2020年12月18日金曜日

気温が低くても…

今朝も気温が低かったですが、風がほとんどなく助かりました。

古タイヤ、木炭、わら。
これらを使って各気象台ではあるものの観測を行っています。


なんだと思いますか?
なるほどと思いました(*´▽`*)

近畿北部 18日の夜以降再び雨や雪」(えりの気象日記 12月17日)
公園で旗をもっている方が先頭だったので老人会の団体さんかな?。
この時期、集団行動は、すごいなぁ…

坂本史衣さんのTwitterに

都内では入院患者の半数以上が60代以上ですが、最近は80代以上の入院が増えています。
それ以外は基礎疾患のある方や症状の強い方が多いです。
夏のころのように、若くて軽症で自立している方は少ないです。
12月8日
 シーボルトが長崎出島(でじま)にとじこめられた。 1828(文政<ぶんせい>11)年

 この日、徳川幕府は、オランダ商館医師シーボルトを出島にとじこめ、きびしいとりしらべをはじめた。
シーボルトは5年間の日本滞在をおえ、たくさんの研究資料をみやげに帰国する直前であった。
ところが、8月9日夜の猛烈な台風で難破したハウトマン号の積荷から、国外にもちだすことを禁ぜられていた日本地図などがみつかり、その持主がシーボルトであることがわかった。
このために、彼に地図を送った幕府天文方(てんもんかた)高橋景安(かげやす)など、日本人多数も処罰され、シーボルトも翌年9月に、「二度と日本に来てはならぬ」といいわたされ、やっと12月5日に帰国をゆるされた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
シーボルトについて『欧米人の見た開国期日本 異文化として庶民生活』より一部を、
シーボルト事件の後、10年ほどして起きたのが蛮社の獄です。
当時の蘭学のことなどについて『日本の歴史18 開国と幕末変革』より転記しますφ(..)
第4章 男尊女卑うらおもて
 1 蓄妾のすすめ

(前略)
幕府は、同じ長崎の丸山遊郭の遊女にかぎって右の両所(オランダ商館、長崎唐人屋敷)への出入りを許し、彼らの孤独を慰めさせたのであった。
そうした遊女の中でもっとも有名なのが、シーボルトの「現地妻」お滝(たき)さん(のちに楠本<くすもと>姓をえる)であろう。
彼女はもと丸山遊郭引田屋の、源氏名を其扇(そのぎ)と称する遊女であったが、シーボルトと同棲(どうせい)するにおよんで本名に戻った。
彼女はシーボルトとのあいだに、いねと名づけた一女をもうけた。
このいねが、のちにシーボルトの日本の弟子たちに教えをうけて、日本における西洋医学を修めた女医の第一号となる。
彼女は1873年(明治6)に産科医として宮中御用を果たしたのち、1877年(明治10)にいったん長崎に戻るが、82年(明治15)に再び宮中に出仕、1903年(明治36)に麻布狸穴(まみあな)で生涯を閉じた。
享年77歳。
お滝はすでに1869年(明治2)に63歳で他界していた。
(『欧米人の見た開国期日本 異文化として庶民生活』石川榮吉 角川ソフィア文庫 2019年)
 シーボルトは、いわゆる「シーボルト事件」によって、日本からの永久国外追放の処分をうけたが、1858年(安政5)に日蘭通商条約が結ばれるにおよんで追放を解除され、その翌年には正妻とのあいだにもうけた長男アレクサンダーを伴って再来日した。
これによってシーボルトは、お滝やおいねと再会を果たした。
このときシーボルトは64歳、お滝53歳、おいね33歳であった。
 ここまでならば、シーボルトの「現地妻」物語もまだ良かったのであるが、残念ながら後日談がある。
シーボルトは64歳という年齢にかかわらず、精力家というか、好きものというか、約2年間の再滞日中に、4人の愛人をつくったというのである。
(後略)
(『欧米人の見た開国期日本 異文化として庶民生活』石川榮吉 角川ソフィア文庫 2019年)
第3章 19世紀世界と天保の改革
 モリソン号事件と「蛮社の獄」


