2020年12月4日金曜日

冬なんだけど…

陽ざしを浴びて歩いているとポカポカしてきて一枚脱ぎました。
木陰で休憩すると、風が冷たくて冬だな思いました。

4日 日中もヒンヤリ」(えりの気象日記 12月3日)
こんな時期に、ナツアカネかな?
ピントが甘いので分かりにくいのだけど…
それにしても寒いだろうなぁ…
大阪に赤信号が出ました。

専門家「もっと早く出すべき」〟(関西NHK)

なかのとおるさんが11月18日のTwitterに

ちょっと笑いそうになって、最後に泣きました。

と引用していたあおむらさきさん

大阪における『維新のコロナ対策』を見ると

これを見ていると「大阪モデル」はVer.4なんですね…
5月5日 Ver.1、5月23日 Ver.2、7月3日 Ver.3、7月28日 Ver.4
(住民投票11月1日、黄信号)
山中伸弥さんの
新型コロナウイルス情報発信:報道から学ぶ
大阪モデル 結果を見て基準を変更!(5月24日各社)」に、

結果を見てから基準を決める。
科学でこれをすると信頼性が揺らぎます。
この報道が本当であれば、大阪府の対策が、科学から政治に移ったことを意味します。
大阪府民として非常に心配です。
人は権力や上司に忖度するかもしれませんが、ウイルスは遠慮ありません。


コロコロと変えたのは、住民投票を実施するためにと思うのは間違っているかな?
そう思うのは私だけでなく

内田樹さんのTwitterに

おはようございます。
大阪で医療非常事態宣言が発令。
もうすぐ医療崩壊しそうなので感染しないように外出自粛してくださいとのことです。
医療崩壊のリスクを防ぐためにあらゆる手立てを尽くすべき時期に不要不急の住民投票で貴重な時間と予算を空費したことへの反省の言葉は?
今日から外出自粛なんですが、
新型コロナが重症化してしまう人に不足していた「ビタミン」の正体〟(NewsweekJapan 横尾正 PRESIDENT Onlineより転載)
という記事にあるビタミンDは、

ビタミンDの上手な摂り方」(監修:浦島充佳)
日光にあたりなが1日20分程度、散歩をするのがいいようです。

サプリメントに頼りすぎると
ただし、ビタミンDなどの脂溶性ビタミンは体にたまりやすい性質があるので、一度に大量に摂取することや尿路結石の既往のある方は注意が必要です。
12月4日
 近江(おうみ)国の西村源兵衛(げんべえ)が畠(はたけ)一枚を今堀惣(いまぼりそう)に売り渡した。 1556(弘治<こうじ>元)年
 
 滋賀県の八日市(ようかいち)市に属する今堀という部落がある。
そこに建てられた日吉(ひえ)神社に保存されてきた古文書(こもんじょ)の群の中に、この日、西村源兵衛が畠一枚を今堀の惣に売却した、売却証文が残っている。
 売買対象の畠は「一畔」と書かれている。
「ひとあぜ」または「ひとくろ」とよむのだろう。
おそらくひとくぎりのことである。
売値は銭(ぜに)一貫文(いっかんもん)
ただし、惣が買ったのはこの土地から受けとる「加地子(かじし)八升」だった。
つまり地主として加地子とよぶ一種の小作料をとる権利である。
小作人は別にいるのである。
加地子を計る枡(ます)は「茶や升(ます)」という枡だと記されている。
このころはその土地でいろいろの枡が使われていた。
買主が今堀惣という村落共同体であったことも面白い。
室町時代末期、とくに近江では惣結合が発達し、惣掟(そうおきて)をつくったり、惣として土地をもつことが多かった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「加地子」という言葉を知りませんでした。
戦国時代』に「公方年貢と加地子」と「村の蔵本」があったので転記しますφ(..)
惣・一揆と下剋上の社会状況
 公方年貢と加地子


