2020年12月23日水曜日

雨が降ったようです

道路が少し濡れていました。
クスノキの下などは乾いていたので夜中にお湿り程度の雨が降ったのかな?
乾燥注意報が続いていたので、空気が澄んでいるように思えます。
明日は、雨が降るかもしれないそうですが…
公園では、紅梅がポツポツと咲いていた。
これから寒さが厳しくなるのだけどなぁ…

23日も晴れるが乾燥注意 次の雨は?」(えりの気象日記 12月22日)
 Shoko EgawaさんのTwitterに

専門家が示した助言や選択肢から、責任持って施策を判断をし、実行するのはが政府の責任で、
支持率下がったり、批判が高まると、「専門家が」「専門家が」と言うのは、
まったくもって無責任としか言いようがない。
専門家のせいではなく、あなたの判断のせい。

再び、Shoko EgawaさんのTwitterに

そ、そ、そんなに!? 
「「桜を見る会」前首相 捜査情報と異なる答弁118回 衆院調査局 | 桜を見る会 | NHKニュース」

煩悩を祓う除夜の鐘は…
道徳の教科書に紹介していただきたい。
首相や大臣になると部下に責任を押しつけることができるよと!
勉強して偉い人(?)になりなさいと!
「安倍前首相 不起訴の見通し 秘書は略式起訴へ 東京地検特捜部」(NHK)
12月23日
 東京タワーの落成式が行われた。 1958(昭和33)年

 333メートルの世界一の高さを誇る鉄塔――東京タワーの落成式が、この日行われた。
4千トンの鋼材、のべ20万人の労働力を投入して、2年半の歳月の末に完成したのだった。
翌日から一般に公開されたが、朝早くから小・中学生たちが一番乗りを競って列をつくった。
朝のうち曇っていた空も晴れて、地上150メートルの展望台からは真白い富士がはっきり望めた。
夜になると、東京タワーのライトはイブの夜空を飾るクリスマス・ツリーのように見えた。
この塔は、東京都内各テレビ局の送信アンテナを集約するとともに各種の超短波・極超短波の送受信設備を収容している。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
東京タワー完工式」(NHK 素材)

一般公開された東京タワー」(NHK 素材)

二代目の通天閣も内藤多仲氏の設計です。

通天閣 新世界に蘇った大阪のシンボル」(NHK みちしる 2011年)

通天閣 資料館

かつてNHKで「プロジェクトX 挑戦者たち」(2000年~2005年)という番組がありました。
そのなかで東京タワーが取り上げられていました。
プロジェクトX 挑戦者たち 4 男たちの飽くなき闘い』より
東京タワー恋人たちの戦い~世界一のテレビ塔建設・333メートルの難工事」の最後「人々のその後」を転記しますφ(..)
東京タワー恋人たちの戦い~世界一のテレビ塔建設・333メートルの難工事

 (昭和33年10月14日午後3時47分、大アンテナが地上333メートルに固定された。
この瞬間、世界一の電波塔が誕生した。
当時の東京・芝の周辺には高い建物がなく、空に向かって一際高く東京タワーが立った。)

