2020年12月15日火曜日

風がつめたい…

近畿でも雪の便りが届くようになりました。
大阪は、まだ霜も下りていませんが、風がつめたく、太陽が雲に隠れるといっそう寒くなる…

近畿北部中心に雪 平地で積雪も」(関西NHK)
」で検索したのにと思っていたら、確かに「霜降り」がでてくる…(*´▽`*)

大阪・新世界 ジャンジャン町 昔懐かしディープな横丁」(NHK みちしる)
ShokoEgawaさんのTwitterに

国民にとって大事な時に、こんな無意味な質問をしたアホな記者は、どこのどいつですかー!?
(日テレ「菅首相が記者団にコメント」 動画2分あたり)

こんな記者たちのおかげで首相の会見は、気の抜けたものになっているのだろうな…
支持率が落ちてきている首相の印象をよくしてあげようとしているのか
支持をされている方には申し訳ないですが
お二人とも「ガースー(スガ)」から濁点をとったレベルです。
12月15日
 空海が綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)をつくった。 828(天長5)年

 真言宗の宗祖空海(弘法大師)は、はじめ儒教・仏教・道教をひろく学ぶ、のち出家して入唐、2年後の806年帰国。
816年に高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を創建、さらにこの年京都の左京九条に綜芸種智院を開創した。
 空海は、当時国の大学に入る資格が身分によって制限されていたので、平民の誰でも入れる学校としてこれを開いた。
綜芸とは仏教と儒教をかね(綜)教えるという意味である。
当時、和気(わけ)氏の弘文院(こうぶんいん)、橘(たちばな)氏の学館院(がくかんいん)、藤原氏の勧学院(かんがくいん)など、同族のためにつくられた学寮(がくりょう)はすくなくなかったが、これは身分・氏族に関係がないところに特徴があった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
高野山の修行道場 若き修行者たちの鍛錬の日々」(NHK みちしる)
 
なでられる弘法さま 京都」(NHKアーカイブス 1951年)

梅原猛、日本仏教をゆく』より「空海 神仏一体化した日本人の精神の故郷」を二回に分けて転記しますφ(..)
Ⅱ 神と仏の融合
 空海   神仏一体化した日本人の精神の故郷


