2020年12月16日水曜日

冷たい風に

今朝も風が冷たくて体感温度はさらに寒さを感じるほど。
雪こそふらなかったけど、田んぼに氷がはっていました。

16日も近畿北部は雪続く 積雪さらに増える」(えりの気象日記 12月15日)
ドイツ大使館のTwitterに

#メルケル首相 の演説より:
「...クリスマス前の人との接触が多すぎ、その結果、今年のクリスマスが祖父母と過ごした最後のクリスマスでした、という事態になってしまったら、それは打つべき手を打たなかったということです。そうならないようにすべきです..」

日本語の字幕がついています。
国民の安全を思う気持ちがビンビンと伝わってきます!
  メルケル首相の演説を聞いていると、
日本の首相や大臣のように事前に質問内容を提出させて、官僚の準備した回答文を読むのでは
外交の場で相手と太刀打ちできないのは無理ないと思います。
記者などが甘やかすから、アメリカやロシア、中国にいいカモにされるだけ。
昔、佐藤栄作氏が新聞記者は自分の話を伝えないと言った時の記者団には気概があった。
(その時もNHKは首相のお気に入りだった…)

長期政権の終えん 佐藤首相退陣」(NHKアーカイブス 1972年)

ちなみに浮世絵EDO-LIFE
怪談話!芳虎“新板子供遊びの内 百物がたりのまなび”
江戸時代、大人の真似をして怪談話をすることも「まなび」とされました。
相手に分かるように話す、相手の話をきちんと聞く。
コミュニケーションの学習で一番大事なこと。
続いて『梅原猛、日本仏教をゆく』より
空海 神仏一体化した日本人の精神の故郷」の続きを転記しますφ(..)
 私は、真言密教の日本の思想に対するもっとも大きな影響は、真言密教によって神と仏が一体となったことであると思う。
6世紀半ばに移入された仏教は従来の日本の神道とトラブルを起こし、その結果、蘇我(そが)・物部(もののべ)の戦いという宗教戦争が起こり、戦争は蘇我側、仏教側の完全な勝利に終わったが、神と仏との関係はその後も多少ぎくしゃくしていた。
しかも東大寺建造にあたって、応神(おうじん)天皇を主神として祀る宇佐八幡(うさはちまん)が宇佐から上京し、天神地祇(てんじんちぎ)を代表して東大寺建造を祝福して以来、神と仏の新しい蜜月関係が生まれたのである。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
 この蜜月関係は空海の真言密教によって決定的となる。
東寺の境内(けいだい)にある鎮守八幡宮(ちんじゅはちまんぐう)は平城一派の人々の怨霊の鎮魂のために空海が建てたものとされるが、そこに空海が造ったという僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)がある。
僧形八幡神像というのは宇佐八幡の主神、応神天皇が僧形になったものであり、これほど神と仏の合体を明らかに示すものはない。
 この神と仏の共存には、仏像が金銅(こんどう)や乾漆(かんしつ)ではなく木で造られたことが一役買っている。
日本の木彫仏は、東大寺建造に関わった行基(ぎょうき)あるいは行基集団が、頭が異様に長いとか耳が異常に大きいなど、異相をした素木(しらき)の仏を数多く造ったことに始まるが、それが空海に受け継がれる。
密教寺院には金銅仏などはなく、ほとんどすべて木彫仏である。
日本人にとって木はもともと神を宿すものであり、仏像が木で造られることによって神と仏はまさに一体化したといってよい。
そして日本人にとって神は異形の姿をしていると考えられ、異形の行基仏や密教の仏などは神に近いものと考えられたのであろう
 神と仏はこのように空海以来、多少の曲折があるものの、仲よく共存していたが、明治維新政府は神仏分離、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の政策をとることによって神と仏を分離し、仏を廃棄してしまった。
この政策の影響は今なお根強く残っていて、現在でも仏教は公教育から締め出され、一木一草の中に神仏をみるという、千年の間、日本人の心性を培った信仰は失われてしまった。
 現在、日本人の精神の空白がしきりにささやかれるが、空白を回復するには神仏分離、廃仏毀釈の政策を深く反省し、神と仏の融合を図った空海の思想を復活させねばならないであろう。
 果てしなく広い空と海という、大日如来のような名を自らにつけたと思われるこの空海という巨大な思想家は、日本人の精神の帰るべきところを強く示唆しているのである。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
12月16日
 東京の白木屋(しらきや)デパートで火災、大惨事となった。 1932(昭和7)年

 東京日本橋の白木屋本店(今の東急デパート日本橋店)で、この日、開店まもなく4階の売場から火災がおきた。
高層建築の火災はこれが初めてだったから、防火設備も消火体制も不十分で、火はたちまち上の階へともえうつって、おおごとなった。
 買物客・従業員の中に死者14名重傷者21名が出たが、デパートの女子従業員は当時まだ和服だっため行動が不自由で逃げおくれ、煙にまかれて死ぬものが多かったのである。
この惨事をきっかけに女性の中にも洋服を着る風習が広まりだした。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
 『B面昭和史 1926-1945』より「非常時ならざる非常事」を転記しますφ(..)
続いて最後に出てくる「八重子」さんについて「天国に結ぶ恋」の一部を転記しますφ(..)
転記しながら、コロナ禍の今、SNSで蔓延している誹謗中傷と重なるなと思いました。
第2話 赤い夕陽の曠野・満州 昭和5~7年
 ●非常時ならざる非常事


