2020年12月7日月曜日

いい天気が続き…

雲が浮かんでいないのが淋しくなるほどの青空です。
しばらく大阪は好天が続きそうです。
おススメの番組!
目撃!にっぽん「“空師”~吉野の山に生かされて~
空師という仕事があることを知りませんでした。
また、トチノキが高級木材だということも初めて知りました。

中平武さんの言葉)
この株(トチの切株)は50年でも残ってるよって、今度、このカシでも切りにきた子らがこれを見てくれるわ。
えらいところで切っとるわいうて、昔の人はすごいないうて。


(伝えられていくんですね)

うん!それでええねん。
これも吉野の歴史の中のほんの一部分やよって、俺らは。

栃[トチ]
 マロニエと同属の木。その削り肌のなめらかさは最高。
(前略)

 現代の私たちは栃が器に向く材だと知っているのだが、なんと今から5千年以上も前の縄文人も栃が器に向く材だと判断しており、しかもその栃の器に漆を塗っていたのだ。
福井の鳥浜(とりはま)貝塚や青森の三内丸山(さんないまるやま)遺跡などから、栃に漆を塗った作品が出ている。
栃は材が均質で滑らかなので、漆が塗りやすいと職人仲間からはいわれている。
とはいえ、私も自分で栃に漆を何度も塗った経験からわかるのだが、うまく削って初めて滑らかになるわけで、下手な人がガサガサに削ったのでは、いかに栃とはいえ、漆がうまく乗らない。
栃の木地に赤や黒をはじめとした色漆をある程度厚く塗って木地が見えなくする塗り方もあるが、木地が見えるように塗る『摺漆(すりうるし)』も美しい。
特に『縮み』と呼ばれ、繊維が交互に波打ったような木目が出ることがある。
この『縮み』の材にうまく『摺漆』で仕上げると、3~5ミリごとにある縮みの模様が、光の当たる角度により微妙な反射の仕方をし、キラキラと輝く。
(後略)
(『森の博物館』稲本正 小学館 1995年)
 岩波書店のTwitter

今日は与謝野晶子の誕生日(1878年)。
『みだれ髪』で歌壇に新しい流れを導き、歌人・詩人として活躍。
婦人問題を軸に社会・政治・教育問題等に旺盛な評論活動も展開しました。
岩波文庫
与謝野晶子歌集は晶子自選。
12月7日
 大隅(おおすみ)・薩摩ではじめて班田(はんでん)が行われた。 800(延暦<えんりゃく>19)年

 律令国家の行った班田制は、とかくはじめから全国いちように行われたように考えられやすいが、そうではない。
大隅・薩摩(鹿児島県)のような辺境地方には、国家の支配力がなかなかゆきわたらず、奈良時代を通じても、田地は墾田(こんでん)ばかりで、班田の対象になる国有の田地はなかったらしい。
 大隅・薩摩では、この日ようやく百姓の墾田が収公(しゅうこう)され、それを口分田(くぶんでん)として班給(はんきゅう)することが行われた。
もちろんそれもどの程度の範囲で実施されたのかは定かでない。
 「熊襲(くまそ)・隼人(はやと)」は大和王権によって服属が進められ、8世紀はじめの隼人の叛乱以後は完全に律令国家に統合されたといわれるが、律令制が本当にゆきわたるということは容易ではなかったのである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
飛鳥の朝廷と律令国家の形成」(NHK 高校講座日本史

平安遷都と律令制の変容」(NHK 高校講座日本史

 歴史の授業で「班田収授法」や「平安遷都」などを習うと、言葉や年号だけで知っていて、当時の民衆の暮らしを知らずにいます。
日本の歴史4 平安京』より「軍事と造作」を転記しますφ(..)
平安京の建設
 軍事と造作


