2020年12月19日土曜日

早咲きではないのだけど…

白いのが見えると思って近づくと梅が咲いていた( ゚Д゚)
この白梅は早咲きではないはずなんだけど…
いつもなら2月ごろの咲いている…

(「梅の開花前線@日本列島」梅の月向農園))
 Rie(りえ)さんのTwitterに

周庭から手紙が届きました。
外から刑務所に入ったので投函時はコロナ対策の14日間隔離中であまり作業もなく、夜は22時消灯だけど21時には寝てるとのことで睡眠はとれているようです。
周庭は過酷な運命でも前を向こうと頑張っています。
ご心配されている方々が、少しでも安心してくださいますように。

手紙を読むのが一番の楽しみだそうです。
応援の声を届けたい方は、関係者指定の私書箱宛にご送付ください。
周庭は日本語堪能だから日本語で大丈夫ですが、刑務所が検閲しますのでガイドラインを守らなかったり敏感な話題に触れると本人に届きません
送り先、ガイドラインは


AgnesChow周庭さんのTwitter
メジロに「足環(あしわ)」がついていました。

足環など標識のついた鳥を見つけたら」(山階鳥類研究所)
公園は土曜日ということもあって来園者が多かったです。
今日と明日の二日間イベントも開催されるようで、駐車場はいっぱいでした。

忽那賢志さんのTwitterに

感染症啓発を通り越して自身の趣味の領域まで昇華していたYahooくつ王の記事ですが、なんとオーサーアワードをいただきました。
しかも!羽海野チカ先生にイラストを描いていただきましたッ!
賞金までいただいたので羽海野先生と私からの医療従事者へのプレゼントという形で還元したいと考えてます。

 大阪歴史博物館のTwitterに

【きょうは何の日?】
12月19日 < 大阪に初空襲 > 1944年(昭和19)のこと。
この日未明、中河内郡三宅村(現 松原市)と瓜破村(現 大阪市平野区)に米軍機B29が爆弾を投下した。
大阪への初空襲で、2名の負傷者が出た。
翌1945年は、3月13日の空襲をはじめ大空襲が続き、市街は焼け野原になった。(ふ)
12月19日
 明徳(めいとく)の乱がおこった。 1391(明徳2)年

 この日の暮れ方、丹後(たんご)からの早馬が、山名満幸(やまなみつゆき)が叛乱(はんらん)をおこして京都に向かうという知らせを幕府にもたらした。
ついで山名氏清(うじきよ)挙兵(きょへい)の知らせもとどいた。
将軍足利義満(よしみつ)は予期していたかのように、すぐ諸将に出動を命じた。
決戦は12月30日、京都で行なわれた。
満幸は敗走し、氏清は戦死した。
世にいう明徳の乱である。
この叛乱は、じつは義満が氏清らを挑発してひきおこさせたものだった。
当時山名氏は山陰を中心に一族で11ヵ国の守護職を併せもち、六分の一衆とよばれた外様(とざま)の大大名だった。
義満はそれをおそれ、山名一族の争いを利用して、まず氏清・満幸に山名時煕(ときひろ)・氏幸(うじゆき)を討たせ、つぎに口実を設けて満幸を追放し、満幸・氏清を憤激させたのである。
山名氏はこの乱によって力を失い、義満は、その1年後、武家の統一をふまえて南北朝合体に成功した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
先人たちの底力 知恵泉
 「混乱の時代のリーダーとは? 足利義満~南北朝合一編~
でも取り上げられていたと思います。
室町人の精神 日本の歴史12』より「義満と細川頼之」を転記しますφ(..)
第1章 神々の戦い
 『明徳記』の世界
 義満と細川頼之


 一方、義満の武家の棟梁としての地位はどう変化したであろうか。
1368年(応安元)に11歳で将軍宣下をうけた義満は、その4年後に判始(はんはじめ)をおこなう。
判始とは将軍がはじめて政務文書に花押(判)をする儀式で、当時その年齢に達すれば花押が法的効力をもつとされた15歳におこなわれるのが普通であった(逆にいえば将軍であっても15歳になって判始をおこなうまでは政務にたずさわれないのである)。
義満の判始もこの慣習法にしたがったわけだが、これにより義満はようやく御判御教書(ごはんのみぎょうしょ)とよばれる将軍の政務文書をみずから発給できるようになり、しだいに細川頼之(ほそかわよりゆき)の補佐を脱していった。
(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)
 その頼之は79年(康暦<こうりゃく>元)におきたいわゆる康暦の政変でライバル斯波義将(しばよしゆき)によって政界から追放され、四国に逼塞(ひっそく)する。
寺社本所領保護に傾く管領頼之の政策が国内に多数の寺社本所領をかかえる畿内近国守護の反発を招いていたところへ、斯波義将の分国越中でおきた頼之所領への守護代乱入事件などが重なって幕府を揺るがす一大政変に発展したのだが、この政変の結果、細川一門はもとより、九州探題(きゅうしゅうたんだい)今川了俊(いまがわりょうしゅん<俗名貞世(さだよ)>)をはじめとする細川与党の大名たちも勢力を失い、かわって土岐頼康(ときよりやす)・山名時義(やまなときよし)・大内弘世(おおうちひろよ)などの斯波与党が躍進することとなった。
 斯波義将の圧力に屈したためとはいえ、恩人である細川頼之を討伐の対象としてしまったことをさすがの義満も悔やんだらしく、89年(康応<こうおう>元)3月に義満は頼之との関係を修復すべく厳島参詣(いつくしまさんけい)をおこない、その途上、頼之との対面をはたしている。
 この乱の顚末(てんまつ)を記録した軍記物に『明徳記(めいとくき)』がある。
『明徳記』には、陣僧(じんそう)として戦場に従軍し、負傷者の介抱や戦死者の弔いにあたった時衆(じしゅう<時宗の僧侶>)が随所に登場する。
時衆といえば、将軍に近侍(きんじ)して身辺の世話や財政の管理に従事するとともに、茶や立花(たてはな)などの諸芸能を通じて室町文化に寄与した同朋衆(どうぼうしゅう<遁世者(とんせいもの)>)がよく知られており、『明徳記』も彼らの筆になるものと考えられている。
作者のもとには時衆のネットワークを通じて、戦場をまのあたりにした陣僧たちからの生々しい情報が寄せられていたのかもしれない。
 『明徳記』によれば、義満は、かねてから幕府に反抗的であった時義を討伐しようと考えていたが、それをいざ実行に移そうとした矢先に時義に死なれてしまったため、「父祖の悪逆は子孫に酬(むく)ゆべき理」にしたがい、満幸・氏清に命じて時煕・氏之を討伐させたのだという。
けれども討伐を命じられた満幸・氏清も時煕・氏之と同じ山名一族である。
彼らはなぜ一族どうしで血を流しあわねばならなかったのだろうか。
(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)

山名一族については、この後、詳しく書かれていますので本を参照してください。
今朝の父の一枚です(^^)v

今日は、強風注意報が出ていて、曇り空だったのですが、
歩いている時は、ほとんど風が吹いていなくて助かりました。

土日 近畿北部は広く雪」(えりの気象日記 12月18日)