2020年12月25日金曜日

黒い雲が覆ったけど…

雨があがって青空が見えると思っていたら、急に黒い雲が広がってきました。
そでも崩れることなく、歩いているうちに体がポカポカしました。

25日 冬らしい天気」(えりの気象日記 12月24日)
又吉直樹のヘウレーカ!「イチョウは臭くてもなぜ愛される?」を見ていると

東京大学付属小石川植物園「精子発見のイチョウ
平瀬作五郎によって明治29年に精子があることを突き止められた。
その精子があるのは雌株なんです。
(「精子が泳ぐ イチョウの不思議」NHKミクロワールド)

ヨーロッパには日本から1693年(鎖国時代)医師ケンペルによってオランダへ
数十年でヨーロッパ全土へ広まったそうです。

ゲーテの詩が紹介されていました。
ギンコー・ビロバ」(1815年より抜粋)
おまえはもともと一枚の葉で
自身を二つに裂いたのか?
それとも二枚の葉だったのに
寄り添って一つになったのか?
そうかおまえも
私の詩から思うのか
一人の私の中に
二人の私がいることを

(「イチョウ 奇跡の2億年史」ピーター・クレイン著 矢野真千子訳 河出書房新社 2014年)
昨日、デパートの地下食料品売り場に行くと、買い物客で溢れていました。
特に、鶏肉屋さんのところがいっぱいでした。
クリスマス用に買っておられたようです。
今年は、家でクリスマスを楽しまれる方が多いと思います。

名曲アルバムでドイツ民謡「もみの木」が紹介されていました。
もみの木に対する思いは、日本人の松や椿などへの思いに通じるなぁと思いました。

ドイツでは生命力と堅実さの象徴として親しまれてきた。
この民謡は、どっしり揺るがぬ
もみ木の姿をたたえている。
「おおクリスマスツリー」の題名で英訳されて以来、
聖夜の歌として世界中で愛唱されるようになった。
クリスマスツリーを飾る習慣は、ドイツ生まれ。
根元には家族みんなのプレゼントがすべて集められる。
父親の合図でいっせいに包を開ける
クリスマスイブは家族と過ごす大切な時間
決してぜいたくではないが心のこもった手料理が並ぶ。
質素におだやかに過ごすのがドイツのクリスマスである。
聖夜が明けると、日は少しずつ長くなる。
人々の表情にも明るさが増す
厳しい冬を黙って耐え忍ぶ、もみ木
寒さはこれからが本番だが、その先には、光あふれる春が待っている。

 安田菜津紀さんのTwitterに

安倍首相の、ごく限られたメディアしか入れない「会見」。
知らなかった、”結果的に”事実とは違う答弁をした、責任を痛感、とこれまで繰り返されてきた言葉がまた上塗りされていく。
責任は「痛感」するものではなく、「とる」そして「負う」ものだと思う。


「美しい」日本語をこれほどねじ曲げた人はいるのかな?
これから子どもたちは、学校などで注意された時に「痛感」しますと言えば、態度を改めなくてもいいと言うだろうな。
12月25日
 志賀潔(しがきよしが赤痢菌(せきりきんを発見した。 1897(明治30)年

 27歳の新進気鋭の細菌学者、志賀潔がこの日『細菌学雑誌』に「赤痢病原研究報告」を発表して学界の注目を集めた。
この年は全国各地で赤痢が大流行した。
6月から12月上旬までに約9万人の赤痢患者が発生し、そのうちおよそ2万人以上が死亡した。
伝染病研究所に勤務していた志賀潔は、北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)の指示を受けて、赤痢の研究に全力をつくした結果、ついに病原菌をつきとめることができた。
のち、志賀はドイツに留学し、世界的免疫学者のパウル・エールリッヒについて学び、睡眠病(すいみんびょう)としておそれられていたアフリカのトリパノゾーマ病の化学療法を発見するなどの業績をあげた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
赤痢菌と志賀博士 新潟・東京」(NHKアーカイブス 1951年)

病が語る日本史』より赤痢菌と志賀潔について転記しますφ(..)
 十 長い歴史をもつ赤痢

 赤痢は、中国やギリシア、エジプト、インドなど古代社会ではすでに頻発していた。
この時代に他の下痢症と赤痢を区別できたのは、赤痢の病名のとおり、便に血や膿(うみ)が混じるからである。
このほか、赤痢では発熱、排便直後に便意をもよおし、トイレから離れられない「裏急後重(りきゅうこうじゅう)」と呼ぶ症状が特徴である。
また、いつまでも下腹が痛むために、江戸時代に赤痢をシブリバラとも呼んでいた。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
 赤痢は現在も多い。
とりわけ飢饉(ききん)や大災害、戦争による避難民の間で爆発的に発生することがある。
 しかし、赤痢はコレラやペストのように一気に全国流行することはないが、抗生物質が登場するまで、毎年、流行を繰り返してきた。
そのため長い間に膨大な患者が発生した。
人類の歴史をみると、被害がもっとも大きな疫病といえる。
 1 赤痢菌と志賀潔

 赤痢の原因が明らかになったのは赤痢菌が発見された19世紀末である。
それを発見したのは志賀潔(しがきよし<1870~1957>)であった。
 明治28年(1895)の日清戦争大勝利に酔っていた陰で、赤痢が爆発的に流行していた。
 明治26年、戦時中の27年に毎年15、6万人と発生し、明治29年から再び増加の兆しが現れて、全国に蔓延(まんえん)し、猖獗(しょうけつ)を極めていたのである。
 志賀潔は明治29年に東京大学を卒業して、伝染病研究所に入った。
そこで北里柴三郎から与えられた研究課題が赤痢菌の研究であった。
それから1年足らずの明治30年赤痢原因菌を発見して、ただちにドイツの雑誌に報告した。
 この発見は日本人による世界的業績が極めて稀(まれ)な時代に行なわれた。
そのころ、ナショナリズムが擡頭(たいとう)してきていたから、この偉業は人々の心をとらえ、広く世に喧伝(けんでん)されたのである。
 その後、赤痢菌にいろいろな型が発見されたが、学会はそれらをまとめた赤痢菌全体の学名を志賀の名前にちなんで、「 Shiga bacillius 」と名づけている。
 ところで、赤痢には志賀潔が発見した赤痢菌でおこる細菌性赤痢と、赤痢アメーバによるアメーバ赤痢とがある。
 明治9年からとり出した伝染病統計によると、細菌性赤痢の患者数は、小児の疫痢を含めていつも上位の座にあった。
それで、明治13年に伝染病予防規則が公布されたとき、6種類の法定伝染病のひとつになったのである。
 戦後に入っても、その数は減らず、昭和27年、28年ですら、患者数は10万人を超えていた。
死亡率も、抗生物質が出回っていた昭和27年で17パーセントを超えていた。
恐ろしい病気であった。
 アメーバ赤痢は熱帯、亜熱帯の広い範囲で発生している。
保菌者から出た排泄物(はいせつぶつ)に汚染された飲料水、食品、手指から経口的に感染する病気で、軽症の時は軟便、便通が不規則の程度であるが、アメーバ赤痢の重症者ではいちごゼリー状の血便が出る。
感染者のほとんどが保菌者になる。
発病しないが、感染源となる。
近年、国内の発生は壮年の男性層にふえている。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
今朝の父の一枚です(^^)v

いつも新聞受けから朝刊を取ってきてテーブルに置いている。
第一面にでかでかと載っていたのが前首相。
新聞を見るなり、自民党支持者の父なんだけど顔も見たくないといって伏せました。