 1828年(文政11)、蘭学に貢献したシーボルトの帰国荷物のなかから、幕府天文方の高橋景保(たかはしかげやす)より贈られた日本地図など、多数の禁制品が発見されて「シーボルト事件」が起こる。
この事件については、すでに序章で述べたとおりである。
 1837年(天保8)6月、澳門(マカオ)を出港したアメリカ商船モリソン号が浦賀沖に停泊した。
非武装のモリソン号には、アメリカ貿易会社の支配人・宣教師・学者、そして音吉(おときち)ら漂流民7名が乗船しており、漂流民を変化して通商と貿易を求めようとしていた。
しかし、浦賀沖で無二念打ち払い令によって砲撃され、1発を被弾して退去。
7月には、薩摩藩山川(やまがわ)港に停泊し、藩士と応接したものの、ここでも砲撃され、澳門に引き返した。
日本人漂流民も故国を去った。
ちなみに、音吉はその後、上海でイギリスの大紡績商社デント商会に勤め、家族を持って定着し、イギリス海軍のスターリング提督の通訳として、十数年後に再来航する。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
 当時、西洋事情に関心を寄せていた蘭学者たちは、尚歯会(しょうしかい)というサークルをつくり、三河田原(みかわたはら)藩家老渡辺崋山(わたなべかざん)のもと、町の蘭医である高野長英(たかのちょうえい)や岸和田藩蘭医小関三英(こせきさんえい)ら蘭学者を中心として、川路聖謨(かわじとしあきら)や江川英竜(えがわひでたつ)らの幕臣、儒者、文人たちが集まっていた。
事件を知った崋山と長英は、それぞれ『慎機論(しんきろん)』、『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を著し、打ち払い令を批判した。
江戸湾防備など外国船対策をめぐっては、幕府のなかでも開明派の江川英竜と保守派の鳥居耀蔵(とりいようぞう)が対立していた。
そして、翌々1839年(天保10)、崋山ら蘭学者グループは、幕府儒家林家の実子、目付(めつけ)鳥居耀蔵を中心とする幕府の弾圧に際会した。
「蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)」である。
 『慎機論』は、19世紀のイギリスの国情を記し、「海船火技」の発達した科学技術に注目した書であり、『戊戌夢物語』は、打ち払いによって日本が「不仁(ふじん)の国」と見なされことを指摘し、外交を穏便に拒否することを述べたものにすぎない。
長英の『戊戌夢物語』は筆写されて流布し、幕臣でないものが幕政を批判した点が厳しく処断された。
渡辺崋山は在所蟄居(ざいしょちっきょ)を命じられ、やがて自殺。
崋山は西洋画も導入し、「鷹見泉石像(たかみせんせきぞう)」のような日本画史上にのこる傑作を描いた人でもあった。
高野長英は、永牢(えいろう)に処せられる。
脱獄して江戸や宇和島藩に潜伏し、『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』などを翻訳し、医業も営んだが、江戸に隠れ家で捕吏(ほり)に襲われて自殺した。
 『三兵答古知幾』の原書はプロシア将校ブラントの手になるもので、1837年に蘭訳が刊行された当時のヨーロッパ最新の軍事戦術書であった。
長英の訳業は死後版を重ね、その後の日本の軍制改革に重大な影響を与える。
  「在村の蘭学」の発掘

 日本の蘭学は一時、大きな被害を受け、頓挫(とんざ)したというのが学界の定説であった。
しかし、蘭学は、欧米の近代学問として、科学の精神や技術など、普遍性において学ぶところが多いことは明らかである。
頓挫論は、近代のもっている普遍性について過小評価している。
じつは蘭学は、村の蘭学として、蛮社の獄のあとも着実に発展を続けた。
1970年代以降、田崎哲郎氏や青木歳幸らによって、「在村の蘭学」が発掘されてきた。
 1800年前後から、全国に在村の医師がいちじるしく増える。
村の医師は村役人層から出ており、寺子屋の師匠を兼ねるものも多かった。
1804年(文化元)に紀伊国那賀郡西野村字平山(現、紀の川市)の医師華岡青洲(はなおかせいしゅう)が、「通仙散(つうせんさん)」(経口麻酔剤)による全身麻酔で乳ガンの摘出手術に成功すると、漢方と蘭法を折衷した実証的な華岡塾には、全国各地から門人が殺到した。
青洲は藩の招きを辞退し、終生在村の医師を続け、門人の数は壱岐(いき)と松前(まつまえ)を除く全国1883人に及んだ。
近代的医学が、地域村々で切望される時代だったのである。
  杉田玄白(すぎたげんぱく)と大槻玄沢(おおつきげんたく)、前野良沢(まえのりょうたく)に学んだ美濃大垣(みのおおがき)の蘭医江馬(えま)家が開いた美濃で最初の蘭学塾好蘭堂(こうらんどう)には、名声を聞いて、明治はじめまでに331人が南は豊後(ぶんご)、北は武蔵(むさし)から入門している。
入門者は、蛮社の獄の後、1840年代からかえって増える。
1849年(嘉永2)に長崎に入港したオランダ船が出島蘭館医モーニッケの依頼で運んできた牛痘(ぎゅうとう<種痘(しゅとう)に用いる牛の疱瘡(ほうそう)>)は、モーニッケ苗(びょう)として、待ち望んだ各地の蘭医によって日本全国へ伝えられるが、江馬家へは、早くも同年末に京都の蘭医から届けれた。
 越前(えちぜん)藩では、町医笠原良策(かさはらりょうさく)が「村次伝苗(むらつぎでんびょう)」という方式を考案し、村から村へと領内すみずみまで種痘がもたらされた。
鳥取藩でも医師グループが地域分担して、藩内くまなく種痘廻村が実施される。
  この他「在村の蘭学」は、岩代(いわしろ)国の蚕種(さんしゅ)製造家が1843年に自力で華氏(かし)寒暖計をつくり、『蚕当計秘訣(さんとうひけつ)』を著したし、土浦の町医は地球儀と渾天儀(こんてんぎ)を作製するなど、さまざまな発展をみせた。
青木歳幸氏は、幕末には地球説や地動説が民間にまでひろく浸透していたと指摘している。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
私の写したモズよりも綺麗に写しています(^^ゞ