2020年12月3日木曜日

冬だけど…

だんだん蒲団の中から出るのが辛くなってきましたね(^^;
それでも風がなくて青空だと気持ちいいです(^^)v

3日は冬らしい天気」(えりの気象日記 12月2日)
 Eテレ0655のオープニングで教えてくれたのが

冬はやっぱりみかん。
ちなみに、食べるときに、袋や白い筋を捨てている人はいませんか?
袋や白い筋には、「ヘスペリジン」という成分が含まれていて、高血圧や動脈硬化を予防する効果があるそうですよ。


私にとってNHKの受診料を払っているのはEテレの番組を見るため。
ところが、週刊誌の広告に載っていたけど

菅首相ブレーンのNHK改革案「Eテレ売却で受信料は半額にできる」〟(マネーポスト 12月3日)

総合テレビは、政府に忖度したニュースを垂れ流ししているけど、Eテレは、報道人の良心を見せている。
政府にとって煙たい存在だから、いつかこういうことを言い出すだろうなと思っていました。

新日本婦人の会のTwitterに

良番組をたくさん提供してくれているEテレ売却を提案するのがブレーンだなんて、菅政権がどんな政権かお察し…

国鉄民営化でも地方の赤字路線を守らなかった結果が、過疎化を拡大させたと思っています。
12月3日
 諏訪大明神(すわだいみょうじん)の神渡(みわた)りがある。 1456(康正<こうしょう>2)年

 諏訪湖は12月(陽暦)の末ごろから結氷し、1月に入ると湖面に長く盛り上がった亀裂が生ずることがある。
これを今でも御神渡(おみわた)りといっているが、人々は、古来、上社(かみしゃ)の男神が下社(しもしゃ)の女神のもとにかよう神の道と考えたのである。
 今から520年以上も昔の史料にもそのことが記録されている。
その年は11月29日(陰暦)に結氷し、この日、神渡りがあったが、諏訪神社の大祝(おおはふり 神官)神頼長(じんよりなが)はすぐこれを、京都の幕府まで報告している。
諏訪神社は、律令(りつりょう)以前から人々の崇敬を集めて地方文化の中心となっていた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
諏訪湖 御神渡り 神が渡る氷の道~八剣神社 御神渡神事」(NHK みちしる 2011年放送)

御神渡りの参考文献を見つけられなかったので
12月3日は、「東西冷戦の終結を宣言」(1989年)。
戦後と高度成長の終焉  日本の歴史24』より「冷戦の変容から終焉へ」を転記しますφ(..)
第4章 政党再編への胎動 
 冷戦の変容から終焉へ


 1975年のヘルシンキ宣言は、ヨーロッパにおける米ソ間の合意成立を象徴していた。
他方、アジアにおいては、米ソ関係はどう推移していただろうか。
(『戦後と高度成長の終焉  日本の歴史24』河野康子 講談社学術文庫 2010年)
 1970年代後半、東南アジアをめぐる米ソ両国の対応は、アメリカのヴェトナム撤退による空白に、ソ連が介入するかたちとなっていた。
ヴェトナム統一の3年後、1978年には、ソ連とヴェトナムとの間に友好協力条約が結ばれた。
これにより、ソ連のヴェトナム対する支援が、カンボジア問題に影を落とすことになる。
カンボジアは、1976年1月、民主カンボジアと国名を改め、4月にはポル・ポト首相が就任した。
中国は、ポル・ポト政権を支援する。
これに対して、1978年12月には、ヘン・サムリン救国民族統一戦線が、ポル・ポト政権打倒を掲げて発足、これをヴェトナムが支援するかたちとなった。
一方で、同年12月から翌年1月にかけて、ヴェトナムがカンボジアに侵攻、カンボジア国内では、中国が支援するポル・ポト政権に対して、ヘン・サムリン政権が対峙(たいじ)し、ヘン・サムリン政権をヴェトナムが支援する。
そして1979年1月には、ソ連とヴェトナムの支援のもと、カンボジア人民共和国が成立した。
これに対して中国は2月、ヴェトナムへ侵攻し、中越戦争となった(3月に中国軍は撤兵)。
カンボジアは、この時期から1991年10月にカンボジア和平協定が実現するまでの間、内戦状態に置かれることとなったのである。
 他方、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻は、1989年2月のソ連軍撤退まで10年にわたるソ連のアフガニスタン支配をもたらした。
 このように、ヨーロッパにおける冷戦と比べ、アジアにおける冷戦は著しく不安定に展開した。
ヨーロッパでヘルシンキ宣言という米ソの合意が実現したのは、戦後、この地域で国境線をめぐる紛争がほとんど存在しなかった事情が背景にあった。
これは、ヨーロッパでの冷戦が文字どおり冷戦、つまり軍事衝突を生じない心理戦であったことを意味している。
それに対してアジアにおける冷戦は、相次ぐ新興独立国の誕生などの事情から、国境紛争としての軍事衝突が現実に続発してきた。
朝鮮戦争・ヴェトナム戦争など、アジアにおける冷戦は、言葉とは裏腹に、熱戦に他ならなかったのである。
 こうして二つの様相を帯びた冷戦であったが、これは1989年、ソ連のアフガニスタン撤退と東欧革命を契機に突然、ヨーロッパの一角で終了することになる。
 冷戦終焉は、ソ連の指導者にM・ゴルバチョフという人物が登場したとき、その実現が確定したといえよう。
ゴルバチョフ最高会議議長は、アフガニスタン撤退から約半年後の1989年10月、東ベルリンで行った演説で、東欧政策の画期的な転換を表明した。
ブレジネフ・ドクトリンの放棄である。
ブレジネフ・ドクトリンとは、1968年にソ連軍がチェコに侵入した際、当時のソ連共産党書記長ブレジネフが宣言した「制限主権論」である。
つまり、東側陣営に属する諸国の国家主権は、社会主義建設の大義によって制限されるとされ、これが以後のソ連と東欧の関係を再確認していた。
 ゴルバチョフ議長がこれを放棄し、東欧の各国に完全な主権を認めたことは、ただちに次なる事態をもたらした。
翌11月、ベルリンの壁が崩壊し、西ドイツとの国境が開放されたのである。
12月にはマルタ島で、G・ブッシュ米大統領とゴルバチョフ議長との首脳会談が実現し、ついに冷戦は終焉することになった。
 東欧諸国が歓喜で迎えた冷戦の終焉は、やや時間を置いて、日本にも波及する。
しかも、当然のことながら、それはヨーロッパとは異なる文脈に読み換えられて波及することとなる。
その過程は、4節と終章でみることにしたい。
(『戦後と高度成長の終焉  日本の歴史24』河野康子 講談社学術文庫 2010年)
今朝の父の一枚です(^^)v
アトリを見つけていました。
私もメタセコイアの下を通ったのに気がつかなかった(^^ゞ

リハビリ散歩の途中で携帯を見るとSIMカードの読み取りエラーになっている…
電池ボックスを開けて、SIMカードを抜き差しすると直ったのだけど、先週から数えて4回目。
帰宅後、ショップに電話をして、午後から店に行き、SIMカードを交換してもらいました(無料)。