 昭和5年生まれのわたくしなんか、物ごころついたときから、すでに「非常時」のなかにいたような気がしている。
いまは非常時なんだからといい聞かされて、ずっと我慢を強いられていた。
 非常時とはそも何なるか。
国家の危機、重大な時機にちがいないが、いまから観ずれば因果はめぐっていわば自業自得にひとし。
いや、自己責任というべきか。
6年の満州事変にはじまって、7年の上海事変、血盟団事件、満州国の強引な建設、五・一五事件、国連脱退で孤立化へと、日本帝国は軍事大国化への坂道をひたすら走りぬけた。
民草はそれについていった。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 そしてまた、この7年の国家予算は、過去の最高であった3年の18億1千4百万円を上回った19億4千3百万円(うち満州事変関係は2億7821万円)。
そしてこの年11月に編成された8年度予算はさらにはね上がって22億3千8百万円という巨額になる。
新聞は「日本はじまって以来の非常時大予算」と報じた。
とにかくものすごい額である。
 これが「非常時」という言葉が流行する端緒であったらしい。
目ざとい陸軍報道班や官僚どもはさっそく「非常時」とさかんに吼(ほ)えだした。
つまり非常時日本は昭和7年からスタートしたことになる。
そして小学校教育にも徹底した軍事教育を導入していこうとする動きに連結していく。
文部省が「青年学校」の設立を計画しはじめるより先に、広島市観音町第二高等小学校では、この年の終りにすでに全国小学校初の非常時軍事教練が行われていた。
 まだ小学校入学によほど遠いわたくしは教練にはとりあえずセーフであったし、まわりには非常時の声ばかりとかいたのは、少々お先走りの気味があったようでもある。
中央や山の手あたりと違って、そこは隅田川の向こう側、下町気風がまだのんびり横溢(おういつ)していた。
そこでさっぱり非常時らしくない話となるのであるが、わたくしの母は売れッ子の産婆さんで、「先生、もう生まれちまいまさ」と真夜中に叩き起こされて眠い眼をこすりこすり飛び出していくことが多かった。
発展途上の向島は産めよ殖(ふ)やせよであったのかもしれない。
「どうして赤ん坊って夜中に生まれるのかなあ」と悪ガキになりかかりのわたくしの質問に、母はうるさそうに「潮の満干によるんだよ。いま満潮なんだろうよ」と答えていた。
 そんな母あてによくあやしげな裸女の絵つきの薬だかの広告が郵送されてきた。
それにこんなことがかかれていた。
 「形小さく中味たっぷり/お外出にお旅行にピクニックにお芝居に/忘れることのできない〇〇綿です」
 いったい、これ何なのかな、と女体をためつすがめつ眺めているのをひったくって、母は男みたいな底ごもった声で叱った。
 「お前なんかに関係ないもんだよ」
 いま考えれば女性の生理用の綿の広告であったのである。
と、思えば、「堕胎の公認は女子の幸福か? 処女・非処女の鑑別法」という雑誌の広告が載っていたのを先ごろ見つけた。
これが雑誌論文(?)の見出しであったのである。
誌名をみて思わずニヤリとした。
昭和7年6月号の「婦人公論」。
ハハーン、こんなことが主要テーマになっていたんであるな。
 もう一つ、およそ国家非常時と縁もゆかりもない非常時の話。
「和服の際にも、女性はズロース着用のこと」という町内の盆踊り大会などの当時のチラシを古本なんかで見つけたりする。
年表(平凡社版)をみると、この年の12月16日、歳末大売り出しの中の日本橋白木屋(しろきや<のち東急百貨店、現在はコレド日本橋)に大火事があり、そのあとにこの種の注意書きが出回ったというのである。
消防車33台、梯子車3台、消防士3百人余がかけつけ、近衛三連隊の一個中隊と軍用機7機が出動、結果として女店員14名が死亡、重軽傷者百数十人を出す、というから、ある意味では、これこそがまさに非常事。
 さて、これら気の毒にも亡くなった女店員たちは、だれもが和服でつとめていた。
火事となって救命ロープにつかまって脱出しようとしたとき、煙火の勢いで着物の裾が煽られまくれるのを押さえようとしてつい片手を離した、そのために墜落――ということで気の毒な事故となったというのである。
彼女たちはズロースをはいていれば死ななくてすんだのに……。
 これで以後、「ズロースをはけ」が自然に流行語になり、白木屋では女店員はズロースをはくことが義務となったとか。
ズロースをめぐってこんな駄ジャレ話が語りつがれた。
 「『天国に結ぶ恋』の彼女はズロースをはいていたのだろうか」
 「はいていなかったに決まってるよ」
 「ヘェー、なぜわかる?」
 「美人はくめい(薄命)」
 念のためにかくが、八重子さんはちゃんと和服の下にズロースをつけていたという。
彼女がミッションスクールに通い、寄宿舎生活もしたという経歴があったためなのある。
 非常時にふさわしからざるムダ話ともみえるであろうが、軍国化への道を急ぐ日本にもまだそれくらいのんびりしたムードが民衆生活の間には漂っていた、そのことがいいたかったのである。
 ●「天国に結ぶ恋」
(前略)