 桓武朝はその内政の部面に、これまでのべてきたような難問題をかかえていた。
律令国家の基礎というべき公民制は、浮浪人の続出で致命的ともいうべき打撃をうけており、土地制度における公地主義も、庄と治田(既墾地)の拡大と口分田の荒廃のために大きくゆらいでいる。
それでも、桓武とその政府はなかなか強気であった。
(『日本の歴史4 平安京』北山茂夫 中公バックス 昭和45年)
 平安京の造営は、遷都以後ずっと続行されていた。
795年(延暦14)中にやっと大極殿が竣工し、翌年の元旦には、天皇はそこで公卿以下百官人の朝賀をうけることができた。
その7月に、造宮職(ぞうぐうしき)の官位を中宮職に準じることにした。
そして797年(延暦16)3月(農月である)には、遠江(とおとうみ)・駿河(するが)・信濃(しなの)・出雲(いずも)などの国から雇夫2万40人を徴発し、さらに翌々年の12月にも伊賀(いが)・伊勢・尾張(おわり)・近江(おうみ)・美濃(みの)・若狭(わかさ)・丹波・但馬・播磨・備前・紀伊(きい)などの国に命じて役夫を差しださせている。
いずれも平安宮を造るためであった。
これらの事実から判断すると、平安京の内裏のなかの建造物は、まだ完成していないものがあったようである。
その間に、造宮の作業にしたがっていた飛騨工(ひだのたくみ)の逃亡があいつぎ、政府は諸国に命をくだして逮捕せねばならぬという事態になった。
796年の暮れのことである。
 雇役という形式での農民の徴発も、記録にはでてこないので天平時代の多くの先例から推測であるが、おそらくスムースにはゆかず、この労役の部面でも逃亡者が続出していたのであろう。
平安宮ないしその京の造営がはかばかしく進捗しなかったのは、財政難・蝦夷攻伐とのかねあいなどの事情もあったが、おもな素因はやはり諸国の農民の抵抗であった。
それは逃亡という行動をとるのがふつうであった。
 浮浪人の問題も、政府による必死の抑制にもかかわらず悪化の一途をたどったらしく、東国では、前章でふれたように、802年(延暦21)に4千人にものぼる浮浪人を新設の胆沢城(いさわじょう)下に移送して柵戸(さくこ)にしている。
  そのころ、東国でこういう事件がおこっている。
上総(かずさ)国諸郡の百姓(ひゃくせい<このばあいは地方民の代表としての有力農民>)が、東海道問民苦使(もみくし)につぎのように陳情したのである。
 「わしらが計帳(調・庸の台帳)作製のときに集まっていると、官人らはわしらを人夫にして正倉を修理させる。そのために男女老少みなことごとく労役につくことになった。六月の端境期(はざかいき)のこととて食いしろがろくにない。空腹をかかえてかけずりまわり、食いぶちはいっこうもらえない。作業はもう十日以上にもなった。せめて食料だけは与えてもらいたいものだ」
  そしてやっと、こういうばあいには今後食料だけは出されることになった。
 また、諸国の溝池などの治水状況もたいへん劣悪になっていた。
政府は、国司にたいして年ごとに溝池についての精細な報告をもとめ、交替のさいにもこの点についてとくに検証をくわえさせた。
そして、溝池の修理はかならず地方民の徭役(ようえき<雑徭>)によるべきことを指令した。
 799年8月には畿内諸国の土地調査がおこなわれたが、その直後に実施されるはずの班田収授についてはあきらかでない。
しかしその翌年には、大隅(おおすみ)・薩摩2国で、はじめて全面的に班田が施行された。
桓武の、東北だけではなく西南の辺境への強固な態度がたやすく看取できよう。
そしてつぎの年に、政府は法令をだして、今後、班田収授は「一紀(12年)一行」とすることを声明した。
これは法典に明記され、まがりなりにもどうにか守ってきた6年ごとの班田収授を、そのまま維持するだけの能力をほとんど失っていることを物語るものである。
 桓武とその政府は、あらゆる部面に現われた渋滞と破綻にもかかわらず、「造作」と「軍事」を強行しようとしていた。
804年(延暦23)に、天皇は刑部卿(ぎょうぶのかみ)陸奥出羽按察使(あぜち)坂上田村麻呂をふたたび征夷大将軍に任命した。
その5月は斯波(しわ)城と胆沢郡(801年に攻略したこの地域に早くも郡制がしかれている)とのあいだに駅が新設されることになった。
しかし、田村麻呂は東下することなく翌年にいたり、6月に参議に抜擢されている。
(『日本の歴史4 平安京』北山茂夫 中公バックス 昭和45年) 
今朝の父の一枚です(^^)v
シャリンバイを写していました。
父が小学校1年の時に亡くなった父親は大島紬を作っていたそうです。
泥染めにシャリンバイを使うことなどについても教えてくれます。