2020年12月30日水曜日

急激な変化…

朝、雨が降っていたのでのんびりしていました。
昼近くに青空が見えてきたので出かけることにしました。
今夜から雪が降るとの予報なので、明日のリハビリ散歩は無理かもしれない…

「元日にかけ北部中心に大雪か」(関西NHK)
公園に着く前からフロントガラスにポツポツ雨があたっていたのですが
歩き出すと強風で横殴りの雨に傘をさすのも苦労した。
引き返そうかなと思いながら歩いていると、しばらくすると西の方は青空が見えてきました。
安心して歩いていると、またもや黒い雲が空を覆いだした。
 望月衣塑子さんのTwitterに

この違い

仏リベラシオン紙記者
「大統領は一方的に話をすることも時々あるが、会見は多いときには200人超の記者が参加し、事前の質問通告なく、メモを読み上げることもない。
挙手する記者全員の質問が尽きるまで、自分の言葉で答えます。
それは、政治家の仕事の一部だ」


仏リベラシオン紙記者が酷評「菅首相は本当の記者会見をしたことがない、安倍前首相よりひどい」〟(日刊ゲンダイ 12月29日)
再放送がないので残念と思っていましたが、
「中村哲の声がきこえる」(12月27日放送)の見逃し配信が1月3日午前10:53 まで見ることができます。

昨年12月アフガニスタンで銃撃され亡くなった医師中村哲さん。
戦乱と干ばつの大地に平和と恵みを取り戻そうとする活動の傍らには「ワーカー」と呼ばれる日本人の若者たちがいた。
日本で挫折を経験した者、国際貢献を志した者…その数は100人にものぼる。
中村と共に過ごした歳月は、若者たちをどう変えたのか。
帰国後、さまざまな道を歩む彼らは今、どうしているのか。
人生の意味を探し求めた現代の若者たちの青春群像を追う。
旧暦だと12月は30日までなので今日が大晦日になります。
井原西鶴の『世間胸算用』に大晦日と節分が重なった日の物語があります。
現代語訳で「三 平太郎殿」を転記しますφ(..)
(*)は語注を後で載せます。