 そこでもうすこし経済動向に立ち入ってみよう。
このころ、土地の領有関係は、はげしい経済変動や政治的動揺の結果、おそろしく複雑になっていた。
かつての荘園領主は山城・大和など畿内の一部をのぞくともうまったく衰弱し、ほとんどの場合自分の手による年貢の取り立て能力を失っていた。
以前に都の荘園領主が収納していた年貢の大部分は、戦国対名の直轄地なら大名自身、知行地(ちぎょうち)なら給人(きゅうにん)、独立的な国人領ならば国人の領主の手許に入るようになった。
しかし場合によっては、村の寺院や有力名主などがこの権利を買い入れて、その上部には年貢を支払う領主がいないケースもある。
伝統的な荘園制秩序が崩れ去ってしまったのだから荘園年貢の徴収権をだれが手に入れるかは、身分の問題ではなく、武力や経済力の問題に他らなかった。
それにしても、だれが手に入れるにせよ、かつての年貢にあたる部分が存在したことにはかわりない。
この部分はこの時代は「公方年貢(くぼうねんぐ<本来の領主権者に納める分>)」とか「本年貢(ほんねんぐ)」とよばれるようになった。
「公方」とはもともと将軍のことをさすが、ここでは、その時々の現実的な支配者が「公方」であった。
そこにも世の移り変わりがあらわれている。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
 またそれと同じ土地について「加地子(かじし)」とよぶ地代を取る地主的な権利がひろまってきた。
一般の農民と荘園領主との中間に加地子(あるいは「名主加地子」ともいう)という取り分がひろく成立しだすのは鎌倉末~南北朝時代のころからであるが、戦国時代にはそれがさらに一般化したのである。
しかも一反あたりの取り分を見ても、「公方年貢」が三~五斗(と)程度で固定していたのに対し「加地子」はしばしばそれを上まわる量となった。
それは荘園領主が無力になっていったのに対し、加地子を取る村の有力者たちは、反当たり収量の増加につれて、実力と同時に契約=取り引き関係を通じて加地子額を引き上げていったからである。
その結果、「加地子」の収取権者も流動化した。
「加地子」の収取権の持ち主は在村の寺社や名主だけでなく、かつての荘園領主や国人・地侍も、時としては貨幣でこの権利を買い集めたり貸金の代わりに受け取ったりすることがあった。
永正4年(1507)の山城の国「上久世荘散用帳(かみくぜのしょうさんようちょう)」という史料によると、京都の東寺(とうじ)は、領主権をたてなおすために、本来の取り分である「本年貢」(「公方年貢」にあたる)の権利のほか、「加地子」の収取権を、みずから大量に買い集めたり年貢の借金の払えない者から差し押さえたりして、総面積56町歩余りのうち、37町歩の加地子権を手に入れている。
上久世荘は、東寺にとってひざもとの庄園で、窮迫する寺院経済の最後の拠点となっていたから、このように徹底したことをやったのであろう。
もちろん荘園領主が当時、どこでもこんなことをやったわけではなく、逆に本年貢の権利まで質入れしたり売却したりするケースのほうが多かった。
 この「本年貢」と「加地子」とを合計したもの、すなわち東寺が加地子権を手に入れて農民からこの両者をあわせ取るような場合、これを「分米(ぶんまい)」とよんでいる。
「分米」は、多くの場合、直接耕作者から取る年貢・地代のすべてになるから、東寺として、この場合には他の中間の権利者を排除し得たことになる。
このように直接耕作者からの年貢・地代の収取関係を一本化することになる「分米」の収取権を確保するのが、没落しつつある荘園領主のみならず、土地の支配を目ざす大名においても理想である。
秀吉の太閤(たいこう)検地はそれを実際に全国一律のかたちで実現しようとしたのである。
 村の蔵本

