2020年12月6日日曜日

日曜日…

外出自粛の日曜日。
関西感染状況(6日午前0時)」(関西NHK)を見ていると
私の住んでいる市は滋賀(+6人)や和歌山(+5人)よりも昨日の感染確認者が多いです。
駐車場を見ると、先週の日曜日より車が少ないなと思いました。
公園では、父親が子どもを抱っこしたり、手をつないで散歩している姿をよく見かけました。
 岩波書店のTwitter

【今日の名言】
あなたがたの実力以上に有徳であろうとするな!
できそうもないことをおのれに要求するな!


――ニーチェ/氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』(下)

今、自分にできることは、人混みを避けてリハビリ散歩をすること。
でも、買い物に行くことは欠かせない…
米誌「ことしの子ども」にいじめ防ぐプログラム開発の15歳少女〟(NHK)

雑誌の表紙を飾ったギタンジャリ・ラオさんは
「私は科学者に見えないかもしれないけれど、
性別や年齢、肌の色によって役割が決められてしまうのはおかしい。
私ができるなら、誰でもできるはずです」
と話しています。

カマラ・ハリスさんを思い浮かべました。
次期大統領選では立候補するでしょうね。
そして、日本では天皇になった女性がいます(どちらかと言えば、嫌いなのですが(^_-)-☆)
12月6日
 持統(じとう)天皇が都を藤原宮(ふじわらのみや)に移した。 694年

 畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・天香具山(あまのかぐやま)に囲まれて奈良盆地の南部に位置する藤原宮は、都城制(とじょうせい)にもとづく日本最初の都である。
 条・坊・里によって東西南北に大路(おおじ)・小路(こうじ)が走り、王城をはじめ貴族の邸宅・寺院もととのえられ、この日、都移りが行われた。
 都の主は持統天皇。
壬申(じんしん)の乱の勝利者として律令体制の基礎を固めた天武(てんむ)天皇の皇后で、この都移りの8年前、天皇の死とともに女帝となった人である。
藤原宮は持統・文武(もんむ)・元明(げんめい)天皇の三代にわたり、710年の平城遷都(へいじょうせんと)まで都となった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
 〝絵あわせ百人一首「春過ぎて…」〟(Eテレ「にほんごであそぼ」)
Eテレの「にほんごであそぼ」はかなりレベルが高いですよ(^^)v

萬葉集に歴史を読む』より持統天皇(鸕野皇后)について転記しますφ(..)
第4章 持統太上天皇晩年の三河行幸
 一 天武の皇后から大内陵に葬られるまで


 鸕野(うの)皇后は大海人皇子(おおあまのおうじ)の妃の一人だった。
大海人皇子が大津宮を去って吉野にこもったとき、大海人に従ったのは鸕野皇女だけだったとみられる。
正妃の立場にあったのは確かだろう。
(『萬葉集に歴史を読む』森浩一 ちくま学芸文庫 2011年)
 672年に吉野を脱出した大海人と鸕野皇女は行動を共にした。
やがて壬申の乱が始まると積極的に戦に関与し、その様子は「遂に興(とも)に謀を定む」と『日本書紀』に記している軍議にも加わったとみられる。
 大海人皇子は壬申の乱で勝利をおさめ、即位して天武天皇になり、鸕野皇女は皇后となった。
天武天皇が亡くなると実質的に政治を司った(称制<しょうせい>)。
  鸕野皇后は自分が大津宮で生んだ草壁(くさかべ)皇子を皇位継承者にしようと決心して、そのためもう一人の皇位継承者とみられていた、草壁皇子とは異母兄弟の大津皇子を謀反のかどで処刑してしまった。
このことに関しては前に説明した。
 すさまじい母性愛である。
だが鸕野皇后の期待通りには事は運ばす、病弱の草壁皇子(皇太子)は病死してしまった。
 草壁皇子が亡くなる直前に天武天皇を大内陵(おおうちのみささぎ)に葬ったので、持統天皇4年(690)正月に即位の儀式をおこない持統天皇が誕生した。
 持統天皇は高市皇子(たけちのみこ)を責任者として藤原宮の造営を開始した。
高市皇子も天武天皇の子であるが、母は筑前の豪族胸(むな<宗>)形君徳善(かたのきみとくぜん)の娘の尼子郎(あまこのいらつめ)である。
 ところで藤原宮の造営の発案者は、史料はないけれども天武天皇だったとみられる。
このようにして藤原宮の造営が進むなか持統天皇が伊勢行幸をおこなった。
伊勢行幸やその後の三河行幸については先で述べる。
持統天皇は696年に藤原宮に都を移し、その翌年に草壁皇子の子の軽皇子(かるのみこ)に譲位した。
文武(もんむ)天皇の誕生である。
軽皇子は即位したけれども持統は太上(だいじょう)天皇(のちの上皇)として政治に関与をつづけた。
 持統天皇は大宝2年(702)に亡くなった。
持統の生前の意思によるとみられるけれども、翌年12月に飛鳥の岡で火葬がおこなわれ、夫の眠る大内陵に合葬されている。
合葬は当時の夫婦がおこなうことを理想とした。
だが大内山陵(考古学でいう野口王墓)の石室は広くなく、もう一つの棺を納めることは無理である。
そのことから天皇として最初の火葬をうけることになったとぼくは考えている。
火葬で焼いた骨を蔵骨器にいれるので、遺体の嵩(かさ)が減る。
 二 『萬葉集』の持統天皇の歌

 自分の姉の子である大津皇子に謀反の罪をかぶさせて殺させた鸕野皇后(のちの持統天皇・太上天皇)ではあったが、やさしそうな歌を『萬葉集』にのこしている。
次の二首はぼくが少年のころ秀歌とおもった歌である。

   春過ぎて 夏来(きた)るらし 白妙しろたえ<栲>)の 衣乾(ころもほ)したり 天の香来山(28)

 解説ぬきで意味のわかる歌である。
標題に「藤原宮の天の下知らしめしし天皇の代」とあり、さらに細註として「高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、元年丁亥の十一年、位を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲る。尊号を太上天皇と曰(い)う」と書く。
香来山は浄見原から眺められるが藤原宮からの姿も美しい。
奈良盆地全体を南北に貫いて三道を計画するにさいしてこの山の頂上を、中ツ道が通過していて、ヤマトの臍のような聖なる山である。
   もう一つは236の歌で持統天皇の作と考えられている。
題詞に「天皇、志斐(しひ)の嫗(おみな)に賜う御歌一首」とある。

  不聴(いな)と云えど 強(し)ふる志斐のが 強語(しひがたり) このころ聞かずて 朕(われ)恋いにけり

  志斐は宮中に仕えた女官で通称だろう。
椎の実からついたのであろうか。
その年老いた女官は物識りでいろいろな話を天皇に聞かせた。
この歌にこたえた志斐の歌がすぐ後につづく(237)。
  不聴と謂(い)えど 話(かた)れ話れと 詔(の)らせこそ 志斐いは奏(もう)せ 強話(しひがたり)と言う

 私はいやだというのに語れ語れとおっしゃるから志斐はお話し申しているのです。
(それなのに)強話とは。 
(『萬葉集に歴史を読む』森浩一 ちくま学芸文庫 2011年)