なお来年の節分は1日早くて2月2日だそうです。

〝「節分」来年は”2月2日” 例年より1日早いのは124年ぶり〟(NHK)
巻五
 三 
(*)平太郎(へいたろう)殿

 昔の人も(*)「世帯仏法腹念仏(せたいぶっぽうはらねんぶつ)」といっているが、今でもそのとおりだ。
毎年節分の夜は、浄土真宗の寺できまって親鸞上人のお弟子であった平太郎殿の一代記を読んで、その徳をたたえる法話がある。
聞くたびに同じ話なのだが、ありがたいお話なので、老若男女ともに参詣(さんけい)する者が多い。
(『現代語訳・西鶴 世間胸算用』暉峻康隆 小学館ライブラリー27 1992年)
 ある年、(*)大晦日(おおみそか)と節分が重なったことがあった。
掛取りが来るかと思うと、節分の(*)(やく)払いがうろつき、天秤(てんびん)で銀(かね)をはかる音にまじって、「鬼は外」と大豆(まめ)をまく音がする。
気味のわるいことを「暗がりに鬼をつなぐ」というが、まさに今夜がそれで、気味がわるい。
 さて、あるお寺では太鼓が鳴って、住職がお仏前に燈明(とうみょう)をあげ、参詣人の出足を見合わせていたが、(*)初夜(しょや)の鐘をつくころまでに、参詣人はわずか三人しかなかった。
住職は勤行(おつとめ)をすましてから、しばらく世の中の事を考え、
 「さて今晩は一年中のしめくくりの日じゃから、みんな暇がなくて参詣どころではないとみえました。
だが子どもに世帯をゆずって暇になったお婆(ばば)たちは、大晦日だからといって何の用もあるまい。
仏様のお迎え船が来たら、それに乗りたくないとはいわれまい。
それなのにお参りもせぬとは、愚かな人心(ひとごころ)じゃ。
哀れなものだ、浅ましいことじゃ。
……とはいえたった三人に御法話をお聞かせしても仕方がない。
いかに仏の事だからとはいえ、ここが思案のしどころじゃ。
お三人の賽銭(さいせん)ではとても燈明の油代にも足りませぬから、せっかくしゃべってもむだ骨折りというものです。
めいめい賽銭を取り戻して帰ってくだされ。
みんな暮らし向きの事にかまけて参詣もしないのに、あなた方はまったく奇特なことだ。
これでこそ本当の信心というものじゃ。
阿弥陀(あみだ)様もこのいそがしい最中に足を運ばれたあなた方の志を、けっしてむだにはなさらぬ。
閻魔(えんま)の庁にある金(こがね)の台帳に書きとめておいて、未来ではきっと償いをしてくださるから、かならずかならずお見捨てになったと思いなさるな。
仏は慈悲が第一、すこしも偽りはありませぬ。
頼もしく思いなされ」
と、言葉たくみに引き上げさせようとした。
すると三人のうちの一人の婆が涙をこぼし、
 「ただ今のありがたいお話を承りまして、ほんとうに自分の心が恥ずかしゅうございます。
今夜は信心で参ったのではござりませぬ。
一人息子がふだん商売をなまけまして、借金取りに責めたてられ、(*)節季々々にいろいろ嘘(うそ)をついて切り抜けてきましたが、この節季だけは、何ともいいのがれができそうにありません。
そこで私にはお寺へ参れ、そのあとでうちの母親がいなくなったと騒ぎだし、近所の衆を頼んで、太鼓や鉦(かね)をたたき、『(*)お婆を返せ』とどなりながら探し回り、それで夜を明かして大晦日をすまそう。
あんまり新しい思いつきじゃないが、大晦日の夜の『お婆(ばば)を返せ』で借金取りを切り抜けるのはわしの思いつきだと申しまして、私をここへよこしたのでございます。
浮世の義理とはいえ、近所の皆さんに思いがけない迷惑をかけますのは、大きな罪つくりでございます」
といってなげき悲しんだ。
するともう一人の男も、さそわれて話しだした。
 「私の生まれ故郷は伊勢(いせ)でございますが、人の縁ほど不思議なものはありません。
この大坂には親類もありませんのに、信者にお札を配って歩く伊勢の御師(おし)にやとわれ、荷持ちをして参りました時に、ここの繁盛ぶりを見まして、ここならどんな商売をしてでも、二人や三人の家族を養うのはたやすい所だと見込みをつけました。
幸い大和(やまと)へ小間物の行商をしていた人が死んだあとに、二つになる男の子があって、後家も色白でたくましいので、共稼(ともかせ)ぎして暮らし、将来はその子に面倒(めんどう)を見てもらうことを楽しみに、その家に入り婿(むこ)しました。
ところが半年もたたないうちに、勝手のわからない行商のことなので、わずかばかりの元手(もとで)もすってしまいました。
十二月のはじめごろから、何かよい商売でもと考えていますうちに、女房は子どもをあやしながら、『お前も耳があることだから、人のいう事をよくお聞き。小男でももとの父(とと)様は利口であったと思え。女の仕事の飯まで炊(た)いて、女房は宵(よい)の口から寝かせておき、自分は夜明け方まで内職の草鞋(わらじ)を作り、自分の身形(みなり)はかまわずに、女房子どもには正月の晴着をこしらえてくれました。御覧よ、私が着ているこの黄唐茶(きがらちゃ)の着物も、その時の記念(かたみ)だよ。何につけても馴染(なじみ)ほどよいものはない。もとの父様(ととさま)が恋しいと泣け泣け』とあてこすりをいいます。
それでも文句のいえない入り婿の身の上が悲しく、我慢(がまん)ならないところでしたが、ほかに仕方もないので日を過ごしておりました。
そのうち故郷の伊勢に、すこしばかり貸しておいた銀(かね)があったことを思い出し、それを集金してこの大晦日を切り抜けようと思いまして、はるばると出かけたかいもなく、貸した連中は皆、国を出てしまっておりました。
仕方なくまた手ぶらで、ようやく今日の夕飯前に家に帰ってきました。
すると、どう工面したものか、餅(もち)もつき薪(たきぎ)も買い、神棚(かみだな)(*)折敷(おしき)には裏白(うらじろ)が青々と供えてありました。
世の中の事はそれほど心配したものではない。
見捨てる神もあれば、また助けてくれる神もあって、私の留守の間に手際(てぎわ)よく始末してくれたのだと嬉(うれ)しく思い、『無事で帰ってきた』といいますと、女房はいつもより機嫌(きげん)よく、洗足(せんそく)の湯を取ってくれるが早いか、節分料理の鰯鱠(いわしなます)の皿(さら)と塩鰯の焼き物で、心よく膳(ぜん)をすえてくれました。
(はし)を取って食べかけますと、『伊勢の銀(かね)は取ってござったか』といいましたので、『それがどうも』というのを聞くやいなや、
『お前さんよくも手ぶらでのめのめと帰ってこられたものですね。
この米は一斗を二月の晦日に払う約束で、証文に私の体(からだ)を抵当に書き入れて借りたものですよ。
それも世間では一石(*)四十匁の相場の米を、利息を加えて九十五匁の勘定で借りたんです。
そんな米を食うなんて。
お前さんが阿呆(あほう)だから、こんな事になるんです。
持ってござったものは褌(ふんどし)一本だから、このまま出ていかれても損にはなりますまい。
夜になると暗くなります。
足もとの明るいうちに出ていきなされ』
といって、食べかけた膳をとり上げ、追い出しにかかりました。
そこへ近所の女房どもが集まってきて、『これは御亭主(ごていしゅ)にはお気の毒だが、入り婿になったのが不運とあきらめて、出ていかれるのが男というものじゃ。またよい口もありましょ』と、女房といっしょになって、私を追い出してしまいました。
あまりの事に涙も出ず、明日は故郷へ帰ることにしましたが、今晩とまる所がありませんので、私は他宗に参詣してはいけない法華(ほっけ)宗ですけれども、ここへ参りました」
と、わが身の上を懺悔(ざんげ)したのは、哀れにもまたおかしかった。
 最後の一人の男は、げらげら笑いながら話し出した。
 「私の身の上は、お話なりません。
今夜うちにいますと、ほうぼうから押しかけてくる借金取りが、とても生かしてはおかない身の上なんです。
といって、どちらへお願いしても、銭(*)十文貸してもらえる所はなし、酒は呑(の)みたし身は寒し、いろいろ悪事をたくらんでみましたが、年を越せそうにありません。
まったく浅ましい思いつきですが、今夜はお寺に平太郎殿のお話があって、参詣人が集まるだろう。
その草履(ぞうり)や雪駄(せった)を盗んで酒手(さかて)にしようと心がけたのですが、このお寺にかぎらずどこのお寺へ行っても人影がなく、仏様のごまかすことはできません」
と、身の上を語って涙をこぼした。
 三人の話を聞いた住職は、すっかり心を打たれて、
 「まったく貧乏だといろいろ悪心が起こるものだ。
おのおの方もみな(*)仏の心を持っておられるのだが、仕方のない世の中だ」
といいながら、つくづくと人の世のあり方に思いを馳(は)せられておられた。
すると女があわただしく走ってきて、
 「姪御(めいご)さまがただ今やすやすと御安産なさいました。お知らせします」
という。
そのあとから、
 「(*)箱屋の九蔵が、たった今借金取りと口論しまして、首をくくって死なれました。
夜中すぎに葬式をいたします。
御苦労ですが火葬場(やきば)までおいでください」
といってきた。
かれこれやかましい最中に、仕立屋がやってきて、
 「御注文いただきました白小袖(こそで)を、ちょろっと盗まれました。
調べて見つかりませなんだら、銀(かね)で立替えまして御損はかけません」
と、ことわりをいいにきた。
すると寺の東隣から、
 「お願いします。
今晩にわかに井戸がつぶれました。
正月五日まで水をいただきたい」
といってきた。
 そのあとから、この寺のいちばん大事な檀家(だんか)のひとり息子が、放蕩(ほうとう)して金を使い過ぎ、勘当されるというさんざんな始末になって、大坂を立ちのくところを、母親が手を回して正月四日まで預けによこした。
これもいやというわけにはいかず、この世に住んでいるからには、ひまものとされている師走(しわす)坊主も、ひまのないことである。
 平太郎殿 親鸞上人の常陸(茨城県)在住時代の在俗の弟子真仏。藩主の命令で平太郎が熊野神社に参詣して、神と親鸞上人の対話の様を夢見たのは、仁治元年の節分の夜のことであったというので、浄土真宗の寺では毎年節分の夜に平太郎の事跡を語った。