 人々のその後

 電波塔一本化を推進した浜田成徳(郵政省電波監理局長)は、東京タワー完成により所期の大目標を達成したのち郵政省を辞し、その後は日本科学技術情報センター理事長、東京女子大学理事長などを歴任した。
(『プロジェクトX 挑戦者たち 4 男たちの飽くなき闘い』NHK「プロジェクトX」制作班編 日本放送出版協会 2001年)
 日本電波塔株式会社初代社長の前田久吉は、昭和33年に産経新聞の経営から退いたのちも、航空・銀行・地域開発等さまざまな分野での事業に関係して経済界に重きをなした。
しかし、東京タワーには社長・会長として終生かかわり続け、「東京タワーをつくった男」と呼ばれるのを最も好んだという。
 東京タワーの設計者・内藤多仲(早稲田大学名誉教授)は、その後も、現役の設計者として活躍し、早稲田文学部校舎、博多タワー、新宿区役所などの作品を残した。
昭和35年学士院会員、昭和37年には文化功労者顕彰を受けた。
 内藤を助けて東京タワーの構造設計に明け暮れた鏡才吉(日建設計)は、その後、製鉄所など大規模施設の設計を多く手掛けた。
 東京タワー建設の作業所長を務めた池田末造(竹中工務店)は、タワー完成の翌年(昭和34年)に定年退職した。
同年、亡妻千鶴子のために、自宅のある初台からほど近い明大前(杉並区)に墓を建てた。
いつでも墓参に行けるようにと思ってのことだった。
 鳶の親方・増田英男は、その後も若い衆を引き連れて現場に立ち続けた。
どこへ行っても、相変わらず「バカヤロー」を連発し、しかしみんなに慕われ続けた。
増田を知る者はだれもが、いまも心からの敬愛を込めて「増田のオヤジ」と呼ぶ。
 現場監督・竹山正明(宮地建設工業)は、その後も現場で実績を積み重ね、ニュージーランドでの仕事も経験した。
宮地建設工業専務を経て引退、現在は最愛の妻・亮子と京都府で静かに暮らしている。
 亮子は、タワー完成を伝える竹山の手紙を受け取って、嬉しさのあまり泣き出したことを、昨日のことのように鮮明に覚えている。
自分の夫となる人が東京タワー建設に携わっていることは、友達にも言ったことはなかったが、「でも、心のなかでは本当に誇りでした。自慢でした」と言う。
竹山から送られてきた手紙は、すべて大切に保管している。
数えたことはないが、100通以上あることは確実だという。
「これは私の宝物。私が逝くときには、お棺にいっしょに入れてね」と娘さん二人には前から伝えてある。
 アンテナ据え付け完了の翌日にめでたく祝言を挙げた鳶のボーシン桐生五郎は、その後どうなったか。
もちろん、増田のオヤジに従って各地の建設現場を転々とする生活は変わらないが、以前と違うのは、新妻のみさをもいっしょだったことである。
みさをは飯場を任され、30人からの若い衆の面倒を見ることになった。
最初はこわくて仕方がなかった職人たちも、やがて気のいい連中だとわかり、しだいに飯場の暮らしが楽しくなった。
長男は九州・若松、長女は埼玉・川口、次男は東京・板橋と、みんな仕事先で産んだ。
子どもの面倒は、もっぱら若い衆がみたようなもので、五郎もみさをも自分で抱いてやったことはほとんどない。
長男が小学校にあがるのを機に家を建て、みさをの飯場めぐりは終わったが、そのときは本当に寂しかったという。
  この間に五郎は仕事の力をつけていた。
首都高速の仕事が認められ、増田英男から「お前、やってみろ」と品川の火力発電所の仕事を任されたのは、30歳のころである。
ボーシン五郎は、ついに「親方」として差配を振う立場にのぼったのである。
「俺なんか幸せなほうだよね。いい仕事をさせてもらって、気に入った女を嫁さんにもらって。世界一はちょっと言い過ぎだが、世界三ぐらいの幸せ者じゃないかね」
 まだまだ元気で、軽口の飛ばない日はない五郎だが、これは本音のようである。
 東京タワーの構想・建設にかかわった者のうち、少なからぬ者が物故したいま、東京タワーは歴史になった。
いや、それは正しくない。
東京タワーはいまも現役であり、今日も東京の空に高々と立っているのである。
(『プロジェクトX 挑戦者たち 4 男たちの飽くなき闘い』NHK「プロジェクトX」制作班編 日本放送出版協会 2001年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ビワの花は蜜が少ないようで、ジーッとしてくれません。
コンデジで写すのには葉が邪魔してなかなかピントが合わない。
今朝は、うまく撮れたと喜んでいました(^^♪