 空海は幼名を佐伯真魚(さえきのまお)といい、讃岐国多度郡(さぬきのくにたどのごおり)弘田御屏風ヶ浦(ひろたごびょうぶがうら)に生まれた。
父は田公(たぎみ)といい、佐伯氏は祖先がヤマトタケルの東征に従ったことを誇りそいている地方の豪族であった。
幼にして学才を現した空海は、15歳のときに母方の伯父である漢学者の阿刀大足(あとのおおたり)を頼って上京し、18歳のときに大学に入ったが、大学を中退し、山岳修行者の仲間に入った。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
 そして24歳のときに『三教指帰(さんごうしいき)』を書いて、儒教、道教、仏教の三教の比較をし、仏教の優越を論証したが、この処女作というべき論文はその後の彼の活躍を予告する多くの特徴が表れている。
 彼は、この書をプラトンの『対話篇』の如く劇的構成にしている。
放蕩(ほうとう)息子である蛭芽公子(しつがこうし)に儒教の亀毛(きぼう)先生や道教の虚亡隠士(きょぼういんし)が説得するが、効果が上がらない。
最後に乞食坊主の仮名乞児(かめいこつじ)が仏教の説を説き、蛭芽公子は納得するというわけである。
『三教指帰』は四六駢儷体(しろくべんれいたい)という絢爛(けんらん)たる文章で書かれていて、早熟な彼の文才を余すところなく示している。
ここで空海は儒教や道教を全面的に否定しているのではなく、それらは仏教に含まれるものであると考えている。
  こういう思弁方法は後年、空海が書いた著書『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』や『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』にも表れている。
空海は人間の思想を、世俗、儒教、道教、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、法相(ほっそう)、三論(さんろん)、天台(てんだい)、華厳(けごん)、密教(みっきょう)と十段階に分かち、それぞれの段階に対応する心があり、心は必然的に下の段階から上の段階に推移し、上の段階の心は下の段階の心をそれ自身の中に含んでいると考える。
これは思惟方法としてヘーゲルの弁証法に類似しているが、ヘーゲルにおいては最高の絶対精神の段階も認識可能であるが、空海の場合は、最終段階の「秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)」は修行によってしか体得することができず、したがってこれらの著書にはほとんど説明されていない。
 空海はこのように乞食坊主の如き山岳修行者になったが、その後の経歴はよく分からない。
修行の中で、彼は真言(しんごん)密教がもっともすぐれた仏教であることを発見したが、それが十分日本に伝わっていないのを嘆いていたのであろう。
幸運にも彼は804年(延暦<えんりゃく>23)、留学生(るがくしょう)に選ばれ、20年の留学を命じられる。
そのとき彼は初めて戒(かい)を受けて正式な僧になったのではないかと思われる。
  こうして空海は入唐(にっとう)し、長安(ちょうあん)の都で、玄宗(げんそう)皇帝に厚く親愛された、インドからやって来た密教僧である不空(ふくう)の高弟の、恵果(けいか)に出会った。
恵果は空海の異常な才を認め、彼が不空から授けられた真言密教の秘法を空海一人に授けたという。
しかしすでに真言密教の全盛時代は終わり、中国の朝廷には廃仏の動きすらあった。
おそらくそのような情勢を敏感に感じたのであろう。
空海は密教を中心とする多くの仏教経典や法具(ほうぐ)を集め、それを持って日本に帰る。
 空海は20年の留学期間を命じられたはずである。
それを2年で帰国してしまうことは闕期(けっき)の罪に値する。
この罪を免れるために空海は『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』を提出した。
それは彼が中国から携えてきた経典や法具の目録に堂々たる文章の弁明書をつけたものである。
このような最高の仏教を携えてきた以上、闕期の罪を許されるべきだというわけである。
 このような空海をどう扱ってよいか、朝廷は迷ったらしく、しばらく彼は大宰府(だざいふ)にとどめられていたが、嵯峨(さが)天皇の御代(みよ)になって彼は上京を許され、天皇の寵愛(ちょうあい)を受けて、一躍時の人となるのである。
嵯峨天皇が空海を信任したのは二つの理由による。
 嵯峨天皇の同母兄、前代の天皇である平城(へいぜい)天皇が復位を志して、薬子(くすこ)の変を起した。
薬子は自殺、平城天皇は幽閉されるが、この平城一家の怨霊(おんりょう)の鎮魂が大きな政治的課題となる。
空海は真言密教の得意とする呪術によって、みごとに平城天皇にまつわる怨霊どもを鎮魂したのである。
 さらに空海が嵯峨天皇の心をつかんだのは、天皇の文学趣味ゆえであった。
嵯峨天皇は漢文学を大変愛し、三筆といわれた書の名人であった。
この点では空海は誰にもひけをとらない。
彼は当時の宮臣の誰よりも深く中国の文学に通じ、新しく顔真卿(がんしんけい)風の書を中国で学んだ書の名人であった。
 このような趣味において天皇の友であり、師であった空海を天皇はいたく寵愛し、ついに彼の仏教の根拠地、高野山と、都での活動の中心地、東寺(とうじ)を与え、さらに宮中に真言院を建てることすら許したのである。
こうして空海は一代にして真言密教を深く日本の地に下ろし、事終えて高野山に帰って死んだ。
 彼の世間に処する態度も『三教指帰』や『十住心論』などの思想展開の方法とよく似ている。
たとえば東寺は嵯峨天皇から彼に託されたものであるが、桓武(かんむ)天皇のときに東寺はすでに顕教(けんぎょう)寺院として、東大寺にならった伽藍(がらん)配置が決定されていた。
東大寺の伽藍配置は、中門をはさんで左右に東西の塔があり、その奥に仏像の並ぶ金堂(こんどう)があり、さらにその奥に僧たちが講義を聴く講堂(こうどう)があるという形式である。
頭の堅い密教僧ならば、このような顕教寺院を密教寺院にすることはとうてい無理だと思うであろう。
しかし空海は嵯峨天皇が東寺を下賜されたのを拝受し、その顕教寺院にしつらえてある建物をみごに密教寺院に変えてしまった。
 東寺には塔が東塔一基しかない。
東塔と対(つい)になるべき西塔は初めから存在しないのである。
密教においてもっとも重要な建物は、僧や俗人が師から灌頂(かんじょう)を受け、大日如来(だいにちにょらい)と一体となる儀式を行う灌頂院である。
密教寺院には灌頂院を欠くことができない。
それで空海は西塔の位置に灌頂院を建てたのである。
そして金堂には顕教の寺のように薬師如来(やくしにょらい)が本尊(ほんぞん)として祀(まつ)られているが、講堂のほうに大日如来を中心とする如来五体、菩薩(ぼさつ)五体、明王(みょうおう)五体、天部(てんぶ)六体の木彫の仏像を並べた。
これは立体の曼陀羅(まんだら)というべきものであり、まさに東寺の講堂は密教の金堂となった。
東寺には顕教と密教の二つの金堂があるといえよう。
 真言密教は大乗仏教の発展の最終段階で生れた仏教であるが、華厳仏教の影響を強く受けている。
それは、華厳の中心仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)であるが、密教の中心仏である大日如来は摩訶(まか)毘盧遮那すなわち大ビルシャナとよばれることによって明らかである。
華厳は、一木一草の中に毘盧遮那仏が宿るという思想であるが、密教もまた、大日如来は一木一草の中に宿り、私自身の中にも存在すると考える。
 真言密教は自らの思想を曼陀羅で表す。
曼陀羅のの中央には大日如来がいて、大日如来がいかに千差万別の姿をもつ個々の仏に具現するかを示す。
この点、周辺の仏が中央の毘盧遮那仏と同じ姿で表される華厳とは異なる。
いってみれば、多の一といっても、華厳では一が強調されるのに対し、密教では多が強調される。
多を強調することは固体性の重視であり、密教は欲望や感覚を強く肯定する。
「大日経(だいにちきょう)」と並んで密教の中心経典である「理趣経(りしゅきょう)」には性の交わりの讃美の言葉すら見出される。
そしてこの宇宙的声明を大肯定し、呵々大笑(かかたいしょう)することが悟りの究極とされる。
 また密教では、大日如来と一体となる加持(かじ)の行を重視する。
加というのは行者(ぎょうじゃ)に大日如来の力が加わり、持というのはその大日如来の力をもちこたえるという意味である。
そういう大日如来と一体となる加持の行によって行者は超能力というべき力を発揮する。
顕教 象徴や真言で教えを説く密教に対し、言葉であきらかに説き示された仏教のこと。華厳宗、法相宗など。天台宗は顕教・密教の両方の思想を含む。