 世帯仏法腹念仏 諺。仏法を説くのもつまりは生活の手段の意。

 大晦日と節分が 元禄4年以前に大晦日に節分が重なった年は、寛文2年12月29日(小の月)と延宝元年12月30日である。

 厄払い 大晦日や節分の夜、厄払いの文句を唱えて米銭を乞うた。

 初夜 午後8時ごろ。

 節季々々に 盆と暮れのほかに、3月3日、5月5日、9月9日の節句の前日は支払日。

 お婆を返せ 行方不明になると、神隠しにあったり天狗にさらわれたと考えたので、鉦(かね)・太鼓をたたき、「誰々を返せ」と連呼して探し回った。

 伊勢の御師 伊勢神宮の下級神職。太夫ともいい、全国にそれぞれ受持ち地域を持っていた。

 黄唐茶 黄褐色。

 折敷 神饌(しんせん)を供えるへぎ板製の角盆。

 四十匁 元禄4年当時の一石の代銀。約7万2千円。

 十文  270円ほど。

 仏の心 「一切衆生、悉皆仏性」(涅槃経)。

 箱屋 箱や机や簞笥などを作る指物細工の職人。
(「世間胸算用大晦日ハ一日千金 (100/109)」 国立国会図書館)

大晦日の夜、借金取りを逃れるために老母が神隠しにあったと偽り、近所の衆を動員した「お婆を返せ」の一行。
(『現代語訳・西鶴 世間胸算用』暉峻康隆 小学館ライブラリー27 1992年)