 ふたりの恋は 清かった
 神様だけが 御存知よ
 死んで楽しい 天国で
 あなたの妻に なりますわ

 この純情可憐そのものの歌詞なら、歌えないまでも一度や二度は耳にし、あるいは眼にした方があるのではないかと思われる。
 当時は柳水巴の作詞となっていた。
いまはこれが西条八十の変名であったと明らかにされている。
早田教授の肩書をもつ本命では、さすがに「ふたりの恋は清かった」と甘ったるい文句はかけなかったのか。
それとも、満州国建設をめぐって国連から調査団来日という厳しい時局に国家が直面しているとき、死ぬほど愛し合いながら純情な若い男女が清浄のままで世を去った、などというロマンスを謳歌できる気持ちに教授としてはなれなかったのか。
 (中略)

五所平之助監督、竹内良一・川崎弘子主演でただちに撮影開始で、製作日数12日、事件の一ヵ月後には封切りでこれが大ヒット、主題歌「天国に結ぶ恋」は当時の日本人で歌わぬものなし。
川崎弘子の回想がある。
 「映画のラストシーンで、二人が手をつないで坂田山の山道を登ってゆく姿でした。今ならもっと濃厚に撮ったのでしょうが、検閲がきびしい時代でしたらね。でも、清純さは出ました」
 ところが映画はしばらくして上映禁止となってしまう。
「天国に結ぶ恋」を歌いながら坂田山で心中したり自殺するものがふえたからである。
この年だけで20組の心中があったという。
ただならぬ時局なのに、心中沙汰とは何事か、というわけである。
 流行というもの、人びとの熱狂というものの不可解さはいつの時代でも変わらない。
数年つづきの不景気で先行きが不安の上に、満州事変にはじまる軍靴の音の高まり、国際社会からの孤立化の恐れ、血盟団によるテロ事件、そしてときの首相が軍人によって暗殺されるという五・一五事件もあって、世はギスギスするいっぽうである。
そうしたときに人はややもすると感傷過敏になるのであろうか。
清く美しくはかないものに憧れ、すがりたいと思うのであろうか。
 ところで、ここで一つ、坂田山心中の裏話を明かしておきたい。
わたくしがまだ編集者であったころ、この事件のヒロイン湯山八重子の実の姉さん(井手ちゑさんといった)を尋ねあて、無理に原稿をお願いしたことがある。
わたくしが編集した古い雑誌にそれは残っている。
そこからいくつか知られざる秘話を。
 「警察では、心中事件の恥をかくすために湯山家が、八重子の遺体を隠したのではないかと疑っていました。無遠慮な新聞記者は私の家に押しかけてきて、奥の部屋や押入れを見せろというのですよ。まるで犯人あつかいでした」
 「この事件で、湯山家と私が純情な二人に無理解で、結婚を許さず頑固だっため起こったのだと報道され、世間の非難を浴びることとなったのです。でも、ほんとうは八重子は身体が弱くて結婚に自信がなく心から悩んでいたのです。世の中はそうとは知りません。それで映画がつくられ、気になった私たちは試写会へでかけてみました。思ったとおり、八重子は悲恋のヒロインで家族にいじめられている。私は本名で登場し、邪険な姉の役が演じられていましたね。街をあるけば人にうしろ指をさされ、脅迫や中傷の手紙がつぎつぎに舞いこむ。宗教の勧誘までありましたよ」
 「八重子は葬儀のあと、遺骨の花嫁となって調所家へ嫁しました。多摩墓地の墓石には『調所五郎 妻八重子之墓』とあります。お葬式が八重子の結婚式になったのです」
 暗い経済状態、日々の貧しさ、聞こえるのは軍靴やサーベルの音、荒々しい吐息、不安や閉塞感が強まると、人は何かに煽動され、事実を確認することもなく、攻撃的になるものか。
しかも匿名で、それは時代状況がどう変わっていようと同じらしい。
しかも往々にして攻撃的な人びというのはなぜか過剰な自己愛をもち、自分が正しいと信じきり、幸福そうな人が我慢のならぬ羨望型の人が多いように思えてならない。
  井手さんの回想のお終いはこうである。
 「先年、私は子供や孫たちとバスを借り切って静岡に旅行したことがあるんです。バスが大磯にさしかかると、なにも知らない女の車掌さんが坂田山を指さしながら、例の唄をうたい、八重子と五郎さんの悲恋物語を説明してくれました。そのなかでも、やはり私たちは悪役としてあつかわれていました。汚名はいつまでも消えませんねえ」
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)

湯山八重子の写真」(「文藝春秋『昭和』の瞬間」より 文春オンライン)