灌頂 仏の智慧を象徴する水を儀式を受ける者の頭にそそぐ、密教における重要な儀式のひとつ。仏と縁を結ぶための結縁灌頂(けちえんかんじょう)、師僧が弟子に教えを授ける伝法灌頂(でんぽうかんじょう)などの種類がある。

大日如来 密教経典「大日経」の教主(教えを説く存在)で、密教では太陽のようにあらゆる仏・菩薩の中心となる存在とされる。梵語ではマハーヴァイローチャナ(偉大な輝くもの)。

曼陀羅 梵語マンダラの音写。密教の考え方を、図画や象徴として表したもの。曼荼羅とも書く。

大日経 正式名は「大毘盧遮那成仏伸変加持経」。七巻。中国の善無毘(637~735)・一行(683~727)訳。代表的な密教経典のひとつで、大日如来が菩薩や眷属(従者)たちに様々な密教の教理を説く。

理趣経 正式名は「大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品」。一巻。中国の不空(705~774)訳。性欲などの人間の欲望は仏教では煩悩として否定されるが、この経典では、そうした欲望も本来は清浄な菩薩の境地に通ずるものであると説いている。

加持 密教では、仏が現実世界に働きかけることを「加」、行者がそれを受けとることを「持」という。転じて、密教の僧侶がおこなう様々な呪法・祈禱などを指す。
(続く)
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
メジロに出会っていました。
動き回るメジロをファインダーでなく、コンデジの小さなモニターで追いかけるのは難しいです。

野鳥の撮影をされている方は、粘り強く野鳥を探しておられます。
一方、私の方は、出会ったらラッキーというレベルですし、
ピントや露出を合わせることができないことが多いです(^^ゞ