 このころのように、農村でも貨幣の必要が高まる一方、作柄や物価の変動がはげしく、それに加えて戦争による臨時課税や人夫・兵士の徴発も少なくない、という状況のもとでは、農民の生活は不安定であった。
貧しいものはたえず餓死や没落の淵(ふち)にのぞんでいたが、豊かな者はますます富んだ。
 阪和(はんわ)線で堺市から和歌山にゆく途中に熊取(くまとり)という駅がある。
この付近一帯は中世では和泉国熊取荘とよばれ、豊かな自然にめぐまれた畿内型の農村であった。
その荘の中心の御門(ごもん)という集落には江戸時代に大庄屋(おおじょうや)を勤め、今日もその住宅が文化財に指定されている中(なか)家がある。
この中家には戦国時代から江戸時代にかけての膨大な古文書、とくに土地買入証文類が多くのこされている。
それによると、中家には前ページの表(省略)にみられるように、16世紀を通じて活発に加地子収取権を買い入れている。
一枚一枚の買入証文に耕地の広さが記されていないものもあるため、面積でどのくらいなるか確定できないが、毎年着実に土地を買い集めていく姿はよく分かる。
買い入れた土地は、周辺の村々にまでひろく分散していた。
この部分については中家はかならずしもみずから経営するわけでなく、居村分などを除けば他の大部分は一種の不耕作地主的な立場にあったわけである。
  中家はこのような加地子権買入れは、主として、同家の金融活動によっていたらしい。
同家の文書の中の一つに、天文22年(1553)9月27日付の算用状(計算書)がある。
  リフン(利分)二文子(もんこ)
   合料足四十三貫七百丗一文
   同米六石三斗二升二合五勺(しゃく)
右件銭米者来秋中返才(済)可申候、
        野田宮刀禰(とね)より
 蔵本中左近殿
 これによると、野田宮の刀禰は中家からかなり多額の銭(ぜに)と米とを来秋までということで借用している。
「リフン」(利子)は二文子すなわち100文につき月2文という条件である。
二文子というのは一般の例からすれば比較的安い利率だが、中家は「蔵本(くらもと)」とよばているところからみて、銭や米穀の貸付業をいとなんでいたにちがいない。
もともとは地元の年貢を収納し、これを売りさばいて銭に換えて納める仕事が主であったが、やがて金融活動のほうが本業化したのである。
天文24年には、紀伊国名草(なぐさ)郡にあった岩橋(いわはし)荘の半分を根来(ねごろ)寺の大弐公(だいにこう)からまとめて買い込んだりしているから、相当手びろく活動していたようである。
  こうした蔵本は、村人たちの不安定な経済条件のもとではなくてはならないものであり、各地域の中にひろく発見できるようになってきた。
それは地主兼金融業者という、江戸時代の農村にひろく発見できるようになってきた。
ただこの時代では、中家のように加地子収取権を買い取っても、自分の直接経営地はひろげないというタイプは、主に経済的先進地に見られるものであった。
関東の北条領の場合、貫高制の年貢や段銭など、領主側に強制された貨幣納入に耐えられなくなった農民のなかに負債が累積し、その結果欠落ちする事例がたくさんみとめられる。
このあたりの村では、土豪・地侍層が蔵本として金融機能をいとなみ、その結果質流れになった土地を手に入れると、多くの場合は周辺の小百姓や下人を使って経営した。
それは本年貢のうえに加地子までを安定的に払いきれないような生産力の低い村に多いケースである。
当時の農村には、地主的な性質をもつ上層民と、独立の耕作者であるが経済的にたえず不安におびやかされている中下層農民という、二階層がひろく形成され、それらが、地位・権限などを異にしながら、「侍分」と「地下分(じげぶん)」という前述の村の基本的な二階層を生みだしたのである。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ビワの花にメジロがやってきているのですが、花が小さいので忙しく動き回ります。
虫がほとんどいない冬の時期に咲くのは、メジロなどが受粉の手伝いをしてくれるからです(鳥媒花)。

嬉しいニュースを追加