野口春蔵(のぐちはるぞう)は青年隊長として騎馬で指揮し、隊伍堂々と行進して、館林警察署前で警官とこぜりあいし、警官の防禦をつき破って川俣(かわまた)にいたった。
ここには警察の全力と数百の憲兵が警戒の陣をはっている。
野口は青年隊2500人を先頭としてその突破をはかった。
ここに一大修羅場(しゅらば)が出現し、被害民はついに十数名の負傷者をだして退却のやむなきにいたった。
 これからが一大惨劇である。
憲兵・巡査は逃げる被害民を負い、突き倒しふみにじり、乱打し、水中に投げこみ、負傷者は道に横たわってうめき、流血は点々として数里におよんだ。
被害民の指導者50余名は兇徒嘯聚罪(きょうとしょうしゅざい)をもって前橋地方裁判所に送られた。
  田中正造の直訴

 2月14日、田中正造は長年属した憲政本党を脱党した。
かれが心血をそそいできた鉱毒問題がついにここにいたり、しかもその叫びが党利党略と考えられるのを恐れたからである。
それから1年半後、34年秋、兇徒嘯聚事件の公判が東京控訴院ではじまり、鉱毒問題がようやく世間の注目をひくようになったとき、田中は鉱毒問題を自分の選挙運動と考えらえることを憂え、一大決心をもって代議士をも辞任してしまった。
一介の野人として身をこの運動に捧げようとしたのである。
 その年の暮、議会開院式を終わって帰る天皇の行列に、奉書をかざし、「お願いがございます」ととびこんだ老人があった。
田中正造である。
その直訴文はつぎにように記されていた。
  「草莽(そうもう)の徴臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首(せいきょうせいこうとんしゅとんしゅ)、謹(つつしん)で奏す。
 伏(ふし)て惟(おもんみ)るに、臣田間(でんかん)の匹夫(ひっぷ)、敢(あえ)て規(のり)を踰(こ)え法を犯して鳳駕(ほうが)に近前する、其罪実に万死に当れり。
 而も甘じて之を為(な)す所以(ゆえん)のものは、洵(まこと)に国家生民の為に図りて、一片の耿々竟(こうこうつい)に忍ぶ能はざるもの有ればなり。
 伏して望むらくは陛下深仁深慈、臣が狂愚を憐みて、少しく乙夜(いつや)の覧を垂れ給はん事を。
  伏して惟るに東京の北四十里にして足尾銅山あり、其採鉱製銅の際に生ずる所の毒水と毒屑(どくせつ)と久しく澗谷(かんこく<間は閒>)を埋め渓流に注ぎ、渡良瀬川に奔下して沿岸其害を被(こうむ)らざるなし。
 而して鉱業の益々発達するに従ひて其流毒益々多く、加ふるに比年(ひねん)山林を濫伐し、水源を赤土と為せるが故に、河身変して洪水頻(しきり)に臻(いた)り、毒流四方に氾濫し、毒屑の浸潤するの処茨城栃木群馬埼玉四県及其下流の地数万町歩に達し、魚族斃死(へいし)し田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ業を離れ飢て食なく病て薬なく、老幼は溝壑(こうがく)に転じて壮者は去て他国に流離せり。
 如此(かくのごとく)にして二十年前の肥田沃土は、今や化して黄茅白葦(こうぼうはくい)満目惨憺の荒野と為れり」
  「人民の窮苦に堪へずして群起して其保護を請願すりゃ、有司は警官を派して之を圧抑し、誣(しい)て兇徒と称して獄に投ずるに至る。
 而して其極や既に国庫の歳入数十万円を減じ、人民公民の権を失ふも算なくして、町村の自治全く頽廃(たいはい)せられ、貧苦疾病及び毒に中(あた)りて死するもの亦年々多きを加ふ。
 嗚呼(ああ)
 四県の地亦(また)陛下の一家にあらずや。
 四県の民亦陛下の赤子(せきし)あらずや。
  臣年六十一、而して老病日に迫る、念(おも)ふに余命幾(いくば)くもなし。
 唯万一の報効を期して、敢て一身を以て利害を計らず、故に斧鉞(ふえつ)の誅(ちゅう)を冒(おか)して以て聞(ぶん)す、情切に事急にして涕泣(ていきゅう)言ふ所を知らず。
 伏して望むらくは
 聖明矜察(きょうさつ)を垂れ給はんことを。」
 この一文は前夜死を覚悟して田中のおりいっての依頼により、文章家として見込まれた幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が想をねって認(したた)めたものである。
幸徳は、多年の苦闘に疲れはてた老体と、その悲壮な決意をみて、いやだということができなかった。
朝、草し終わった上奏文をとどけると、田中はだまって受け取り、懐に入れて用意の車で日比谷(ひびや)に向かった。
幸徳は車にゆられていく老人の後姿を見送って、無量の感激にうたれた。
田中は生きて帰れるとは考えていなかったので、直訴決行に先だって、郷里の夫人に離縁状を送っていた。
驚駭(きょうがい)した政府は、窮余の策として田中を気の違った人間として、事件をうやむやのうちに落着させたのである。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
今朝の父の一枚です(^^)v
モズ♀に出会っていました。

ここ数日、父が心配しているニュース。
昨日、田舎に電話していました。
徳之島全体がクラスター」(奄美新聞 12月10日)